新春の祈り、甘い香りの誘惑
除夜の鐘が響き渡り、新しい年を迎えた境内で、私たちは本殿へ向かって静かに手を合わせた。
今年一年の健康と、コートで全力をつくせるように──それぞれの胸の中で願いを込め、二礼二拍手一礼。ピンと張り詰めた新年の空気が心地よい。
「さあ、参拝も済んだし、おみくじでも引いてみない?」
「うん! 今年最初の運試しだね!」
お姉ちゃんの言葉に、私と湊兄さんは頷いておみくじ売り場へと向かった。しゃかしゃかと箱を振り、出てきた番号の紙を受け取る。
「あ、私は『吉』だ! 『努力が実を結ぶ年』だって!」
「俺は『大吉』だ。『焦らず進めば道は拓ける』とある」
「二人とも素晴らしい結果ね。私も『吉』よ」
お互いのみくじを見せ合いながら微笑み合っていると、参道の脇でふるまわれている「振る舞い酒(お酒・甘酒)」のコーナーから、香ばしく甘い香りが漂ってきた。境内には、年明けを祝う参拝客が集まり、盃やコタツ用の紙コップを手に笑顔で乾杯している。
「あ、御神酒の振る舞いね。新年の縁起物だし、私たちもいただきましょうか」
「あ、でもお姉ちゃん、私まだ中学生だし……お酒は駄目なんじゃ……」
私が手を振って遠慮しようとすると、振る舞い処の近所に住むおじさんやおばさん達が「まあまあ!」と笑顔で声をかけてきた。
「大丈夫だよ、みゆちゃん! 新年のお祝いの祝酒だし、この地域じゃ昔から一杯や2杯くらいはみんな気にしてないよ。お酒デビューに少し舐めてごらん!」
「そうそう、お酒が苦手なら、こちらの自家製甘酒がおすすめだよ。米麹と酒粕でじっくり作ってあって、すごく甘くて飲みやすいから!」
手渡された紙コップからは、ふんわりと湯気と一緒に、果実のように甘くコクのある魅力的な香りが立ち上ってくる。テニスの練習帰りには見たこともない、お正月ならではの特別感。
(甘くて飲みやすいなら……ちょっとだけ、飲んでみたいかも)
香りに誘われて好奇心がむくむくと湧き上がり、私は両手でしっかりと紙コップを受け取った。
「じゃあ……いただきます!」
一口含んでみると、とろりとした濃厚な甘みと、フルーティーで香ばしい風味が口いっぱいに広がった。
「……っ! すごくおいしい! 甘くて飲みやすいよ!」
「ふふ、口に合ってよかったわね。でもみゆ、いくら飲みやすくても酒粕が入っているから──」
「みゆ、一気に飲むと酔いが回るのが早くなるから、ゆっくり味わって飲めよ?」
お姉ちゃんと湊兄さんが心配そうに声をかけてくれたけれど、冷え切った身体に染みわたる甘さと温かさに、私の手は止まらなかった。
「うん、わかった! でもすごくおいしい!」
喉ごしの良さに任せて、私はゴクゴクと一気にコップ一杯を飲み干してしまったのだった。
空になったコップを手に、ふうっと満足の息を吐き出す。
飲んだ直後は、お腹の底からじんわりと温かい波が広がっていくだけだった。寒さで縮こまっていた体がほぐれていき、ぽかぽかと実に心地よい感覚が全身を包み込む。
「ん……なんだかすごく身体が温まってきたよ」
「だから言ったでしょう。でも、調子に乗って一気に飲むから……」
お姉ちゃんが呆れつつも優しく微笑んでいる。最初は本当にそれだけの、冬の寒さを忘れる快適な感覚だったのだ。
──だが、5分ほどが経過した頃。
(あれ……なんだか急に暑くなってきたかも……?)
