秘密のキッチン特訓最終日
文化祭前夜。星和高校が明日の開幕を控えて熱狂の余韻に包まれている頃、水瀬家のキッチンには、それとは対照的な、凛とした静寂と集中力が満ちていた。
私の両手の指を覆っていた不恰好な絆創膏は、今はもう残り2枚。数えきれないほどの「黒焦げの炭」を錬成し、そのたびに湊兄さんを絶望の淵へと突き落としてきた特訓の日々も、今夜がいよいよ最終日だ。
「いい、みゆ。今夜は私はもう一言も口出ししないし、手も貸さないわ。これまで私が教えたこと、全部、自分の感覚として出し切ってみて」
お姉ちゃんがエプロン姿で腕組みをし、一歩引いた特等席で見守っている。その眼差しは厳しい師匠のようでもあり、同時に妹の成長を心待ちにする慈愛に満ちていた。私は深く、肺の奥まで空気を吸い込み、最初の一卵をボウルの縁に当てた。
……パカッ
キッチンに響いたのは、乾いた、軽やかな音。
これまでは殻を粉砕するかのような力任せな割り方だったけれど、今は違う。繊細な力加減で黄身を傷つけることなく、透明な白身がスルリと、宝石のようにボウルに収まる。私は、かつての自分を縛り付けていた「塩小さじ1」という、初心者が陥りがちな狂信的な呪縛をようやく解き放っていた。
(小さじの数字じゃない。指先に伝わる、この重みの感覚……)
「お砂糖は大さじ1……お塩は、少々。……よし」
人差し指と親指で慎重に、まるで小さな種を蒔くように塩を摘む。
コンロのスイッチを入れ、フライパンに火を灯した。キッチンペーパーに含ませた油を、隅々まで薄く、均一に引いていく。火加減は「中火」。これまでの私は「早く結果を出したい」という焦りから強火一点張りで、食材を焼くのではなく「戦わせて」いたけれど、今夜はフライパンの表面から立ち上がる熱気の揺らぎを、驚くほど冷静に見つめていた。
溶き卵を三回に分けて流し込む。
ジュワッ、という耳に心地よい音が響き、卵液が熱を得てふっくらと波打つ。固まり始めた縁を箸でそっと持ち上げ、手首のスナップを利かせて巻いていく。一度目、二度目……。回を重ねるごとに、黄金の層が厚みを増していく。
「……あ」
まな板の上、さらに盛り付けたお皿に転がったのは、これまでの「漆黒の立方体」ではなかった。
ふんわりと白い湯気を上げ、切り分けた断面からは黄金色の出汁がじゅわっと染み出してくる。焦げ目ひとつない、完璧な「黄金色の卵焼き」がそこにあった。
「みゆ、すごいわ……! ちゃんと層になって巻けているし、色も本当に綺麗よ。……合格ね」
お姉ちゃんが自分のことのように声を弾ませ、私の肩を優しく、力強く叩いてくれた。その温かい手のひらの感覚が、不安で震えそうだった背中をしっかりと支えてくれる。
卵焼きという最初の壁を乗り越えた達成感に浸る間もなく、私は次なる工程へと進んだ。キッチンの室温は、二つのコンロから上がる熱気でじわりと上昇している。額に浮かんだ汗を、右腕の筋肉痛をこらえながら拭った。
「次は、お味噌汁ね。出汁がすべてよ」
お姉ちゃんの静かな助言が、私の集中力をさらに研ぎ澄ませる。
私は銀色の鍋に張った水の中に、昨日から浸しておいた煮干しを手に取った。これまでは面倒でそのまま放り込んでいたけれど、今は違う。頭を外し、腹を割いて、苦味とえぐみの原因となる黒い内臓を丁寧に、指先で取り除いていく。
鍋を火にかけ、沸騰直前で煮干しを引き上げる。立ち上る香りは、以前の「魚臭さ」ではなく、海の滋味が凝縮されたような深く澄んだ香りに変わっていた。
「火を止めてから、お味噌。……香りを殺さないように」
お玉の中でゆっくりとお味噌を溶き入れていく。濁りのない、美しい琥珀色のお味噌汁。一口味見をすると、じんわりと五臓六腑に染み渡るような優しい味がした。
そして、いよいよ今夜のメインディッシュ、最大の難関であるハンバーグに取り掛かった。
ボウルの中には、飴色になるまで炒めて冷ましておいた玉ねぎと、牛豚合い挽きの挽肉。私は両手を深くボウルに沈め、肉の冷たさに一瞬肩を震わせながらも、一気に捏ね始めた。
「空気を抜くのは、キャッチボール。優しく、でも確実に。……リズムが大事よ、みゆ」
お姉ちゃんの指導を脳内で再生する。右の手のひらから左の手のひらへ、肉だねを勢いよく打ち付ける。
「ペチッ、ペチッ」という規則正しい音が、静かなキッチンに響き渡る。
初日はただ叩きつけるだけだった。でも今は、掌に伝わる肉の弾力と粘り気が、少しずつ変化していくのが分かる。バラバラだった挽肉が、一つの意思を持ったかのようにまとまり、表面に艶やかな脂が浮き出てくる。
「……これだ。美味しくなる合図」
私は肉だねを二つの小判型に成形し、中央を軽く窪ませた。
フライパンに並べると、「ジューッ!」という爆発的な音が上がり、一瞬でデミグラスソースのような芳醇な香りがキッチンを満たした。
「……我慢、我慢。まだ裏返さない」
蓋をして、蒸し焼きにする。パチパチという細かな脂の弾ける音が重なり、肉の隙間から澄んだ肉汁が溢れ出す合図を待つ。時計の針が刻む音さえもどかしく感じる数分間。
意を決して蓋を開け、竹串をそっと中心に刺した。
そこから溢れ出したのは、一点の濁りもない、宝石のように澄み渡った肉汁だった。
「……できた」
