ドームを叩く雨と、白の記憶
「次はどこに行くの、兄さん?」
「フフッ、雨の日でも体を動かせる絶好の場所だ。みゆも絶対気に入るぞ」
プラネタリウム館を出た私たちは、そのまま同じ大型商業施設内にあるアミューズメントエリアへと向かった。たどり着いたのは、吹き抜けの広大なスペースにカラフルなホールドが壁一面に散りばめられた、本格的な屋内ロッククライミング(ボルダー)施設だった。
「わあ……! すごい、室内でこんなに大きなクライミングができるんだ!」
「どうだ? じっと星空を見てたから、少し身体を動かしたくなっただろ」
普段からテニスで体を動かすのが大好きな私にとって、このチョイスは嬉しすぎるサプライズだった。テンションが一気に跳ね上がる……けれど、ふと自分の服装に視線を落としてハッとする。
「あ……でも私、今日スカートだし、タイツだし……これじゃ登れないよ……」
「大丈夫だ。ここはウェアやシューズのレンタルが全部揃ってるんだ。サイズも事前に確認して予約してあるから、着替えてこい」
「えっ、レンタルまで……!? 兄さん、本当に抜かりないなぁ……」
さすがとしか言いようのない準備の良さに感心しつつ、私は貸し出されたスポーツウェアを受け取って女性用更衣室へと向かった。
ロッカールームで、今朝時間をかけて選んだアイボリーのニットとスカートを脱ぎ、動きやすいジャージとTシャツに着替える。鏡の前でハーフアップにした髪を結び直し、ほんのり塗っていたリップグロスを拭いながら、私はぽつりと呟いた。
「はぁ……せっかく兄さんのためにおめかししてきたのに、汗で落ちちゃうなぁ……。ちょっと勿体ない気もするけど……」
少しだけ愚痴をこぼしてみたものの、鏡の中の自分はこれから始まるアクティビティへの期待で、すでに目をキラキラと輝かせていた。
更衣室を出ると、一足先にスポーティな格好に着替えた湊兄さんが、シューズの紐を締めながら待っていた。
「よし、みゆ。テニスで鍛えた体幹と柔軟性、クライミングでも発揮してみろ!」
「ふふ、負けないからね! どちらが先に頂上まで行けるか勝負だよ、兄さん!」
おめかしした私服からスポーティな姿へ変身した私たちは、雨の日の憂鬱さを吹き飛ばすように、笑顔で壁の前へと駆け出した。
ハーネスとオートビレイ機(自動落下防止装置)が完備されたエリアは、万が一手を滑らせても安全なワイヤーが優しく吊り上げてくれるため、怪我の心配がない。その完璧な安全対策が、私たちの挑戦心に火をつけた。
「よし、次はあの高難易度ルートにいってみる!」
「おいおい、最初から上級者用にかぶりつくなよ。でもまあ……みゆの体の柔らかさならいけるかもな」
カラフルなホールドに手足をかけ、スイスイと壁を登っていく。普段のテニスで鍛えた体幹と柔軟性のおかげで、中級ルートまでは難なくクリアできた。けれど、勾配が手前に傾斜している上級者オーバーハングゾーンに差し掛かった時だった。
(あそこまで足を伸ばせば……届く……!)
持ち前の柔軟性を活かして強引に身体を捻り、遠くのホールドへ手を伸ばした瞬間——指先がわずかに滑った。
「あっ……!」
「みゆっ!?」
バランスを崩し、宙へ投げ出される私の身体。ワイヤーが作動して制動がかかるものの、勢いよく降下してくる私の真下に、反射的に駆け込んできた影があった。
すばやく腕を滑り込ませ、着地と同時に私をしっかりと受け止める強い腕。気づいた時には、私は湊兄さんの腕の中にすっぽりと収まる形で「お姫様抱っこ」されていた。
「ひゃっ……!?」
「っと……大丈夫か、みゆ? 怪我はないか?」
至近距離で見つめ返してくる湊兄さんの顔。整った眉、真剣な眼差し、そしてトレーニングウェア越しに伝わってくる体温と力強い鼓動。浮遊感の余韻と突然の密着に、胸がドクンッと大きく跳ね上がり、顔が一気に熱くなった。
「あ……う、うん! ワイヤーもあったし大丈夫!……あの、兄さん、降ろして……っ」
「……あ、ああ、悪い」
少し照れくさそうに湊兄さんが私を床へ降ろすと、お互いに視線を逸らして軽く咳払いをした。気まずさを誤魔化すように、今度は湊兄さんが壁に向かう。
「よし、次は俺だ。さっきのみゆの失敗ルート、攻略してやる」
最初は体重の重さもあってか、高い位置の難所で何度か体勢を崩し、ワイヤーに吊られて落下していた湊兄さん。けれど、持ち前の観察力と適応能力で足のかけ方や重心移動のコツを即座に掴んでいく。
「すごい……! 登るスピードがどんどん上がってる……!」
数回の挑戦の後には、まるで壁を軽やかに駆け上がるような滑らかさで、難関ルートをあっという間に登り切ってしまった。頂上でゴールボタンを押して誇らしげに振り返る姿は、悔しいけれどやっぱりかっこいい。
