秘密のキッチン特訓 ―破壊神みゆの降臨―
文化祭まであと一週間。私はリビングでくつろいでいた雫お姉ちゃんに、鼻息荒く宣言した。
「お姉ちゃん、お願い! 私に料理を教えて! 陽太に……胃袋をガッチリ掴むような、愛の差し入れをしたいの!」
「あら、いいわね。全力でバックアップするわよ」
お姉ちゃんは快諾してくれたけれど、この時の私たちはまだ知らなかった。私がキッチン界に舞い降りた、計量と火加減の概念を司らない「破壊神」であったことを。
「いい、みゆ。卵は高い位置から落とさず、優しくボウルの縁で割るのよ。赤ちゃんを扱うみたいにね」
「了解! 優しく、綿あめを扱うように……とりゃあっ!」
パカッ、という可愛い音を期待したのに、キッチンに響いたのは「グシャッ」という無残な鈍い音だった。私の手の中で卵は無残に握り潰され、ドロリとした中身が私の袖口を無慈悲に染め上げた。
「……みゆ、握力強すぎない? 卵の殻が粉砕されて身と同化してるわよ」
「ご、ごめん。卵が意外と反抗的で……!」
なんとか三回目でボウルに収まった卵に、味付けをする。
「お砂糖は大さじ1、お塩は少々ね。入れ過ぎないようにね」
「大さじ1と……よし、お塩は小さじ1ね!」
「ちょっと待って、みゆ! いま『少々』って言ったでしょ!? 何で計量スプーンを活用しちゃったの!?指先でつまむ程度の量よ!」
お姉ちゃんの静止も虚しく、フライパンで焼かれたそれは、綺麗な黄金色……ではなく、絶望を煮詰めたような「漆黒の立方体」へと姿を変えた。立ち上る煙はどこか化学薬品のような刺激臭を放ち、キッチンの換気扇がけたたましく悲鳴を上げた。
「気を取り直してお味噌汁よ。出汁をしっかり取って、お味噌を溶くの。これは落ち着いてやれば大丈夫」
「わかった! お出汁、全集中でいくよ!」
ここではお姉ちゃんが背後にぴったり張り付いて、マンツーマンで指導に当たった。慎重に煮干しの頭と内臓を取り除く作業に、「意外と手間がかかるんだね……。陽太、いつもこんなに手間のかかったものを食べてるのかな」と少しだけしおらしくなる私。
丁寧にアクをすくい、お味噌もダマにならないよう、お玉の中でゆっくりと溶き入れた。
「……うん、いい香り。これなら大丈夫そうね」
お姉ちゃんのお墨付きをもらい、お味噌汁だけは奇跡的に、家庭の味として「美味しい」と言えるレベルの完成度を誇っていた。私の顔にようやく安堵の笑みが浮かぶ。
「最後はメインのハンバーグ。しっかり捏ねて、中の空気を抜くのがコツよ」
「空気を抜くのね……えい! えいっ!」
私が肉の塊をボウルに全力投球しようとするたび、お姉ちゃんの鋭い「待った」が入る。
「みゆ、投げない! 粘土遊びじゃないのよ。両手で優しくパンパンとキャッチボールするように!」
「は、はい! 優しく、キャッチボール……!」
お姉ちゃんの徹底した監視のもと、玉ねぎのみじん切り、肉の捏ね、成形まで、手順だけはプロ顔負けの完璧さで進んだ。……が、最後の「焼き」の段階で、私のせっかちが暴走した。
「みゆ、火が強すぎるわ! 中まで火が通る前に表面が焦げちゃう、弱めて!」
「でも、お姉ちゃん! 見て、もうこんなにいい色(焦げ茶色)なんだから、もういいよね!? 早く完成させたいし!」
雫お姉ちゃんの制止の手をすり抜け、「強火こそ正義」とばかりにフライパンを火から下ろした私のハンバーグは、「見た目は老舗洋食屋の逸品、だけど中心部がほんのり冷たいピンク色」という、なんとも惜しいベリーレア状態に仕上がった。
キッチンには、芳醇なソースの香りと、何かを盛大に焼き尽くした焦げ臭い煙が充満していた。
「……さて。あとは、この『作品』たちを誰が食べるか、ね……」
