ラストマッチと、託される未来
寒風が吹き抜ける第1コート。フェンスを挟んだすぐ近くで、私は美咲の勇姿を息をのんで見つめていた。
静寂が支配するベースラインの後ろで、美咲が深く息を吐き出す。吐き出された白い息が朝日に溶けていく中、バイザー越しに見つめる美咲の視線の先には、漆黒のユニフォームを纏った修徳館の3年部長・奥村絵里さんがドシリと重い腰を落として構えていた。
昨夏の有明──ブロック大会の女子シングルス2。あの灼熱のコートで繰り広げられた激闘は、今も美咲の胸の奥で燻り続けていた。奥村さんの泥沼の粘り、足を痙攣させかけながらもボールにしがみつく執念のパッシングショットに屈し、タイブレーク7–6というわずか数ポイントの差で涙を呑んだあの日。
(奥村さんが、今日この試合を最後に後輩へ部を託して引退する……。あの有明で届かなかった悔しさを、この手で乗り越える最初で最後のチャンス!)
美咲がグリップを強く握り直すのが見えた。その全身から、研ぎ澄まされた集中力が溢れ出している。
「行くよ、松本さん! 中等部最後の試合、私のすべてを懸けてあなたを打ち破る!」
奥村さんが力強くボールをトスし、しなやかに躍動した身体から放たれた強烈なファーストサーブが、鋭い風切り音とともに美咲の足元へ襲いかかる。
「——来いッ!!」
美咲の凛とした掛け声が冬のコートに響き渡った。
有明の時とは、初動の一歩の速さも軸のブレなさもまるで違っていた。西園寺合宿での極限のトレーニング、冬休みの厳しい稽古、そして私と何度も何度も重ねてきたラリーの打ち合いを経て叩き上げられた美咲のフットワークは、奥村さんの弾丸サーブを完璧な間合いで捉えていた。
バシィィンッ!
澄んだ打球音が響き、鋭角に削り取られたリターンが奥村さんのバックハンド深くへと突き刺さる。
「なっ……リターンでここまで深く押し込んでくるなんて……!?」
奥村さんが驚愕に目を見開く。体勢を崩しながらも何とか拾い上げたボールが、ネットの上を緩やかに越えて浅く返ってきた。
「ハァッ!」
美咲はその好機を見逃さず、一気にコート内へと踏み込んだ。かつての美咲なら、相手の泥沼の粘りを警戒して慎重に繋ぐ選択をしたかもしれない。だが、今の美咲に迷いや躊躇いは一切なかった。相手の重心の位置と配球を冷静に見極め、研ぎ澄まされたコントロールでオープンコートへ鋭く叩き込む!
「ゲーム、星和学院・松本! 2-0!」
「すごい……! 美咲先輩、あの修徳館の部長さんを相手に、序盤から完全にペースを握ってる……!」
私のとなりで観戦していた1年生の結衣やひかりが、興奮を抑えきれずに歓声をあげる。その隣では、修徳館の次期部長候補である2年生の志村葵さんが、息をのむようにして奥村さんの背中を見つめていた。
しかし、長年にわたって修徳館の頂点に君臨してきた最高学年が、このまま押し切られるはずもなかった。
「ふふ……やっぱり強いね、松本さん。でも、これくらいじゃなきゃ最高のリベンジマッチにならないよ!」
ギアを一段引き上げた奥村さんは、美咲の鋭いショットに対し、直線的な打ち合いを避けて高軌道の深いロブや落差のあるドロップショットを自在に混ぜ合わせ始めた。長引くラリーの中でお互いの息が上がり、脚力と集中力をじわじわと削り取っていく泥沼の持久戦──有明で美咲を苦しめ抜いた、あの悪夢のような戦術だ。
「甘いよ、松本さん! いくらショットの威力が上がろうと、私の底なしの執念を破れなきゃ勝利はない!」
滑り込みながら泥臭くボールを拾い続け、どれだけ崩されてもコートへと返してくる奥村さん。コート脇の部員たちからも「さすが修徳館の部長さんだ……」「全然決まらない……!」とどよめきが漏れ始める。
だけど、息を乱しながらも、美咲の瞳に宿る光は微塵も揺らいでいなかった。
(知ってるよ、美咲……! 奥村さんの本当の恐ろしさは、その折れない心と底なしの執念だってこと……! だからこそ、美咲はそこから逃げない!)
