重ねられた視線、遺された道標
高校時代のビデオを見終えた後、湊兄さんは机の上に置かれた一枚のケースへ手を伸ばした。
「次は……大学時代のやつだな。これは、祥子お母さんが撮ってくれていたDVDみたいだ」
ディスクが読み込まれると、画面の雰囲気がガラリと変わった。
高校までの記録とは異なり、コートの周囲には穏やかな空気が流れている。レンズの向こうから聞こえる微かな手ブレや息遣いに、祥子おばさんの徹おじさんに対する深い愛おしさが滲み出ているようだった。
「……お父さんは……映ってないみたいね」
お姉ちゃんが画面の端々を探すように呟いた。
大学での試合風景がいくつか流れたけれど、そこにお父さんの姿はなかった。
「別の大学に進学したのかな? でも、対戦相手のベンチやトーナメント表の映像を見ても……健一お父さんの名前が見当たらないね」
葵さんが不思議そうに首をひねる。高校時代にあれほど息の合ったプレイで全国を制した二人だったからこそ、大学で離れ離れになり、お父さんの名前すら消えてしまったことに、私たちは小さな違和感を抱いていた。
けれど、その疑問を深追いする間もないほど、祥子おばさんが遺した映像はあまりにも濃密なものだった。
「これ……ただの試合記録じゃないな」
陽太が感嘆の声を漏らす。
DVDに収められていたのは、華やかな公式戦の様子だけではなかった。夕暮れ時のコートで一人残って打ち込む徹おじさんの個人練習や、様々な角度から撮影された精密なフォームチェックの映像が幾度となく記録されていたのだ。
『徹くん、さっきのサーブ、トスが少し後ろに倒れてる。だから打点がブレるのよ』
画面の外から、落ち着いた柔らかな女性の声が響く。
『そっか……よし、もう一回頼む。祥子、角度見ててくれ』
『ええ、撮ってるわよ。……うん、今の回転なら相手のバック奥に深く沈むわ』
カメラを構えながら、的確なアドバイスを送る祥子おばさん。徹おじさんもその言葉に深く頷き、何度も何度も試行錯誤を重ねていた。
「祥子叔母さん……テニスの専門的なことまで、こんなに詳しくアドバイスしてたんだ……」
「……母さんは、ただ応援するだけじゃなく、父さんの最高の理解者で、アナリストみたいな存在だったんだな」
続いて再生されたディスクには、徹おじさんが実業団の名門チーム『サンライズ・スチール テニス部』へと加入した際の映像が収められていた。
入団会見の場と思われる室内。少し緊張した面持ちで真新しいユニフォームに身を包んだ徹おじさんが、大勢の報道陣や関係者を前にマイクを握っている。
『今年度よりサンライズ・スチールに所属することになりました、神崎徹です。プロの世界は厳しい場所ですが、自分の持てるすべてをコート上で発揮し、チームの勝利に貢献したいと思っています』
ハキハキとした力強い声。その姿に、陽太も葵さんも息をのんで見入っていた。
記者からの質問がいくつか続いた後、一人の男性記者がマイクをとった。
『神崎選手といえば、高校時代に全国制覇を成し遂げたダブルスパートナーの存在が記憶に新しいですが、彼に対して何か思いはありますか?』
一瞬、画面の中の徹おじさんが寂しげに目を細めた。けれどすぐに、その瞳には澄み切った決意の光が宿る。
『……彼、健一は、高校を卒業する際にテニスを引退しました。理由は彼の個人的な事由ですが、僕にとって彼が最高の相棒であり、親友であることに変わりはありません』
力強く言い切る徹おじさんの言葉に、リビングにいた全員が固唾をのんだ。
『僕が今日この場所に立っていられるのは、高校時代に彼と共に戦い、切磋琢磨した時間があったからです。彼は今、別の道を進んでいますが……僕はコートに立つとき、いつも彼の思いも一緒に背負ってラケットを振っています。親友の分までプロの世界で戦い抜き、世界に通じる選手になって見せます』
