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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第8章:秋光のキャンパス、束の間の休息

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秋の灯火、星和祭への序曲

特訓初日の翌朝。私は、洗面所の鏡に映る自分の姿を見て、深く、重いため息をついた。

鏡の中の私は、どこか疲労の色が隠せない顔をしている。けれど、それ以上に悲惨なのは、目の高さまで持ち上げた私の「両手」だった。


「……これじゃ、まるでミイラね」


左右の指に合わせて8枚。白い絆創膏が、不格好な鱗のように並んでいる。

昨夜、お姉ちゃんのスパルタ指導のもとで繰り広げられた格闘の跡だ。不慣れな包丁使いで人差し指の皮を掠め、フライパンの縁にうっかり触れては小さな火傷を作り……。何より、「塩小さじ1」という絶対的な基準を信じ込み、湊兄さんに「毒物」とまで言わしめたあの塩辛い卵焼きを強行した代償が、この指先に刻まれていた。


さらに、追い打ちをかけるような体の異変。

「痛っ……」

歯を磨こうと右腕を上げた瞬間、上腕から肩にかけてピリッとした鈍痛が走った。

ハンバーグの種をボウルに叩きつけて空気を抜く作業で、全力投球を繰り返した結果、右腕は見事なまでの筋肉痛に襲われていた。テニスのサーブ練習でも、ここまでパンパンに張ることは珍しい。


(これ、今日一日、不自然な動きにならないかな……)


制服の袖を通すだけでも、指先の絆創膏が布地に引っかかって「チリッ」と痛む。

体育祭の時に陽太と交わした、あの何気ない約束。「今度は、ちゃんとお姉ちゃんに教えてもらうから」。

その一言を守るためだけに、私は今、日常生活に支障をきたすほどの満身創痍状態に陥っている。


「……陽太に見られたら、絶対に何か言われるよね」


陽太は、私の些細な変化に驚くほど敏感だ。テニスのフォームの乱れも、体調の良し悪しも、彼はいつも真っ先に気づいてしまう。

私は絆創膏を隠すように、少し長めの袖を指の付け根まで引っ張り、自分に言い聞かせるように一度深く呼吸をした。


家を出ると、初夏の湿り気を帯びた風が頬を撫でる。

校門をくぐれば、そこはもう昨日の日常とは一線を画す、熱狂の渦だった。


「そっち、もっと右に寄せて!」

「釘打つよ、気をつけて!」


至る所から飛び交う怒号に近い活気と、ベニヤ板を切り刻む甲高い音。鼻を突くボンドと塗料の匂い。


普段、湊兄さんが支配する「静寂と規律」の星和高校が、年に一度だけ見せる、泥臭くも眩しい工作舎の姿。

私は痛む指先を制服のポケットに隠しながら、B組の教室へと急いだ。


1年B組の教室へ足を踏み入れると、そこはすでに「教室」としての原形を留めていなかった。

机や椅子は隅に積み上げられ、代わりにベニヤ板と黒い布で仕切られた「迷路」の骨組みが張り巡らされている。私たちの出し物であるアンティーク風迷宮喫茶『クロノス』は、その名の通り、時を忘れるような幻想的な空間を目指して着々と改装が進んでいた。


「あ、みゆ! おはよー、早いね!」

教壇近くで大きな看板にペンキを塗っていた美咲が、顔に白い汚れをつけたまま元気よく手を振った。


「おはよう、美咲。顔、ついてるよ」

「えっ、どこ!? ……もう、朝からドタバタなんだから。みゆもこっち手伝って! この『Chronos』のロゴの縁取り、細かい作業だからみゆに任せようと思ってたんだ」


