紡がれる遺品、託された記録
「……そろそろ、面会時間も終わりだね」
壁の時計を見上げた悟おじいちゃんが、静かにそう切り出した。気がつけば、窓の外の冬空はすっかり茜色から濃い群青色へと移り変わっていた。
「薫子おばあちゃん、今日は本当にありがとうございました。また……会いに来てもいいですか?」
湊兄さんがベッドの傍らでそう問いかけると、薫子おばあちゃんは愛おしそうに目元を和ませ、力強く頷いた。
「あたり前だろ。湊、身体に気をつけてな。……みゆちゃんも、葵ちゃんも、遠くまでありがとうね」
「はい! おばあちゃんも、お体に気をつけてくださいね」
楓さんに送られながら病室を後にし、私たちは夕闇に包まれた病院の駐車場へと戻ってきた。冷たい夜気が頬を刺すが、行きに感じていた息苦しいほどの緊張感は、もうどこにもなかった。
車へ乗り込もうとしたその時、運転席のドアに手をかけた悟おじいちゃんが、ふと思い出したように振り返った。
「そういえば湊、このまま一度、お前の生家……神崎の家に寄っていかないかい? 渡したいものがあるんだ」
「生家に……ですか?」
「ああ。隣の葵ちゃんの家の敷地にも接している、あの家だよ。裏の倉庫にね……父親の徹が生前ずっと愛用していたテニスラケットや、用具一式がそのまま保管してあるんだ」
「父さんのテニス用具……」
湊兄さんが息を呑む。悟おじいちゃんは柔らかく目を細めて続けた。
「それだけじゃない。家の中にはね、祥子さんが大切に遺してくれた、現役時代の徹の試合の記録映像や資料も残っている。元プロテニスプレイヤーのプレイや、徹のフォームが映った貴重な記録だ。お前たちの力になると思ってね」
「……っ、そんな貴重なものが……! ぜひ見せてほしいです」
湊兄さんの瞳に、強い光が宿る。同じテニスを志す者として、実の父親の遺した記録は、何物にも代えがたい宝物に違いない。
「よし、じゃあ決まりだね。葵ちゃん、突然寄ることになってすまないね」
「ううん、全然! 自分の家に戻るみたいなものだし、私も嬉しいです!」
葵さんも弾んだ声で答え、私たちは悟おじいちゃんの運転する車に乗り込み、湊兄さんの生家――神崎の家へと向けて走り出した。
病院から三十分ほどで神崎の家に到着した。
手入れの行き届いた庭を抜け、悟おじいちゃんが敷地の奥にある頑丈な倉庫の鍵を開ける。
ギィ、と重い音を立てて扉が開くと、そこには丁寧に手入れされたラケットケースや、大切に保管されていたテニスバッグが並んでいた。
「これが……父さんの」
湊兄さんは吸い寄せられるように歩み寄り、一回り大きなラケットケースをそっと抱きしめた。グリップには、かつて徹さんが握り締めていたであろう確かな跡が刻まれている。
「そして、これが祥子さんが綺麗にラベルを貼って遺してくれたテープだよ」
母屋の居間に移動すると、悟おじいちゃんが古びたビデオテープやDVDのケースを幾つも机の上に並べた。そこには『神崎悟 決勝戦』『徹 フォームチェック』と、丁寧な女性の文字で記されていた。
「すごいな……元プロテニスプレイヤーの生の情報なんて、そうそう手に入るものじゃないぞ。フォームの分析も、試合の組み立て方も……絶対にこれからの糧になる。悟おじいちゃん、本当にありがとうございます」
湊兄さんが深々と頭を下げると、悟おじいちゃんは嬉しそうに胸を張った。
「なぁに、過去の遺品がこうして未来を拓く孫の役に立つなら、徹も祥子さんも喜んでいるさ。……さて、本当なら今すぐ鑑賞会と決め込みたいところだが、すっかり時間も遅くなってしまった」
「あ……本当ですね、もうこんな時間」
葵さんが時計を見て小さく声を上げる。夜の八時を回っており、冬の夜風はいよいよ冷え込んでいた。
「今日のところは持ち帰って、じっくり観ることにしよう。政子も家で夕飯を温めて待っているからね。葵ちゃん、遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
「ううん、全然! すぐお隣だからすぐ着いちゃうし、今日は一緒に行けて本当に良かったです」
大切な宝物をしっかりと腕に抱えた湊兄さんの表情は、どこかすがすがしく、自信に満ち溢れていた。止まっていた過去の時間を受け止め、前へと進むための糧を得た彼の背中は、以前よりもずっと頼もしく見える。
「それじゃあ、俺たちもこれで帰るよ。悟おじいちゃん、車での帰り道、気をつけてください」
「ああ、ありがとう。みゆちゃんも、今日も一日お疲れ様だったね」
「いいえ、私の方こそ……本当に行けてよかったです」
葵さんを見送り、車へ乗り込む悟おじいちゃんに手を振る。私は湊兄さんと顔を見合わせ、静かに微笑み合った。こうして、長く重ろしかった一日が、確かな希望とともに終わりを告げようとしていた。




