薫風(くんぷう)の面影、目覚めの刻
扉を押し開けて足を踏み入れた病室は、白を基調とした静かな空間だった。
ベッドの傍らには、穏やかな顔で横たわる年配の女性――薫子おばあちゃんがいる。そしてそのすぐ隣、パイプ椅子に腰かけていた女性が、私たちの足音に気づいてゆっくりと立ち上がった。
「っ……!」
その顔を見た瞬間、私と湊兄さん、そして葵さんは息を呑んだ。
さらりと肩に落ちる黒髪、柔らかくも芯のある目元、そしてどこか儚げな雰囲気。昨日神崎の家で見たアルバムの写真――若き日の祥子さんの姿と、恐ろしいほど重なって見えたのだ。
「……はじめまして。祥子の妹の、三谷楓です。今年で二十七になります」
女性は静かに頭を下げ、控えめな声をかけた。祥子さんの妹、つまり湊兄さんにとっては実の叔母にあたる人だった。十四年前は十三歳だった彼女も、今では亡き姉によく似た美しい女性へと成長していた。
「あ……神崎湊です。こちらは、妹の……水瀬みゆと、友人の綾瀬葵さんです」
湊兄さんが少し緊張した様子で挨拶を返すと、楓さんは湊兄さんの顔をまじまじと見つめ、目元をふっと緩めた。
「……本当に、姉さんと徹さんにそっくりね。ひと目で湊くんだって分かったわ」
楓さんはそう言うと、ベッドで眠る薫子おばあちゃんの方へ優しい視線を落とした。
「父が二年前に亡くなってから、母はショックのあまり感情の起伏がとても激しくなってしまって……。今も少し興奮状態が続いていたので、お医者様に鎮静剤を打ってもらって眠っているところなんです」
「そうだったのか……。身体は大丈夫なのかい?」
悟おじいちゃんが心配そうに尋ねると、楓さんは小さく頷いた。
「ええ。あと二、三十分もすれば薬の効果が切れて、目を覚ます時間だと思います。宜しければ、それまで少し座ってお待ちいただけますか?」
「ああ、ありがとう……。湊、ここで座って待たせてもらおう」
「はい……」
静寂が満ちる病室で、私たちは用意されたパイプ椅子に腰を下ろし、静かにその時を待った。時折響く医療機器の電子音と、窓の外を通り過ぎる風の音が、沈黙の重みをいっそう際立たせる。
ふと視線を感じて顔を上げると、向かいに座る三谷楓さんと目が合った。楓さんは私と葵さんに柔らかく微笑みかけた後、ゆっくりと視線を湊兄さんへと巡らせた。
「湊くん。……急にこんなところへ連れてこられて、驚いたでしょう」
「いえ……。神崎のおじいちゃんから、三谷のおじいちゃんとのお話を聞いて、俺自身の言葉で伝えなきゃいけないって思ってきたんです」
湊兄さんがまっすぐに答えると、楓さんはどこか切なげに目元を伏せ、小さく息を吐いた。
「母ね……智樹お父さんが亡くなってから、ずっと自分を責めていたの。『あの時、もっと娘を引き留めていれば』って。その悲しみがいつしか水瀬さんたちへの強い恨みに変わってしまって……でもね、一番苦しんでいたのは、姉さんたちの遺した湊くんを抱きしめてあげられなかった自分自身だったと思うの」
「楓さん……」
「お姉ちゃんが亡くなった時、私は十三歳だったから、何もできなかった。だから……湊くんがこうして会いに来てくれたこと、本当はすごく嬉しいのよ」
楓さんの言葉に、湊兄さんは胸を突かれたように静かに拳を握りしめた。実の母である祥子さんの面影を強く残す叔母の言葉は、冷えていた胸の奥を少しずつ温めていくようだった。
それから二十分ほどが過ぎた頃――。
「ん……っ……」
ベッドの方から、小さく掠れた声が聞こえた。
全員の視線が一瞬でベッドへと集まる。掛け布団がわずかに動き、薫子おばあちゃんがゆっくりと、眩しそうに瞼を開いた。
「母さん……? 気づいた?」
楓さんがすぐに立ち上がり、ベッドの脇へ寄り添う。薫子おばあちゃんはぼんやりとした瞳で天井を見つめた後、ゆっくりと首を巡らせ、部屋にいる私たちの姿を捉えた。
「楓……? ……悟さん……?」
かすかな声で悟おじいちゃんの名を呼んだ薫子おばあちゃんの視線が、最後に、湊兄さんのところでぴたりと止まった。
静まり返る病室の中で、十四年という長い年月を超えた再会の瞬間が、静かに訪れようとしていた。