心地よかった温もりは次第に熱を帯び、顔から首筋にかけて火照りが急速に増していく。冷たい夜空の風が当たっているはずなのに、頬がじりじりと熱く、着物の帯が急に苦しく感じられ始めた。
「みゆ? 顔がすごく赤いが、大丈夫か?」
湊兄さんの声が、どこか少し遠く聞こえる。
「うん……ちょっと熱いかな……でも、大丈夫……」
強がりを言ってみたものの、さらに5分──飲んでから10分が過ぎる頃には、世界がぐらりと揺れ始めた。
急激に回ってきた酔いが脳を揺らし、視界の端がふわふわと滲んでいく。足元がまるでスポンジの上を歩いているかのように定まらず、思考が急速にボーッとして霧がかかっていく。自分でも何を考えているのか分からなくなっていく感覚に、私は湊兄さんの袖をぎゅっと掴んだ。
「あ、あれ……お兄ちゃん……なんか、頭がふわふわする……」
「完全に酔いが回ってるな……。急いで飲むからだ。姉さん、ちょっと風に当たりながら座らせてくるよ」
「ええ、それがいいわね。境内の端のベンチに移動してちょうだい。私は振る舞い処で温かいお水をもらってくるわ」
湊兄さんにしっかりと肩を支えられながら、私は千鳥足で境内の隅にある木製ベンチへと移動した。
ベンチに深く腰を下ろすと、冷たい夜風が火照った顔を撫でる。けれど、一度回り始めたアルコールは容赦なく私の意識を刈り取ろうとしていた。
「みゆ、顔を上げて。水が来るまで深呼吸してごらん」
「う……うん……お兄ちゃん……なんか、夜空の星がぐるぐる回ってるよ……」
「駄目だ、かなり効いてるな……」
心配そうに私の顔を覗き込む湊兄さんの声も、だんだんと遠く、水の中に潜ったような籠もった音に変わっていく。視界全体が心地よい浮遊感とともに暗転していき、まぶたが鉛のように重くなった。
(あれ……お姉ちゃん、遅いな……)
そんなまとまらない思考を最後に、私は湊兄さんの肩にぐったりと寄りかかり、そのまま真っ暗な意識の底へと落ちていったのだった。
◇
うっすらと目を開けると、見覚えのない白い天井が視界に飛び込んできた。
「ん……んん……ここ、どこ……?」
静まり返った室内。窓の隙間からは、うっすらと明るくなり始めた朝の光が差し込んでいる。いつも見慣れている自分の部屋の天井でもなければ、リビングの天井でもない。機能的でシンプルな照明と壁紙。
重く痺れるような頭痛に眉をひそめながら、ゆっくりと記憶を辿り始める。
(初詣に行って……おみくじを引いて……そうだ、御神酒の甘酒を飲んで……)
喉ごしが良く美味しかったからと、一気に飲み干してしまったこと。
その後、急激に体が熱くなって頭がクラクラし、湊兄さんに肩を支えられながらベンチへ移動したところまでは覚えている。けれど、そこからの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
(わたし、あのあと倒れちゃったんだ……。それで、雪も降ってきたから、近くのホテルに運ばれたのかな……?)
納得しかけたその時、肌に触れる布団の感触に妙な違和感を覚えた。
着物を着ていたはずの体に、ズッシリとした帯の締め付け感も、着物の重みも一切ない。
(……え?)
胸騒ぎがして、慌てて布団の中を覗き込む。
──着物も、帯も、襦袢すらもない。
身につけているのは、ショーツだけだった。
「ひっ……!?!?」
一瞬で血の気が引き、頭の痛さも吹き飛んだ。
慌てて布団を首元まで引き上げ、周囲を見回す。部屋のハンガーラックには、私の振袖と雫姉さんの着物が綺麗に掛けられているけれど、室内に人影はない。
(う、ウソでしょ!? なんで私、下着一枚で布団にいるの!? 誰が脱がせたの!? え、兄さん!? それともお姉ちゃん!? 私、酔っ払って何しちゃったの──!?)
混乱と恥ずかしさでパニックに陥りながら、私は真っ赤になった顔を布団に押し付け、激しく動揺するばかりだった。