まっすぐな眼差しでそう答える徹おじさんの姿を見つめながら、お姉ちゃんがハッと息をのんだ。
「……そっか。お父さん、だから進学しなかったんだ……」
涙を浮かべたお姉ちゃんが、震える声で言葉を紡ぐ。
「お父さんとお母さんね、高校を卒業してすぐに結婚したの。その時、お腹には私がいて……お父さんは高卒で働き始めて、ずっと家族を支えてくれた。……まさか、テニスの道や進学を諦めてまで、私たちを守るために就職を決めていたなんて……」
今日この映像を見るまで、健一お父さんがテニスをやっていたことすら知らなかったお姉ちゃん。けれど、幼い頃に聞いていた「若くして結婚し、すぐに働き始めた」という家族の歩みが、テニスを辞めた本当の理由と一つに繋がったようだ。
そして、その決断の重さを誰よりも理解し、会見で一切の事情を明かさず「個人的な事由」とだけ語って友の家庭を守った徹おじさん。
「健一お父さんの思いも背負って……か」
湊兄さんは溢れ出そうになる感情を抑えるように胸に手を当て、画面の中の父親の言葉を一つひとつ刻みつけるように噛み締めていた。
映像はさらに進み、徹おじさんのプロ時代の試合風景へと移り変わっていった。
世界の強豪たちと渡り合い、鋭いサーブと洗練されたボレーでコートを駆け巡る姿は、まさにプロフェッショナルそのものだった。画面の中の徹おじさんは、眩しいほどの輝きを放っている。
そして、最後のディスクの終盤――画面がプライベートなホームビデオの映像へと切り替わった。
日当たりの良いリビングで、まだ赤ん坊だった湊兄さんが、自分の身体ほどもある大きなテニスボールを両手でギュッと抱きしめている。
『徹、見て。湊ったら、そのボール全然離さないのよ』
カメラを回す祥子おばさんの愛おしそうな笑い声。徹おじさんが優しく目を細め、小さな湊兄さんの頭を撫でながら語りかける。
『はは、やっぱり俺たちの子だな。……いいぞ湊、そのまま離すなよ』
黄色いボールを抱えたまま、キャッキャと嬉しそうに声を上げて笑う赤ん坊の湊兄さん。
「……っ」
その光景を食い入るように見つめていた湊兄さんの肩が、小さく震えた。
「俺……小さい頃に、健一お父さんに色んなスポーツをやらせてもらっただろ。サッカーも、野球も、水泳も……どれもしっくりこなくて。でも、初めてラケットを握ってボールを打った時だけ、不思議と手にしっくり馴染んだんだ」
湊兄さんは自分の右手をじっと見つめ、噛み締めるように言葉を続けた。
「どうしてテニスだけあんなに自然に身体に馴染んだのか……ずっと不思議だった。……でも、違ったんだな。俺の手は、最初からこの感触を覚えていたんだ」
「兄さん……」
私がそっと寄り添うと、湊兄さんは穏やかで、けれどどこか力強い笑みを浮かべた。
「健一お父さんが色んなスポーツを試させてくれたのも……きっと、俺に無理強いしたくなかったからなんだと思う。自分の意志で、もう一度このボールに辿り着くのを待ってくれていたんだ」
赤ん坊の湊兄さんが抱きしめていた黄色いボール。それは、天国の両親から受け継がれた最初の贈り物であり、お父さんが優しく見守り続けてくれた絆の原点だったのだ。
「……すげぇや、湊さん」
陽太が感極まったように呟き、葵さんも静かに涙を拭っていた。
「うん。……父さん、母さん。俺、テニスに出会えて本当によかった」
テレビ画面の中で笑う両親に向けて、湊兄さんは静かに、けれど揺るぎない声で感謝を告げた。温かな冬の光が差し込むリビングに、全員の深くあたたかな余韻がどこまでも満ち渡っていた。