「どうだ、みゆ! コツさえ掴めばこんなもんだ」
「もう、負けず嫌いなんだから!」
その後も時間を忘れて夢中で壁に挑み続け、心地よい汗を流した。
「『終了10分前となります。お帰りの準備をお願いいたします』」
施設内のアナウンスが響き、気がつけば利用制限時間の終了間際になっていた。
「ふぅ……たくさん動いたね! すっごく楽しかった!」
「おう、良い汗かいたな。着替えてロビーで合流しよう」
各自更衣室に入り、汗を拭ってから、今朝時間をかけて準備した私服へと再び着替える。髪を整え直し、更衣室を出てロビーへ向かうと、一足を先に着替えを終えた湊兄さんが待っていた。
体を動かし尽くした爽快感と、途中のハプニングで残った甘酸っぱい余韻を胸に、私たちは楽しかったアミューズメント施設を後にした。
次に湊兄さんが案内してくれたのは、同じ敷地内にある全天候型の温水プール施設だった。ガラス張りのドーム天井には雨粒が静かに打ちつけているけれど、館内は南国のような暖かな熱気に包まれている。
「みゆ、ちょっと待っててくれ」
ロビーに着くと、湊兄さんはエントランス近くのコインロッカーへと向かい、鍵を開けて大きな手提げ紙袋を取り出してきた。
「はい、これ」
「これ……?」
「みゆの水着。姉さんが『みゆには絶対これが似合うから』って持たせてくれたんだのを、ロッカーに入れておいた」
「あ……」
渡された袋の隙間から覗く布地を見て、私の心臓が跳ねた。
——純白の水着。
1年前の夏、九十九里の合宿で着させられた、あの眩しいほどの白。自分の身体のラインを鮮烈に際立たせ、一人の「女」であることを突きつけられた、あの特別な水着だった。
(あの時……陽太は『綺麗だ』って言ってくれて……でも、兄さんは……)
思い出されるのは、あの夏の砂浜での記憶。
『お前、自分がどういう格好をしているか分かっているのか』
名前のつけられない熱を帯びた瞳で私を射抜いていた湊兄さんの姿。あの時は兄の迫力に身がすくみ、息が詰まるほどの緊張感に包まれた。
(あの水着を……また、兄さんに見せるの……?)
女子更衣室に入り、手提げ袋から水着を取り出す。
脱衣所で袖を通し、背中のリボンを結ぼうとしたとき、思わず息を止めた。
(あれ……? 胸元が、少しキツい……?)
1年前よりも成長した自分の体つきに、水着の布地がややつっぱり、胸元が少しだけ圧迫される感覚がある。鏡に映る自分を見つめると、引き締まったウエストに対して、胸元の存在感が以前よりもはっきりと際立っていた。
(……やっぱり、ソワソワする……早くプールに行こう)
◇
水着エリアへと向かう通路を抜け、温かい湯気がうっすらと漂うプールサイドへと足を踏み入れる。ガラスドームを叩く静かな雨音の中、先に着替えを終えた湊兄さんが、水辺で私を待っていた。
その背中を見つめながら、私はふと察していた。
湊兄さんがなぜ、わざわざこの水着を用意してくれたのか。
私の水着姿をもう一度見たいという気持ちもあったのかもしれない。
「湊兄さん……」
緊張で少し細くなった声で呼びかけると、湊兄さんがゆっくりと振り返った。
そして私を見るなり、息を呑んで動きを止めた。
白の布地が際立たせる身体のライン。少しキツそうな胸元を隠すように肩をすくめる私の姿に、湊兄さんの瞳にはあの夏の海と同じ……ううん、それ以上に深く、重い熱が宿っていた。けれど、そこには冷たい圧迫感ではなく、胸が苦しくなるほどの優しさが溢れていた。
「……あ、あの……着てみたけど……ちょっとキツくて変かな?」
不安になって見上げると、湊兄さんは固く閉じていた目をゆっくりと開き、目元を柔らかく緩めた。
「……変なわけないだろ。……すごく、綺麗だ」
低く、どこまでも優しい声。
「あの夏の海でも思ったよ。お前が綺麗すぎて、誰の視線にも晒したくないってな。……でも、今はもう隠すつもりはない。一人の男として、今日のお前を誰よりも美しく思ってる」
「兄さん……」
「冷えないうちに、おいで。水、温かくて気持ちいいぞ」
湊兄さんは優しく手を差し伸べてくれた。私が足元を滑らせないよう、しっかりと、けれど壊れ物を扱うように丁寧にその手を取ってくれる。私のことを誰よりも大切に扱ってくれているのが、伝わってきた。
ドーム天井を打つ雨音の中、温かい水の中で二人で並んで泳ぎ、時に水飛沫をあげて無邪気に笑い合った。私が少し寒そうにすると、湊兄さんはさりげなく肩を寄せて抱き寄せ、暖かな水の流れへと導いてくれる。
不器用な恋人からの想いと、一人の男として私を大切に守り愛でてくれる湊兄さんの深い優しさ。二つの温もりに包まれながら、特別なクリスマスイブの午後は、静かな余韻とともに更けていった。




