静けさの向こう、待つ場所へ
翌朝、ピンと張り詰めた冬の澄んだ空気が、神崎の家の庭を包み込んでいた。
朝食を済ませ、身支度を整えて玄関に向かうと、悟おじいちゃんが重厚な車の鍵を手に取りながら、ふと私の方へ温かな視線を向けた。その目元には、孫の大切な仲間を気遣う優しさが滲んでいる。
「みゆちゃん。今日向かう病院は……きっと、あまり穏やかな場所ではないかもしれない。薫子さんも体が弱っているし、三谷の親族の感情も残っている。……無理をして一緒に行かなくても、政子と一緒にここで待っていてもいいんだよ?」
私を心配してくれた悟おじいちゃんの問いかけに、葵さんも心配そうにこちらを見つめた。湊兄さんも一瞬、気遣うように私の顔を覗き込む。
けれど、私の心は最初から決まっていた。
湊兄さんが自分の過去や本当の家族と向き合おうとしている今日という日に、隣を歩かない選択肢なんて私にはない。
「大丈夫です。私も行きます」
悟おじいちゃんの目をまっすぐに見つめ、声にしっかりと力を込めて答えた。
「兄さんの家族のことも、父さんや母さんから受け継いだ想いも……私も一緒に見届けたいんです」
私の迷いのない言葉に、悟おじいちゃんは驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに深々と頷いた。
「そうか……。強い子だな、みゆちゃんは。ありがとう」
「みゆ、ありがとう」
湊兄さんが隣で静かに、けれど心からの感謝を込めて呟いた。
政子おばあちゃんに見送られながら玄関を出ると、外の空気は刺すように冷たかったが、胸の奥は不思議と温かかった。悟おじいちゃんが運転する車の後部座席に私と葵さんが乗り込み、助手席には湊兄さんが腰を下ろす。
エンジンが静かに鳴り響き、車はゆっくりと走り出した。目指すのは、祥子さんの母・薫子さんが入院している隣町の病院。
車を走らせること三十分ほどで、隣町にある大きな総合病院の駐車場へと滑り込んだ。冬の曇り空の下、無機質に聳え立つ白い建物を見上げると、自然と息が詰まるような緊張感が走る。
車を降り、消毒液の匂いが漂う静かな廊下を進む。エレベーターで上がった階の最奥、静けさに包まれた個室の前に到着した。ドアの脇のプレートには『三谷薫子』と刻まれている。
悟おじいちゃんが足を止め、振り返って私たち三人に向き直った。
「湊、みゆちゃん、葵ちゃん。……まずは私が先に入って、薫子さんや付き添いの方に話をしてみる。合図をしたら入っておいで」
「はい。よろしくお願いします、悟おじいちゃん」
湊兄さんが深々と頭を下げると、悟おじいちゃんは静かに頷き、ノックをしてゆっくりと扉の向こうへと消えていった。
扉が閉まり、廊下に再び静寂が戻る。
呼吸の音すら響きそうな沈黙の中、湊兄さんは壁に背を預け、固く拳を握りしめていた。隣に立つ葵さんも、祈るように胸の前で手を合わせている。私はそっと湊兄さんの隣に寄り添い、無言で静かなエールを送り続けた。
数分後――カチリとドアノブが回る音が響いた。
扉が少しだけ開き、悟おじいちゃんが顔を覗かせる。その表情はどこか優しく、柔らかな光を宿していた。
「……湊。入っておいで」
「はい……っ」
小さく息を呑み、湊兄さんは重い扉を押し開けた。私と葵さんも、その 背中を追うようにして静かに病室へと足を踏み入れた。
清潔なカーテンの隙間から差し込む光の先に、ベッドで静かに横たわる、小さく細くなった女性の姿があった。ここから、十四年間止まっていたもう一つの時間が、ゆっくりと動き出そうとしていた。




