朝の誓いと夕暮れの課題
昨日の緊張が嘘のように晴れ渡った、澄んだ冬の朝。
通学路の冷たい空気が、少し火照った頬を心地よく撫でていく。
「――そっか。湊さんの母方のおばあさん……三谷のおばあさん、病院に入院されてたんだな」
隣を歩く陽太が、どこか感慨深そうに呟いた。三谷家との複雑な過去や、薫子おばあさんの存在について軽く説明を終えると、陽太は静かに白い吐息を吐き出した。
「うん。……最初はすごく驚いたし、緊張したんだけどね。最終的にはちゃんと受け入れてもらえたよ。兄さんのことも、私のことも」
「そうか……本当によかったな、みゆ」
陽太は優しく目を細め、私の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれた。
「それにね、昨日は神崎のおじいちゃんに誘われて、兄さんの生家にも寄ってきたの。そこに……徹おじさんが生前使っていたテニスの用具一式と、試合や練習の記録映像が残されていてね」
「えっ……テニス用具と、記録映像……!?」
テニスが大好きな陽太の目が、一瞬で輝きを帯びる。
「うん。悟おじいちゃんが撮影した徹おじさんの中学・高校時代の映像と、祥子おばさんが撮影した大学からプロ時代の映像みたい。今度の土日に、私の家でその映像を見ようって兄さんと話してたんだけど、陽太も来るよね?」
「えっ……い、いいのか? だってそれ、湊さんのご家族の……すごく大切な形見で、貴重な記録だろ? 俺も見ちゃって大丈夫なのか……?」
動揺を隠せないでいる陽太を見て、前を歩いていた湊兄さんがふっと足を止め、振り返った。
「お前なら問題ない」
湊兄さんはどこか誇らしげに口元を緩め、まっすぐに陽太を見つめた。
「お前は俺の大切な弟分だし、ライバルだ。父さんのテニスを、お前にも見てほしい。絶対に刺激になるはずだ」
「湊さん……っ」
力強い湊兄さんの言葉に、陽太の瞳にパッと熱い色が灯る。
「……ありがとうございます! 絶対行きます、しっかり勉強させてもらいます!」
嬉しそうに胸を張る陽太の姿に、私も思わず笑みがこぼれた。会話を交わしながら校門をくぐり、中等部と高等部の校舎の分岐点へとやってくる。
「じゃあ俺、高等部の方に行くから。また家でな」
「うん! 兄さん、また後でね」
手を振って高等部校舎へ向かう湊兄さんの背中を見送った後、私と陽太は一緒に中等部校舎の昇降口へ向かい、上履きに履き替えた。階段を上り、廊下を進んでいく。
「じゃあみゆ、俺の教室ここだから。また昼休みにな」
Aクラスの教室前で足を止めた陽太が、爽やかに微笑みかけてくれた。
「うん、また後でね、陽太!」
私も笑顔で手を振り返し、自分の教室へと足を進めたのだった。
放課後。冬の澄んだ空気が満ちるコートに、軽快なボールの打球音が響き渡っていた。
「みゆ先輩! 私の『波紋』、前より精度が上がったと思うんです! ぜひ見てくださいっ!」
女子テニス部のコートに入ると、一年生のひかりちゃんが目を輝かせながら駆け寄ってきた。その弾んだ声とやる気いっぱいの笑顔に、部員たちの視線が集まる。
「そっか、頑張って練習していたんだね。……よし、じゃあ美咲、ひかりちゃんの相手をお願いできる?」
「任せて! ひかりちゃんの『波紋』なら、いくらでも受けて立つよ」
私の頼みに、親友の松本美咲が頼もしくラケットを構えた。私の『波紋』を一番近くで受けてきた美咲は、相手の球の速度や回転を利用するこのカウンター技術の仕組みを、誰よりも理解している。
「よろしくお願いします、美咲先輩っ!」
ひかりちゃんがポジションにつき、ラリーが始まった。美咲はまず、素直なスピードのドライブ球を送る。ひかりちゃんは落ち着いた面でボールを受け止め、相手の威力を綺麗に打ち消して返球した。初歩である「速度と回転の無効化」は完全に自分のものにしている。