お姉ちゃんが頬を引きつらせながら、玄関の方を振り返った。その時、ガチャリと鍵が開く音がした。
「ただいま……。おい、なんだこの異臭は。玄関のドアを開けた瞬間、ゴムタイヤが燃えたような臭いが鼻を突き抜けたぞ。家の中でキャンプファイヤーでもしてるのか?」
鼻をヒクつかせ、制服のネクタイを緩めながら湊兄さんがキッチンを覗き込んだ。部活を終えたばかりの湊兄さんは、目に見えて空腹そうだったが、テーブルの上に並べられた「黒い立方体」「普通のお味噌汁」「見た目だけは完璧な肉塊」を目にした瞬間、その足がピタリと止まった。
「……みゆ。この『黒い塊』はなんだ。新種の炭か? それとも、俺に対する呪いの儀式か何かか?」
「……ひどいよ、兄さん! 特訓の成果だよ! ちゃんと食べて感想聞かせてよ!」
私は涙目で、真っ黒な卵焼きを湊兄さんの目の前に突き出した。湊兄さんは呆れ果てたように溜息をついたが、逃げ場がないことを悟ったのか、諦めたように椅子に腰を下ろした。
「……わかった。毒味だ。まずは安全そうなものからいくぞ」
兄さんは、最もまともに見える「お味噌汁」を恐る恐る口に運んだ。
「……。ほう、味噌汁は普通に美味いじゃないか。出汁がしっかり取れている。姉さんが作ったのか?」
「私が作ったの! 煮干しの頭もちゃんと取ったんだから!」
「ふーん。まあ、これは及第点だ。体に染み渡る……。お前でも、手順を守ればまともなものが作れるんだな」
落ち着く味に、湊兄さんの警戒心がわずかに解かれた。それが運命の分かれ道だった。 空腹に拍車がかかった湊兄さんは、次に最も凶悪な「漆黒の卵焼き」を箸で掴み、なんの疑いもなく一口で口に放り込んだ。
「…………ッッ!!!」
次の瞬間、湊兄さんの顔が劇画調に歪んだ。目を見開き、喉を押さえ、膝からガクガクと崩れ落ちる。
「……水。水を……くれ……っ!!」
「兄さん!? どうしたの!?」
「喉が……焼ける……っ! 砂漠で海水をダイレクトに飲まされた気分だ! お前、塩の概念をどこに捨ててきた! 大さじと小さじを間違えるとかいうレベルじゃないだろ! さっきの味噌汁の感動を返せ!!」
湊兄さんは冷蔵庫から麦茶のペットボトル取り出し、溺れるような勢いでラッパ飲みした。一本丸ごと飲み干してようやく息を整えた湊兄さんは、青白い顔で私を指差した。
「……みゆ。いいか、よく聞け。お前がこれを陽太に食わせたら、文化祭の前にあいつは確実に腎臓をやられるぞ」
「……うう、そんなにしょっぱいかなぁ。じゃあ、こっちのハンバーグはどう? 見てよ、これは完璧でしょ?」
私は話題をそらすように、ソースがツヤツヤと輝くハンバーグを差し出した。湊兄さんはまだ疑いの眼差しを向けていたが、その見た目の良さに「……最後の一望みだぞ」と箸を入れ、その断面を見た瞬間に絶句した。
「……。みゆ、これは罠か? 表面はあんなにこんがり焼けているのに、何で中がピンク色なんだ。俺を寄生虫で倒すつもりか? 陽太に届ける前に俺の胃腸が全滅するわ!」
「もう! そこまで言わなくてもいいじゃない!」
「ふふ、でもみゆ、お味噌汁は本当に良かったわよ。次は火加減を弱めるという『忍耐』を覚えましょうね?」
お姉ちゃんが、床にへたり込んだまま「明日、学校休むかも……」と呟く兄さんを苦笑いでフォローする。
「見てなさい! 明日は絶対に兄さんに『おかわり』って言わせてやるんだから!」
こうして、私の料理特訓初日は、湊兄さんの絶叫と、麦茶一本の完飲という、前途多難すぎる幕開けとなったのである。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
料理する方なら分かる失敗です。
出来上がりの味の想像も出来るのでは!?
どの様に成長するか見守ってください。