「あ……うん、わかった」

私は少し顔を強張らせながら、美咲の元へ歩み寄った。できるだけ指先を見せないように、慎重に看板の端を掴もうとしたけれど――。


「……えっ。ちょっと待って、みゆ。その手……」

美咲の視線が、私の指先に吸い寄せられるように止まった。

隠しきれなかった白い絆創膏の群れ。一本や二本ではない、まるで包帯を巻き直したばかりの負傷兵のような指先を見て、美咲が筆を放り出して私の手をひっ掴んだ。


「ちょっと、どうしたのこれ! 昨日の今日で、なんでこんなに指がミイラ化してるわけ!?」

「あ、あはは……。いや、これはちょっと、家で特訓を……」


美咲の大きな声に反応して、周りで作業をしていたクラスの女子たちが「え、何なに?」と次々に集まってきた。

「うわっ、本当にすごい。みゆちゃん、これカッターでやったの?」

「右腕もなんか、動きがギクシャクしてない? まさか、この巨大看板、夜中に一人で作ったとか……」


クラスメイトたちの純粋な心配と驚きの声が、狭い教室内で反響する。

「違うの、これはその……料理の練習でね。お菓子の試作とか、いろいろ試してたら……」

「料理? みゆが?」

美咲が怪訝そうに眉を寄せた。

「みゆって、そんなにボロボロになるまで台所に立つタイプだっけ?」


私は顔が熱くなるのを感じた。クラスのシフトは、喫茶店の内装にこだわりすぎたせいで、女子はほぼ全員が当日、メイド風の制服を着てフロアにかかりきりになることが決まっている。

「みんな、気合入ってるから……私も、看板娘として恥ずかしくないように、ちょっと女子力を磨こうかなって……」

「……みゆちゃん、真面目すぎるよ。でも、そこまで頑張らなくても、みゆちゃんは立ってるだけで十分看板娘なのに」


女子たちの温かい(けれど、どこか見当違いな)感心の輪に包まれながら、私は痛む指先で細い筆を握った。

筆を動かすたびに、右腕の筋肉痛がズキズキと抗議の声を上げる。でも、それよりも胸を占めていたのは、この不自然な怪我が「誰のためのものか」を、美咲たちに悟られてはいけないという必死な思いだった。


「みゆ、無理しないでよ? 当日、その手でコーヒー運んで、カップごとガシャンなんてやったら、迷宮どころか大惨事なんだからね」

「わかってるよ、美咲。当日までには、ちゃんと治しておくから」


私は看板の文字をなぞりながら、窓の外の廊下を見つめた。

準備期間特有の、少し浮ついた空気。

その喧騒のどこかにいるはずの、幼馴染の顔を思い浮かべると、絆創膏の奥の小さな火傷が、ちりりと熱を帯びた気がした。


看板の縁取りをようやく描き終え、私が筆を置こうとしたその時だった。

「よお、みゆ! 調子はどう……っ!? お前、その手、どうしたんだよ!」


廊下から響いた騒がしい足音と同時に、陽太が教室の扉を跳ね飛ばすようにして入ってきた。私の姿を見つけるなり、周囲のクラスメイトが引くほどの勢いで詰め寄ってくる。

「えっ、あ、これは……ちょっと昨日の夜にね……」

ちょっとじゃねえだろ! 指がミイラみたいになってんぞ! 腕もなんか、さっきから不自然にプルプルしてるし!」


陽太は私の両手を問答無用でひっ掴むと、一本一本の絆創膏を、戦地からの負傷兵を検分するような真密な眼差しで見つめた。

「……刃物の跡に、火傷の赤み。……みゆ、正直に言え。お前、B組の準備で誰かに無茶なことさせられてんのか? 女子だけでこの迷路作るために、ノコギリでも握らされたのかよ!」


「違うよ陽太! これは私の……その、自主的な特訓っていうか」

「嘘つけ! こんな傷だらけになる準備があるかよ!」


陽太が「いじめか、それともブラックな労働か」と勝手に激昂し始めたその時、隣のC組から様子を見に来た田中くんが、ひょっこり顔を出した。

「よお陽太、朝から元気だね……。うわっ、水瀬さんの手、すごいことになってるね。……あ、もしかしてこれ、噂の『料理特訓』の成果? 湊先輩、朝から『指先まで塩辛い夢を見た』って、顔色悪かったけど」


