雨音と星の導き
クリスマスイブの朝。
「みゆ、俺先に行ってるからな。集合は10時に駅前の時計台の下だ」
朝食を終えた湊兄さんが、いつもより少しビシッと決めた私服姿で玄関に向かった。同じ家から二人で並んで出かけるのは雰囲気に欠けるからと、わざわざ現地集合にしてくれたのだ。そういう細やかな気遣いに、高校生らしいかっこつけと優しさが混ざっていて、思わず口元がほころぶ。
「うん! 後でね、兄さん!」
ドアが閉まる音を見送ると、私は一気に自分の部屋へ駆け上がった。
(陽太に『楽しんでこいよ』って言ってもらったとはいえ……やっぱり折角のお出かけだもん。ちゃんと綺麗にしていかなきゃ!)
クローゼットを開け、あらかじめ選んでおいた服をベッドに並べる。普段の部活ではジャージばかりだから、私服でのおしゃれは気合が入る。
やわらかなアイボリーのニットセーターに、チェック柄のフレアスカート。黒のタイツを合わせ、姿見の前で何度も角度を変えてチェックする。髪型も少し時間をかけて、ハーフアップに可愛らしいリボンをあしらってみた。仕上げに、冬の冷たい空気に負けないよう、ほんのりピンクのリップグロスを唇にのせる。
「う~ん……変じゃないかな?」
姿見に映る自分の姿に首をひねっていると、部屋のドアが軽くノックされ、雫お姉ちゃんが顔を出した。
「あら……! みゆ、すごく可愛いわね! ニットの柔らかい感じがすごく似合ってるわよ」
「本当……? 良かったぁ。ありがとう、お姉ちゃん!」
「ふふ、楽しんできてね。あ、湊は午後からの雨対策もバッチリ考えてるみたいだから、安心して羽を伸ばしてきなさい」
「うん!」
お気に入りのコートを羽織り、小さなショルダーバッグを肩にかけた私は、跳ねるような足取りで家を出た。
冬の澄み切った朝空の下、吐く息の白さに少しだけ胸を躍らせながら、約束の駅前時計台へと向かった。
駅前の時計台の下。約束の10時より少し早く到着すると、人混みの中でコートの襟を立てて立っている湊兄さんの姿が、遠くからでもすぐに目に飛び込んできた。
黒のロングコートにダークグレーの首巻き。普段のスポーツウェア姿とは違う大人っぽく洗練された佇まいに、近づくにつれて胸の鼓動が早くなっていく。
けれど——その湊兄さんの周囲には、華やかな雰囲気の女子高生が三人ほど群がっていた。
「ねえねえ湊くん、今一人? 私たちと一緒に遊ばない?」
思わぬ「逆ナン」の場面に、私は思わず物陰に隠れて足を止めてしまった。だけど、当の湊兄さんは一切動じることなく、いつものクールな表情のまま淡々と首を横に振っている。
「すまないな。今、大切な連れを待っているところなんだ」
きっぱりと断る姿があまりにかっこよくて、私は声をかけるタイミングを見失い、その場で固まってしまった。すると、人混みの隙間から私を見つけた湊兄さんの表情が、一瞬で柔らかく緩んだ。
「あ、ちょうど来たところだ」
湊兄さんが手を振ると、女子高生たちが一斉に振り返り、私の方を見た。
「えっ……あの子? って、なんだぁ、湊くんの妹ちゃんじゃん!」
「なんだー、テニス部で噂の可愛い妹ちゃんかぁ! 恋人かと期待しちゃった」
彼女たちのうちの一人は、湊兄さんと同じ高校の女子テニス部の先輩だったらしく、事情を知っていたため、みんな笑いながら「じゃあね、良いイブを!」と爽やかに去っていった。
ホッと胸を撫で下ろしながら、私は歩み寄った。
「兄さん……待たせてごめんね」
「気にするな、ピッタリ10時だ。」
「……ねえ、どうかな? 変じゃない?」
少し気恥ずかしくなってスカートの端をきゅっとつまみながら見上げると、湊兄さんは照れくさそうに片手で口元を覆い、少しだけ視線を逸らした。
「……変なわけないだろ。すごく可愛いし、よく似合ってる」
「ふふ、ありがと!」
直接褒められて一気に顔が熱くなる。湊兄さんは「よし、いくぞ」と小さく咳払いをして、歩き出した。
最初に連れてきてくれたのは、街並みを見渡せる綺麗なオープンカフェだった。午前中の澄んだ日差しを浴びながら、冬限定のホットチョコレートと焼き立てのワッフルをいただく。
「わあ……! これ、ずっと食べてみたかったやつだ!」
「そうだと思って事前に予約しておいたんだ。美味いか?」
「うん、すごく美味しい!」
私の様子を嬉しそうに見つめる湊兄さん。
美味しいスイーツを堪能したあとも、午前中の晴れ間を生かして、近くの広い公園へ散策に向かった。色鮮やかな冬の景色の中を二人で並んで歩きながら、テニスのこと、学校のこと、他愛もない会話で笑い合う。
自然と手が触れそうになる距離感。かつてのような兄妹の距離感でありながら、どこかお互いを意識している甘酸っぱい空気が、冬の心地よい冷気の中に漂っていた。
