頂を見据える眼差し
私の課題克服が一通りの形になり、夕空が広がる河川敷のコートには、心地よい達成感とピンと張り詰めた緊張感が漂っていた。
「よし、みゆの練習はこれで一通りの成果が出たな。課題クリアだ」
湊兄さんのその言葉に、私は胸を張って深々と頭を下げた。
「兄さん、蓮さん、陽太……本当にありがとう!」
美咲との勝負で突きつけられたライジングボレーへの苦手意識。あの敗北の種が、みんなのおかげで新しい自分の強みへと変わったんだという実感が胸に満ちていく。
「さて……次は俺たちの番だな」
蓮さんが肩を軽く回しながら、不敵で力強い笑みを浮かべた。
湊兄さん、蓮さん、そして陽太。3人が真剣な眼差しで見据えているのは、来年開催される全国大会での「全国優勝」という頂点だ。私の特訓が終わった瞬間、コートに立つ3人の雰囲気が一変し、息を呑むような勝負師の空気が場を包み込む。
「まずは陽太、お前からだ。中等部男子のエースとして、さっきみゆがやってのけた『相手の出方を殺す対応』がどこまでできるか試させてもらうぞ」
「よろしくお願いします、蓮さん!」
陽太がラケットを握り直し、コートの深くへと足を進める。
蓮さんがコートに入ると、さっき私に見せたような超回転と変幻自在のテンポを織り交ぜた猛攻を打ち込み始めた。
──スパァンッ!
コート脇で見守る私の目にも速いとわかる、圧倒的なスピードの打球。
陽太には、私のような動体視力も、脳内で意識の割合をスライドさせる並列処理能力もない。ボールの微細な回転軸をリアルタイムで解析して対応するなんて、普通は不可能なはずだった。
──けれど、陽太には陽太だけの「武器」があった。
陽太はボールの動きを無理に目で追おうとしていない。長年コートで培ってきた感覚で、蓮さんの肩の入り方、踏み込んだ足の角度、そしてラリーの「流れ」そのものを全身で感じ取っている。あえて一歩右へ重心を傾け、レフト側へ誘い出すようなスペースを作ると、吸い寄せられるように放たれた蓮さんの打球を、あらかじめ移動していた足元から完璧に打ち返してみせた。
「……へえ、驚いたな。自分の身体感覚とコートの『流れ』を研ぎ澄まして、相手の打球を誘い出している」
コート上では、蓮さんと陽太の鋭い打球音が河川敷の夕空に響き渡っていた。
陽太の動きに目立った不調はない。むしろ、自分の武器である「流れを読む感覚」を活かして着実に良いプレイを重ねているように見えた。
……けれど、隣でラリーを見つめる湊兄さんの横顔は、どこか眉間にシワが寄っていて重々しい。腕を組み、思考の深い渦に潜り込んでいる様子だった。
「……兄さん、どうかしたの?」
私が覗き込むように尋ねると、湊兄さんはハッと息を吐き、視線をコートに向けたまま苦笑いを浮かべた。
「……いや。陽太に、次に出すべき課題の『方向性』が見つからなくてな」
「方向性……?」
意外な言葉に、私は思わず首をかしげた。中等部のエースとして大活躍している陽太だし、課題なんていくらでもありそうなのに。
「勿論、欠点がないわけじゃない。細かい癖も改善点も探せばあるが……それは『今』直すべきことじゃない。短所を細かく潰すのはいつでもできる、かと言って長所をさらに伸ばすための高負荷な特訓は、骨格がしっかりして身体が仕上がる中3になってからの方がはるかに効率がいい。……今の陽太にとって何が一番の正解なのか、見えなくなっている」
選手としての今だけでなく、陽太の将来の身体まで見据えているからこその悩み。湊兄さんらしい緻密で優しい足踏みだった。
──パンッ!