私は祈るように胸の前で手を握りしめ、美咲の姿を追いかけた。
深く上がったロブに対し、美咲はしっかりと膝を曲げて軸足を固定し、タイミングを完璧に合わせる。前回の美咲なら焦りから力づくで叩き込み、奥村さんの得意とするカウンターの餌食になっていただろう。だが、今の美咲には『星和を背負う部長』としての揺るぎない冷静さと、一緒に積み重ねてきた努力に裏打ちされた絶対的な自信があった。
奥村さんが次の打球に備えて一瞬だけ左へ重心を寄せた──そのわずかな動きの癖を見逃さず、美咲はボールの落ち際を極限のタイミングで捉える。
「——受け止めて見せます、奥村さんの思いも……全部!!」
強烈なスイングスピードから繰り出されたのは、相手の予測の逆を突く、低く滑る鋭角のドライブボレー!
シュッ……ッ!!
ボールは奥村さんの足元で鋭く弾み、修徳館の誇る『鉄壁』のガードを完全に突き破った。
「そこまで……コースが見えて……くっ……!」
コートに手をついた奥村さんが、息を呑んでボールの軌道を見送る。
「ゲームアンドセット! 6-2! ウォンバイ星和学院・松本!」
審判のコールが冬の空に響き渡った瞬間、私や星和のベンチ、観戦エリアから爆発的な歓声が沸き起こった!
「美咲ぃぃぃ! すごい、勝利だよ!!」
「有明の完全リベンジ達成だ!!」
美咲はゆっくりとラケットを下ろし、空を見上げて深く胸を躍らせながら息を吐いた。あの有明で流した涙と悔しさを、己の足で立ち上がり、磨き抜いた強さで最高の勝利へと塗り替えた瞬間だった。私と美咲の視線が重なり、美咲は私に向かって誇らしげにニッと笑ってみせた。
ネット際へ歩み寄ると、膝をうっすらと土で汚した奥村さんが、すっきりとした晴れやかな苦笑いを浮かべながら右手を差し出していた。
「まいったよ、松本さん……完敗だ。あの夏から、どれだけ血の滲むような練習を重ねてきたのか……一球一球のボールの重さから痛いほど伝わってきたよ」
「奥村さん……ありがとうございます! 奥村さんが最後まで高い壁でいてくださったから、私は止まらずに強くなれました!」
二人は互いの健闘を称え合い、しっかりと固い握手を交わした。その光景を、修徳館の2年生副部長・志村葵さんが目頭を熱くさせながら真剣な眼差しで見つめている。
ベンチに戻った奥村さんは、タオルで汗を拭うと、静かに志村葵さんを呼び寄せた。そして、自分が長年愛用してきたラケットを優しく手渡す。
「葵。……今日で私は引退する。明日からの修徳館は、お前が部長として引っ張っていってくれ」
「……部長……! はいっ! 奥村先輩の見せてくださったラストマッチの背中と、今日の悔しさを絶対に忘れません……! 必ず、もっと強い修徳館を作ります!」
志村さんが溢れ出る涙を拭いながら、力強くラケットを受け取る。先輩から後輩へ、勝利への執念と託された未来。
リベンジを果たした美咲の晴れやかな笑顔と、新しく歩み始める修徳館の強い絆。二人の全力をかけたラストマッチは、この交流戦の幕開けをこれ以上ないほど熱く彩っていた。