公園の散策を終える頃には時計の針は12時半を回り、二人の足はお腹の虫の知らせとともに落ち着いた雰囲気のショップが並ぶエリアへと向かっていた。
「お昼、何が食べたい? 今日くらいはみゆの好きなものを何でもご馳走するぞ」
「本当!? んー……じゃあ、少し落ち着いたお店でパスタとかグラタンが食べたいな!」
「よし、決まりだな。とっておきの店があるんだ」
湊兄さんが案内してくれたのは、路地裏にひっそりと佇むシックなイタリアンレストランだった。店内はクリスマス仕様の上品なイルミネーションで飾られ、ハーブと香ばしいチーズの芳醇な香りが心地よく漂っている。
運ばれてきたのは、濃厚なポルチーニ茸のクリームパスタと、あつあつの生ハムのガレット。色鮮やかで洗練された料理に、私の目は思わず輝いた。
「わぁ……! すごくおしゃれで美味しそう……! いただきます!」
「火傷しないように気をつけろよ」
フォークでクルクルと巻いて一口頬張ると、豊かな風味が口いっぱいに広がり、私は思わず頬を押さえて笑みをこぼした。そんな私の反応を、湊兄さんは目元を柔らかく緩めながら、嬉しそうに見つめている。
「すごく美味しい! ねぇ兄さん、このパスタ一口食べてみて!」
「おいおい、人前で恥ずかしいな……あむ。……うん、確かに絶品だな」
少し照れながらも私のフォークから料理を受け取る湊兄さん。そんな何気ないやり取りの一つひとつが、胸の奥をどこか甘酸っぱくくすぐった。
けれど、ふと大きなガラス窓の外に目をやると、午前中の澄み切った青空はすっかり影を潜め、どんよりとした厚い灰色雲が空全体を覆い始めていた。冷たい風が街路樹を揺らし、今にも雨粒が落ちてきそうな気配を漂わせている。
(空模様、本格的に怪しくなってきたな……)
お腹が満たされて大満足な反面、頭の片隅で午後の予定が気になり始める。午前中はカフェと公園散策で完璧に楽しめたけれど、雨が降り出したら外のデートは難しくなってしまう。
「兄さん……空、すごく暗くなってきたね。午後からの予定って、どうするの……?」
グラスの水をくりくりと回しながら尋ねると、湊兄さんは優しくナプキンで口元を拭い、不敵で頼もしい笑みを浮かべた。
「心配しなくて大丈夫だ。雨が降ることも織り込み済みだって言っただろ? 外が雨でも、絶対にみゆが夢中になれる場所に案内してやるから」
「夢中になれる場所……?」
「行ってからのお楽しみだ。さあ、店を出るか」
レストランを出ると、予報通りポツポツと冷たい雨粒が落ちてきていた。
「降ってきたな。よし、みゆ、こっちだ」
湊兄さんは手際よく大きめの傘を開くと、私をすっぽりと傘の下に招き入れた。肩が軽く触れ合う距離感に、ドクンと胸が鳴る。
そうして雨を避けながら二人で歩いて到着したのは、大型商業施設の中に併設された最新式のプラネタリウム館だった。
「プラネタリウム……!?」
「おう。外が雨でも、ここなら絶対に綺麗な星空が見られるだろ? お前がずっと前に『満天の星空を見てみたい』って言ってたの、覚えてるか」
「……えっと、私のそんなこと言ったかな、でも、ここなら雨でも楽しめそう。」
幼い私の一言を覚えていてくれて、雨の日のための特別な避難場所としてここを選んでくれた。その気遣いが嬉しくてたまらない。
事前に予約してくれていたペア用のリクライニングシートに二人で腰を下ろす。
場内の照明が徐々に落ち、満天の星空がドーム全体に広がった。吸い込まれそうな深い群青の世界と、宝石のように煌めく星々。周囲の静寂の中で、隣に座る湊兄さんの息遣いと温もりが、はっきりと伝わってくる。
(すごい……きれい……)
星空の見事さに息を呑みながらも、私はチラリと隣の湊兄さんの横顔を見上げた。暗がりの中でスクリーンを見つめる兄の瞳は凛としていて、どこか大人びて見えた。
(今日一日、私を喜ばせようと一生懸命計画してくれて……優しくて、頼もしくて……)
恋人である陽太のまっすぐな優しさも愛おしい。だけど、目の前にいる湊兄さんの不器用で深い愛情も、私にとってかけがえのない大切な宝物だ。
◇
感動的なプログラムの上映が終わり、場内の灯りが再び点灯した。時計の針を見ると、まだ14時を少し過ぎたところだった。
「ふぅ……すごく感動的だったな」
「うん! すっごくきれいだった……! 最高の時間をありがとう、湊兄さん!」
「まだまだイブの半ばだぞ。本番はこれからだ」
シートから立ち上がりながら、湊兄さんはどこか悪戯っぽく口元を緩ませた。外はまだ雨が降り続いているけれど、私たちの特別なクリスマスデートは、まだ折り返し地点を迎えたばかりだった。