「……料理特訓?」


陽太が動きを止めた。田中くんはニヤニヤしながら続ける。

「湊先輩がコンビニで胃薬買ってたんだよ。『妹が毒物製造機になった』って死にそうな顔で言ってたし」


ようやく陽太の中で点と線がつながったらしい。彼は私と、私の指の絆創膏を交互に見て、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まった。


「……みゆ。お前、それ……俺のために……?」


「……体育祭の時に約束したでしょ。お姉ちゃんに教えてもらうって。……もういいよ、その話は!」

顔を覆って逃げ出したくなった私を見て、陽太は急に借りてきた猫のようにおとなしくなり、「……あー、その。……当日、絶対完食するからな」と蚊の鳴くような声で呟いた。


「……味の保証はできないけどね」

「いいよ。……お前が作ったなら、塩の塊だろうがなんだろうが、俺が全部食ってやる」


陽太は照れ隠しに私の頭をごしごしと撫で回すと、話題を変えるように自分のクラスやテニス部の話を始めた。


「……ところで、みゆ。テニス部の焼きそばの方、シフトどうなった?」

私は申し訳ない気持ちで、美咲たちが凝りすぎてシフトが厳しくなったこと、当日は喫茶店にかかりきりになることを伝えた。


「そっか……」

陽太は一瞬、残念そうに眉を下げたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。

「まあ、気にするなよ。あっちの喫茶店、看板もすごい凝ってるし、女子が総出じゃないと回らないだろ。焼きそばの方は、俺とか瑛太とか、体力の余ってる男子で回すから大丈夫だ。任せとけって」


「ごめんね……。陽太が鉄板の前で煙に巻かれてる時に、私だけ優雅にコーヒー運んでることになりそうで……」

「はは、似合うんじゃないか? みゆのメイド姿。……俺も、隙を見て絶対見に行くからさ」


二人の空気が柔らかくなったのを見計らったように、実行委員の仕事を終えた湊兄さんが、高城部長と大野部長を連れて通りかかった。

「……兄さん。昨日は、その、ごめんなさい」

私が小声で謝ると、湊兄さんは一瞬だけ胃のあたりを押さえる仕草をしたが、すぐに冷徹な「エース」の顔に戻った。


「謝る必要はない。文化祭はクラスの出し物が優先だ。……だが、休憩時間くらいはあるんだろう? その時は、焼きそばでも食べに来い。陽太たちが、お前の分だけは焦がさずに、一番いい出来のものを焼くと言っていたぞ」


「ちょっと、湊さん! 俺が焦がす前提で話さないでくださいよ! それに『お前の分』って、変なプレッシャーかけないでください!」

陽太が慌てて割って入ると、周囲の大野部長たちが大爆笑した。高城部長も、私の絆創膏だらけの手を優しく見つめて微笑んだ。


「水瀬さんのメイド姿、楽しみにしてるわね。……私たちの分も、一杯だけ美味しいコーヒー、取り置いておいてくれる?」


「高城部長まで……! もう、恥ずかしいです」

赤面しながらも、私は心がふんわりと軽くなるのを感じた。


当日は別々の場所で、違う役割をこなすことになる。けれど、同じ空の下、同じ「星和祭」の中で私たちは繋がっている。 陽太が命がけ(?)で食べてくれる私の料理と、陽太が焼いてくれる焼きそば。その交換ができるだけで、私にはどんな豪華なディナーよりも、この文化祭が特別なものに思えた。


おはようございます。

作者のFERILUです。


『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』

を読んでくださりありがとうございます。


文化祭準備編です。

文化祭は3日間

1〜2日目は学生のみ

3日目は一般公開日となり、外部の生徒や保護者が参加します。


ここまで大きな文化祭って普通はないのかな?


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