年越しの鐘、灯る明日
大掃除を終えて迎えた12月31日、大晦日。
一年の締めくくりとなるこの日、街全体がどこかそわそわとした高揚感と、穏やかな静けさに包まれていた。
夕方になり、水瀬家のリビングには温かなコタツが出され、テレビからは年末特有の賑やかな番組の音が流れている。私とお姉ちゃんはコタツに足を入れて、ミカンを剥きながらまったりとした時間を過ごしていた。
──ガチャン。
玄関のドアが開き、冷たい空気とともに足音が響く。日課である年末最後のロードワークから、湊兄さんが戻ってきたのだ。息を白く弾ませながらリビングに入ってきた兄さんに、私は急いでコタツから抜け出した。
「兄さん、お疲れ様! 寒かったでしょ?」
「ありがとう、みゆ」
差し出した乾いたタオルとスポーツドリンクを受け取り、湊兄さんは汗を拭いながら首を鳴らした。冬の冷気で少し赤くなった頬とは対照的に、その瞳は運動後特有のすっきりとした輝きを帯びている。
「ふう……外はかなり冷え込んできた。でも、走り込みにはちょうどいい気候だったぞ」
「湊、風邪を引かないうちに着替えを済ませておいでなさい」
コタツから雫姉さんが声をかけると、兄さんはドリンクを一口飲んでから、ふと思い出したように私とお姉ちゃんを見つめた。
「あ、そうそう。走っている途中で近所の神社の前を通ったんだけど……境内にたくさんの屋台が並んでいて、大きなかがり火や提灯の準備をしているのが見えたんだ」
「へぇ、屋台! もう初詣の準備が整ってるんだね」
「あぁ。それでな……みんなの都合がよければ、今夜、日付が変わる頃に初詣に行かないか?」
湊兄さんの突然の提案に、私とお姉ちゃんは一瞬顔を見合わせ、それから弾んだ笑顔を浮かべた。
「いいね! 初詣、みんなで行きたい!」
「そうね、大掃除も無事に終わって家も清々しいことだし、新しい一年を外で迎えるのはとても良いわね」
「よし、決まりだな。じゃあ、まずは年越しそばの準備をして、年越しの瞬間に向けて暖かくして出かけよう」
◇
家族みんなで年越しそばを美味しくいただいた後、時計の針は深夜11時をまわろうとしていた。
「みゆ、そろそろ着替えの準備をしましょう。せっかくの初詣だし、お正月らしく晴れ着で行きましょう」
「うん、お姉ちゃん! よろしくお願いします!」
自室の畳の上に広げられたのは、小花柄が可憐に散りばめられた鮮やかな桃色の振袖。お姉ちゃんが昔着ていた晴れ着のお下がりで、丁寧に手入れがされていた。
普段はテニスウェアや制服ばかり着ている私にとって、着物なんてめったにない機会。背筋をピンと伸ばして立つ私の体に、雫姉さんが手際よく補正のタオルを巻き、長襦袢を重ねていく。
「みゆ、帯を締めるから少し息を止めてね。……そう、上手に立ててるわよ」
「うぐぐ……ちょっと苦しいけど、すごくシャンとした気持ちになるね」
「ふふ、よく似合ってるわ。みゆもすっかりお姉さんになって……振袖が本当に映えるわね」
雫姉さんは手慣れた手つきで帯を華やかな結び形に整え、最後に私の髪を手早くアップにして可愛らしい簪を挿してくれた。鏡の前に立つと、そこにはいつもと少し違う、おしとやかな装いの自分が映っていて、なんだか気恥ずかしくも胸が躍る。
当の雫姉さんも、落ち着いた紺地に華やかな花模様が映える上品な着物姿で、その凛とした佇まいには思わず溜息が出そうなほど綺麗だった。
支度を終えてリビングへ下りていくと、シックな和装に着替えた湊兄さんが待っていた。私とお姉ちゃんの姿を見るなり、湊兄さんは一瞬目を見張り、それから照れくさそうに微笑んだ。
