夜の静寂(しじま)、打ち明ける心
常夜灯の淡いオレンジ色の光が、天井の細かな木目を柔らかく浮かび上がらせていた。時折、冬の冷たい風が古い木造建築の窓を軽く揺らす音が聞こえてくるけれど、二枚重ねられた羽毛布団の中は、お日様の匂いと部屋特有の心地よい温もりで満ちていた。
神崎の家で過ごした濃密な一日を振り返り、私はゆっくりと息を吐き出す。アルバムで見た幼い頃の湊兄さんと、本物のご両親の笑顔。そして、神崎のおじい様たちが流した涙――そのどれもが胸に残り、目を閉じてもすぐには眠れそうになかった。
「……ねえ、みゆちゃん。起きてる?」
静かな室内を滑るように、隣の布団から葵さんの少し遠慮がちな声が響いた。
「うん、起きてるよ、葵さん」
横を向くと、葵さんも掛け布団を胸元まで引き上げ、こちらに顔を向けていた。薄暗闇の中でも、彼女の瞳がどこか輝いているのが分かる。
「あのね、ずっと気になってたんだけど……湊くんって、水瀬家ではどんな感じなの? 学校やテニス部で見せる顔じゃなくて、家での普段の様子を……もっと知りたくて」
「家での兄さんですか?」
私は少し首を傾げ、今日までの日常を頭の中で巡らせた。ふっと記憶の引き出しが開き、自然と口元が緩んでいく。
「外ではいつもかっこよくて、しっかり者の頼もしいお兄ちゃんですけど……家だと結構お茶目なんですよ。例えば、陽太とテレビのチャンネル争いで本気になってたり、雫お姉ちゃんに『ふたりともうるさい!』ってまとめて怒られて、小さくなってたり」
「ふふっ、本当に!? 湊くんが怒られて小さくなってるの?」
葵さんは想像したらしく、声を殺して楽しそうに肩を揺らした。
「そうなんです。それに、リビングのテーブルに残った最後のお菓子……大体チョコなんですけど、それを賭けて陽太と本気でじゃんけん勝負して、負けて本気でショックを受けてたりもします。負けた後、陽太に『一口くれ!』って格好悪く頼んで断られたりして」
「あはは、可愛い! 湊くんにもそんな子供っぽくて親しみやすいところがあるんだね」
学校でのクールで万能なイメージとは少し違う兄の素顔に、葵さんは本当に嬉しそうに目を細めた。
「うん。でも、やっぱり頼りになる自慢の兄です。私が落ち込んでいたり、悩み事があって黙っていると、何も言わずに隣にいてくれるような……世界一優しいお兄ちゃんでした」
「『でした』じゃなくて『今も』でしょ? ……そっか。水瀬家で、本当にたくさんの愛を受け取って、大切に育ってきたんだね」
葵さんは染み入るように呟くと、深く深く満足そうに微笑んだ。湊兄さんが素晴らしい環境で愛されていたことを、まるで自分のことのように心から喜んでいるのが伝わってくる。
けれど次の瞬間、葵さんは何か思い出したように悪戯っぽい光を瞳に宿すと、布団を少し引き寄せてぐっと顔を近づけてきたのだった。
「ねえ、みゆちゃん……ついでに、もう一つ聞いちゃってもいい?」
葵さんは楽しそうに瞳を輝かせながら、ぐっと顔を寄せてきた。
「え? はい、なんでしょう……?」
「みゆちゃんって……陽太くんと付き合ってるの?」
「っ……!? あ、葵さん……っ!?」
あまりにも直球で予想外の質問に、私の顔が一瞬でカッと熱くなった。頭が真っ白になり、慌てて掛け布団を鼻先まで引き上げてうろたえる私を見て、葵さんは「やっぱり!」と嬉しそうに目元を緩める。
「……は、はい。照れくさいですけど……付き合ってます」
布団の中で小さく頷き、消え入りそうな声で答えると、葵さんは両手を胸の前で合わせて静かに歓声をあげた。
「そっかぁ、おめでとう! ふたりを見ているとね、雰囲気がすごく柔らかくて、お互いを大切にしてるのが伝わってきたから……本当にお似合いだなって思ってたんだ。よかったね、みゆちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
自分の恋心をまっすぐに認められた気恥ずかしさを誤魔化すように、私は思い切って葵さんに向き直し、問い返してみた。
「あの……葵さんはどうなんですか? その、彼氏さんとか……いないんですか?」
尋ねられた葵さんは一瞬だけパチリと目を見開き、それから天井を見上げるようにゆっくりと視線を泳がせた。その口元に浮かんだのは、どこか愛おしそうでありながら、切なさの混じった優しい笑みだった。
「私? 私はね……今はいないよ。……でもね、ずっと大好きな人がいるんだ」
静かな部屋に落ちた、葵さんの真っ直ぐな言葉。
具体的な名前こそ口にはしなかったけれど、その瞳の奥にある熱と切なさを見れば、葵さんがどれほど深く湊兄さんを想い続けているのか、私には痛いほど伝わってきた。
――葵さんは、私がさっき言った「世界一優しいお兄ちゃんでした」という言葉の、本当の意味に気づいていない。
私が血の繋がらない妹としてではなく、ひとりの女の子として湊兄さんに向けられていたあの特別な視線。そして、湊兄さんが私に惹かれてくれていた本当の理由……。
(それは……私から伝えることじゃないよね....)
言葉にしてしまえば、誰かを傷つけてしまうかもしれない。葵さんの純粋な想いも、湊兄さんが歩み始めた新しい道も、すべてを大切にしたいから。私は胸の奥でそっとその記憶に蓋をした。
「……そう、なんですね」
「うん。……あ、ごめんね! しんみりさせちゃった。明日も朝から大事な日だし、そろそろ寝ようか」
「はい。おやすみなさい、葵さん」
「おやすみ、みゆちゃん」
明日は三谷のおじいちゃんのお墓と、寝たきりのおばあちゃんが待つ病院へ向かう。それぞれの愛と覚悟、そして小さな秘密を胸に抱きながら、私たちは静かに目を閉じたのだった。




