受け継がれる温もり、手渡された未来
静かに開かれた扉の向こう――病室の中は、先ほどの嵐のような怒号が嘘のように、穏やかな空気に満ちていた。
ベッドの上の薫子おばあちゃんは、涙の痕が残る目元を和らげ、隣に座る湊兄さんの手を優しく包み込んでいる。私たちが足を踏み入れると、部屋中の視線が一斉にこちらへと向けられた。
「……薫子さん」
悟おじいちゃんが静かに声をかけると、薫子おばあちゃんはゆっくりと視線を動かし、扉の脇で身を縮めていた私の姿を捉えた。一瞬、身が竦む。だが、その瞳に宿っていた激しい敵意は、すでに消え去っていた。
「……悟さん。悪いんだがね……この子と二人きりにさせとくれ」
「え……薫子おばあちゃん……?」
驚いて声を上げた私に、湊兄さんが立ち上がり、私の肩をそっと叩いて力強く頷いてみせた。悟おじいちゃんや楓さん、葵さんも温かな眼差しを向けながら、静かに部屋の外へと出ていく。
パタンと重い扉が閉まり、病室には私と薫子おばあちゃんの二人だけが残された。
時折響く医療機器の電子音。窓の外を流れる雲。
二分……三分という時間が、永遠のようにも思える静寂の中で過ぎていく。私は膝の上で固く拳を握りしめ、じっと俯いて耐えていた。
「……さっきは、すまなかったね」
ぽつりと落とされたのは、掠れた、けれどどこか柔らかな謝罪の言葉だった。
「っ……え……?」
思わず顔を上げると、薫子おばあちゃんは申し訳なさそうに目元を細め、小さく首を振っていた。
「湊から……全部聞いたよ。あの事故の夜のことも……あんたたちの家での暮らしのことも。……そして、妹であるあんたのこともね」
おばあちゃんは深いため息をひとつ吐き、静かに視線を窓の外へ向けた。
「……確かに、あんたには何の罪もない。それどころか、親たちの勝手な事情や真実に振り回された……一番の被害者だ。……それにね、湊がこんなに立派で、心の強い子に育ってくれたのは……あんたが妹として傍にいてくれたからなんだって、あの子の言葉を聞いてよく分かったよ」
ベッドから伸ばされた細い手が、私の震える手を包み込む。その掌は思いのほか温かかった。
「感情に任せて酷いことを言って……本当にごめんよ、みゆちゃん。湊を……我が子のように大切にしてくれて、ありがとうね」
「おばあちゃん……っ」
溢れ出しそうになる涙を必死にこらえながら、私はしっかりと手を取り返した。
「……私、今年になるまで事故の真実なんて何も知りませんでした。だから……ただの普通の妹として、大好きな兄さんと一緒に笑って過ごしてきたんです。……これからも、ずっと兄さんを支えていくって決めています。家族として……絶対に」
私がまっすぐに思いを宣言すると、薫子おばあちゃんは驚いたようにパチリと目を見開いた。そして次の瞬間――その目元にお茶目な悪戯っぽさが浮かんだ。
「……ほう。言ったねぇ……それは何かい? これから湊の『嫁』になるって意味かい?」
「っ……!? い、いえっ! そういう意味では――っ!?」
あまりにも予想外の角度からのからかいに、私の顔は一瞬でカッと沸騰したように熱くなった。
「ふふ、まあ……湊にもまだまだチャンスはあるってことかいねぇ」
真っ赤になって慌てる私を見て、薫子おばあちゃんは可笑しそうに声を上げて笑った。先ほどまでの重苦しい雰囲気が嘘のように吹き飛び、病室に柔らかな空気が満ちていく。
「……みゆちゃん、ちょっと近くにおいで。目を見せておくれ」
「えっ……あ、はい」
言われるがまま一歩前へ進み、ベッドの脇に腰をかがめると、おばあちゃんは優しく私の顔を覗き込んできた。シワの刻まれた温かな手が、そっと私の頬を包み込む。
「……うん。強い意志のある、綺麗な水色の瞳だねぇ。……まっすぐで、嘘のない良い目だ。祥子が湊を託した理由が、わかる気がするよ」
おばあちゃんは優しく目を細め、私の手を力強く握りしめた。
「みゆちゃん。……正直言えばね、まだ水瀬の家そのものを笑って許せるほど、あたしの心はできておらんよ。……だけどね、あんたのことはちゃんと受け入れられた。あんたが湊の妹で、寄り添ってくれていて……本当によかった。……湊を頼んだよ」
「……っ、はい……! はいっ……!」
ずっと胸の奥に支えていた重荷がすっと消え去り、堪えきれなくなった涙がボロボロと溢れ落ちた。私は何度も何度も深く頷いた。
「よしよし……泣かないでおくれ。さあ、外で固まっているみんなを呼んできておくれ。いつまでも待たせていちゃ悪いからね」
「はい……今、呼んできます!」
私は涙を拭い、病室の扉を開けた。廊下で心配そうに佇んでいた湊兄さん、悟おじいちゃん、葵さん、そして楓さんが一斉にこちらを振り返る。
「……みゆ? 大丈夫だったか!?」
真っ先に駆け寄ってきた湊兄さんに、私は満面の笑みで頷いた。
「うん! 兄さん……おばあちゃんが、みんなを呼んでるよ」
部屋に戻った私たちを、薫子おばあちゃんは穏やかな笑顔で出迎えてくれた。悟おじいちゃんや楓さんも交え、十四年という長い歳月の空白を埋めるように、思い出やこれからのことが穏やかに語り合われていく。
窓から差し込む冬の柔らかな日差しが、病室を包み込んでいた。長年止まっていた三谷家と神崎家、そして水瀬家を巡る哀しい時間の歯車が、すこしずつ動き始めたのだった。