「ふたりとも、すごく綺麗だ。似合ってる」
「えへへ、ありがとう兄さん! 兄さんの和服姿もカッコいいよ!」
「ふふ、ありがとう。……それじゃあ、そろそろ出かけましょう」
賑やかなお祝いモードに包まれる水瀬家のリビング。だが、玄関へ向かう途中、テレビから流れてきた天気予報の音声に、湊兄さんがふと足を止めた。
『──続いて気象情報です。今夜半から未明にかけて、強い寒気の影響により、当地域でも雪となる見込みです。初詣や夜間のお出かけの際は、足元や防寒に十分ご注意ください……』
「……雪、か」
湊兄さんがカーテンを少し開き、暗い夜空を見上げる。外の空気はすでに痛いほど冷え切っていた。
「うん……晴れ着で転んだりしたら大変だし、帰りの足元も心配だね。積もらなければいいんだけど……」
私が着物の袖をキュッと握りしめると、お姉ちゃんも静かに空を見つめ、少しだけ心配そうな眼差しを浮かべたのだった。
雪の心配は残るものの、防寒対策を万全にして、私たちは神社へと向かった。
玄関を出ると、肌を刺すような凛とした冷気が頬を撫でる。草履の足音を響かせながら参道を歩いていくと、闇の中に浮かび上がる鮮やかな提灯の明かりと、立ち上る温かな湯気、そして芳ばしい香りが私たちを出迎えてくれた。
「わあ……すごい! 屋台がいっぱい並んでる!」
「大晦日のこの独特な賑わいは、何度味わっても胸が踊るわね。日付が変わるまでまだ時間があるし、少し散策してみましょうか」
「うん。温かいものを食べて、身体を温めておこう」
境内にはカウントダウンを待つ人々が集まり、お祭り特有の熱気に包まれている。テニスコートでの緊張感とはまた違う、柔らかな笑顔があちこちではじけていた。
「みゆ、何が食べたい? お店がたくさんあって迷うわね」
「私、温かいおしるこがいいな! それと……あっちの甘辛いタレの匂いがする焼き鳥も気になる!」
「ふふ、食欲旺盛で何よりだわ。湊は何にする?」
「俺は具だくさんの豚汁かな。熱々のやつを」
湊兄さんが買ってくれた湯気立つおしるこのカップを両手で包み込むと、じんわりとした温もりが手に伝わってくる。ふーふーと息を吹きかけながらお餅を頬張ると、優しい甘さが体に染みわたっていった。
「美味しい……! お腹の中から温まるよ」
「本当ね。焼き鳥も焼き立てでとても美味しいわ。……湊、口元に少しタレがついているわよ」
そう言って湊の口元を拭う
「っ!?さすがに恥ずかいいぞ、姉さん」
屋台を巡りながら、豚汁やおしるこを分け合ったり、お互いの着物姿を少し照れくさそうに褒め合ったり。日頃の厳しい練習や戦いを忘れ、水瀬家の三人は穏やかな年末のひとときを満喫していた。
やがて、境内に設えられたかがり火の炎がパチパチとはぜる音が聞こえ始め、本殿の方から重厚な鐘の音が聞こえてくる。
『──十、九、八……』
どこからともなく、カウントダウンの声が自然と湧き上がり、境内の全員がひとつになって夜空を見上げた。私の隣で、湊兄さんとお姉ちゃんが優しく微笑みながら、そっと肩を並べる。
『……三、二、一──あけましておめでとう!!』
ゴーーン……。
澄み渡る深夜の空に、新しい年の始まりを告げる除夜の鐘の音が深く響き渡った。
「あけましておめでとう、湊、みゆ」
「あけましておめでとうございます、お姉ちゃん、兄さん!」
「あけましておめでとう。二人とも、今年もよろしく」
新年の挨拶を交わしたその瞬間、空からひらりと白いものが舞い降りてきた。灯りに照らされた夜空から降ってきたのは、小さな雪の結晶。心配していた雪が、まるで新しい始まりを祝福するように静かに舞い始めたのだった。