「いい感じ! じゃあ、次は少し球威を上げるよ!」
美咲が鋭いトップスピンを打ち込むと、ひかりちゃんはステップを踏み込み、その回転と速度を殺さずにそのまま威力を乗せて打ち返した。「威力を利用した返球」だ。
美咲はニヤリと笑うと、今度はコースを厳しく散らし、球種を刻々と変化させていく。ひかりちゃんは相手の視線や打撃姿勢から必死にコースを予測し、喰らいつこうとするが――次第に相手の勢いに押され、打点が遅れ始めてしまった。
「そこまで! ふたりとも、ナイスラリーだったよ!」
私の合図で、コート内に心地よい静寂が戻る。荒い息を整えながら期待の眼差しを向けてくるひかりちゃんに、私は歩み寄って声をかけた。
「ひかりちゃん、すごく良くなってる! 相手の球の威力を殺すだけじゃなくて、美咲の打球の速度と回転をしっかり利用して打ち返せていたよ。視線からコースを読む姿勢もできてた!」
「本当ですか……っ!? 嬉しいです!」
「うん。ただ、もっと上を目指すなら……相手の動作や視線を見るだけじゃなくて『美咲なら次どこへ打ちたくなるか』っていう思考まで予測に組み込んでみて。相手の思考まで読めれば、もっと余裕を持って打点を前に置けるから。そうすれば、相手の力を増幅して返すことにも繋がっていくはずだよ」
「相手の思考……! 打点を前に置くための予測ですね。ありがとうございます、みゆ先輩! すぐに意識してみます!」
アドバイスを真剣な表情で噛み締めると、ひかりちゃんは元気よく再び練習へと戻っていった。美咲と顔を見合わせ、後輩の頼もしい成長に温かな笑みを交わし合った。
「……いやー、びっくりした。ひかりちゃん、短期間で本当に伸びたね」
コート脇で汗を拭きながら、美咲が感心したように息を吐き出した。その視線の先では、先ほどのアドバイスを反復するように、ひかりちゃんが熱心に素振りを繰り返している。
「うん。のみ込みが早くて本当に頼もしいよ。これなら……来年は安心してエースを任せられるかもしれないね」
私が誇らしい気持ちで微笑むと、美咲はタオルの隙間から私をじっと見つめ、少し真面目な顔つきに変わった。
「来年のエースねぇ……。ねえ、みゆ。ひかりちゃんの成長はすごく嬉しいんだけど、ひとつ気になっていることがあるだよね」
「え? なに……?」
「『波紋』のことだよ。今年の全国大会で、みゆの波紋は全国の強豪校に完全に知れ渡っちゃったでしょ? 相手の威力を利用するカウンターだってことも、軌道の特徴も、データとして出回っているはず」
美咲はコートの白線に視線を落とし、言葉を続けた。
「ひかりちゃんがどれだけ波紋を極めても、来シーズンは最初から『対策された状態』で挑まれることになる。相手も打つコースを偽ってきたり、回転を極限まで殺した死球で波紋の威力を削いでくるはずだよ」
「……そうだね。美咲の言う通りだと思う」
親友からの的確で鋭い警告に、私の胸はキュッと引き締まった。
技術が知れ渡れば、必ずそれを上回る対策が生まれる。相手の力を利用する『波紋』だからこそ、相手が対策を講じてきた時の隙をどう突くか――あるいは、対策すらも飲み込む新しい選択肢が必要になるのだ。
「来年の全国で勝つためには、従来の波紋だけじゃ足りない。相手の対策のさらに上をいく『次の選択肢』を、私自身も形にしていかなきゃね」
「ふふ、やっぱりもう考えてた? みゆならそう言うと思ったよ」
意気込む私を見て、美咲は安心したようにいつもの明るい笑顔を取り戻した。沈みかけた冬の夕日を浴びながら、私はラケットのガットをギュッと握り直し、新たな壁を乗り越えるためのイメージを膨らませていた。