目の前にあるのは、ふっくらと見事に膨らんだ、理想的な形のハンバーグ。
焦げ臭い煙に咽んでいた昨夜までの私とは、もう違う。
不器用で、何度も絆創膏を増やし、湊兄さんに「毒物」とまで言わしめた私。
けれど、今の私の前には、確かな愛情と努力が形になった、誇れる一皿が並んでいた。
「これなら……これなら明日、自信を持って届けられる。……陽太に」
私は大切にラップをかけ、明日への準備を整えた。あとは、この「作品」を、あの世界一辛口な試食係にジャッジしてもらうだけだ。
キッチンに並んだ三つの皿を眺めながら、私は高鳴る鼓動を抑えていた。あとは、この家の「最終審判」である湊兄さんの帰りを待つだけだ。
「ただいま……。おい、今日は妙に静かだな。火災報知器が鳴っていないどころか、玄関先までまともな料理の匂いがするぞ」
ガチャリとドアが開く音とともに、湊兄さんが極めて警戒心の強い野良猫のような足取りでキッチンを覗き込んだ。その手には、昨日買った胃薬の飲み残しが、まるで命綱のようにしっかりと握りしめられている。
「……みゆ。今日は何を作ったんだ。言っておくが、俺の胃壁はもう限界に近い。明日からの星和祭に支障が出るようなら、俺は今すぐコンビニへ走るぞ」
「失礼しちゃうわね! 兄さん、まずは座って。いいから、黙って食べてみて!」
私は自信満々で、黄金色の卵焼き、澄んだお味噌汁、そしてふっくらと焼き上がったハンバーグを兄さんの前に並べた。兄さんはまず、卵焼きの「色」を、まるで偽札を鑑定するかのような鋭い眼差しで検分した。
「……黒くない。茶色くすらない。……だと? もしかして、見栄えを良くするために中がまだ生のままなのか?」
「いいから! 毒なんて入ってないから食べて!」
湊兄さんは覚悟を決めたように、一切れの卵焼きを箸で持ち上げ、口に運んだ。
……沈黙。兄さんの喉が動き、咀嚼する音が静かなキッチンに響く。
お姉ちゃんと私は、息を呑んでその横顔を見つめた。
「…………っ」
「ど、どうなの?」
湊兄さんはゆっくりと箸を置いた。そして、驚いたように目を見開いて私を見た。
「……塩辛くない。どころか、出汁と砂糖の甘みのバランスが完璧だ。……みゆ、お前、ついに『少々』という言葉の真理に辿り着いたんだな」
「そうだよ! 小さじの目盛りじゃなくて、ちゃんと指の感覚を信じたんだから!」
次に、湊兄さんはお味噌汁を啜った。
「……。味噌汁は、さらに味が安定したな。初日の『とりあえず飲める』レベルから、完全に『落ち着く味』になっている。出汁の引き方が体に馴染んできた証拠か。……悪くない」
「えへへ、そうでしょ? 毎日練習したから、もう目をつぶってでも作れるよ」
「ふん、調子に乗るな。だが、この安定感なら及第点だ」
最後に、メインのハンバーグ。箸を差し込んだ瞬間、中から溢れ出した澄んだ肉汁を見て、湊兄さんの表情から毒気が完全に抜け落ちた。一口食べた湊兄さんは、深く、長く、憑き物が落ちたような溜息をついた。
「……不本意だが、認めざるを得ないな。これは、普通に美味い。……初日に『炭の塊』や『謎の生肉』を錬成していた奴と同一人物だとは思えない完成度だ。……正直、驚いた」
「やったぁ……!」
私は思わずキッチンでガッツポーズをした。お姉ちゃんも、隣で「よかったわね、みゆ。努力の賜物よ」と優しく微笑んで私の頭を撫でてくれた。
「……おい」
空になったお皿を片付けようと席を立とうとした私を、湊兄さんが低い声で呼び止めた。
「なに、まだ何か言いたいことあるの?」
湊兄さんは少しだけ気まずそうに、けれど空になったお茶碗を私の方へ差し出した。
「……味噌汁、もう一杯。……あと、そのハンバーグもだ。一口じゃ評価しきれないからな。毒味の精度を上げる必要がある」
「……っ! 兄さん、今『おかわり』って言った!?」
「うるさい。ただ空腹なだけだ。……それと」
湊兄さんはご飯を盛り直す私の背中に向かって、どこか遠くを見るような瞳で、ぶっきらぼうに続けた。
「……陽太の奴、昨日は心配して俺のところまで聞きに来たんだぞ。お前が指を怪我したあとも特訓を続けて、さらにひどい負傷をしてるんじゃないかって、半泣きでな。……あいつに食わせるなら、これくらいのクオリティを維持しろ。水瀬家の名に恥じないようにな」
それは、兄さんなりの、不器用で最大級の賛辞だった。陽太がそれほどまでに私の手を心配してくれていた事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
窓の外では、明日の祭りを待つ星和高校の校舎が、夜の闇の中で静かに息づいている。
「見ててね、陽太。明日、一番の笑顔と……この料理を持って、会いに行くから」
私は明日の朝に持っていくお弁当箱を、まるで宝物を扱うように丁寧に洗い、ピカピカに磨き上げた。絆創膏の下で少し痛む指先さえ、今は陽太への想いが形になった、誇らしい勲章のように思えた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
卵焼き、お味噌汁、ハンバーグは上達しました。
現時点では料理の基礎知識が身についた程度です。
その他は練習していないのでお察し下さい。。。
いよいよ文化祭に移ります。