やがて一区切りつき、汗を拭いながら陽太がコート脇へ戻ってきた。
「湊さん、どうでしたか……!?」
アドバイスを求める陽太に、湊兄さんは一瞬迷うような間を置いてから、今の自分の見立てと悩みを正直に打ち明けた。今すぐフォームを弄るリスク、身体が完成する中3まで待つべきフィジカル強化のタイミング──それを聞いた陽太は、自分のラケットと握りこぶしをじっと見つめ、静かに考え込んだ。
「……湊さん。それなら、俺が方向性を決めてもいいですか」
少しの沈黙の後、陽太がまっすぐに湊兄さんの目を見据えて言った。
「俺、今は焦って新しい技や無理な強さを手に入れようとするより……『基礎トレーニングと体力作り』を最優先する」
「基礎と体力作り、か?」
「はい。さっきのみゆのプレイを見て、痛感したんだ。みゆが土壇場で完璧な判断ができたのは、波紋っていう基礎技術が身体にしみついていて、余計な意識を使わずに済んだからだ。……俺の『超感覚』も、最後は足を動かし続けるスタミナと、ブレない軸がないと成り立たない」
陽太の瞳には、一切の迷いがなかった。
「本格的な身体が出来上がった時に、どんな厳しい特訓にも耐えられるだけの大きな『器』を、今から地道に作っていくさ」
その力強い言葉を聞き、湊兄さんの表情からスッと迷いが消えた。口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「……そうか。自分の足元をしっかりと見つめ直せるのは、お前の強みだな。分かった、これからのお前のメニューは、怪我をしないための体幹強化と徹底的な基礎打ちを軸に組もう」
「はい!」
陽太のメニューが決まり、いよいよ夕闇が深く覆い始めたコートで、蓮さんがポンと自分の肩を叩いた。
「さて……最後は俺たちの番だな、湊」
「ああ。俺たちの目指す『全国優勝』へ向けて、一番の鍵になる部分だ」
ふたりの言葉に、私と陽太は思わず身を乗り出した。湊兄さんと蓮さん──高等部テニス部が誇る二大エースの強化方針。それは個人戦のスキルアップにとどまらない、さらに大きな構想だった。
「来期の高等部団体戦、そして個人戦ダブルスを見据えて、俺と湊で本格的にペアを組む」
「えっ……! 兄さんと蓮さんがダブルスを!?」
思わず声を上げてしまった私に、ふたりは顔を見合わせて頼もしく笑った。
「これまでは互いにシングルスのエースとして引っ張ってきたが、全国の頂点を狙うなら、勝率を盤石にするダブルスの柱が絶対に必要になる。俺の状況判断とゲームメイク、そこに湊の前衛での展開力と威圧感を掛け合わせれば、全国でも頭一つ抜けたペアになるはずだ」
「ああ。だが、お互いにシングルスの感覚が染みついている分、ダブルス特有のサインプレーやフォーメーション──特にオーストラリアンやIフォーメーションでの連携は、一から緻密に組み上げる必要がある」
湊兄さんがコートの白線を踏みしめながら、力強い眼差しで私と陽太を見つめた。
「そこでだ、みゆ、陽太。明日からの練習で、俺と蓮のダブルス練習の『仮想敵』になってほしい」
「俺たちが……湊さんたちの練習相手ですか!?」
陽太が目を輝かせる。湊兄さんは頷き、具体的な対策の意図を語り始めた。
「そうだ。単に打ち合うだけじゃない。みゆの覚醒した周辺視野による配球と、陽太の流れを読む感覚は、俺たちが組むフォーメーションの『隙』を突くのに最高の相手になる。お前たちふたりの鋭い観察力を相手に陣形を磨き上げられれば、どんな強豪ペアの揺さぶりにも動じない最強の連携が完成するはずだ」
「おもしろそう……! 兄さんたちの本気のダブルスに挑めるなんて!私たちも全力で勝ちに行くからね!」
「俺もです! 湊さんと蓮さんのフォーメーションを崩すつもりで、全力でいきますからね!」
私と陽太の威勢の良い返事に、蓮さんが不敵な笑みを深めた。
「頼もしいねぇ。明日からのコートが楽しみだ」
みゆの課題克服、陽太の基礎の固め直し、そして湊兄さんと蓮さんの最強ダブルスの始動──。
暗くなり始めた河川敷のコートで、四人は互いの瞳に宿る熱い意志を確かめ合うように、強く深く頷き合ったのだった。




