番外編:夜長(よなが)の報せ、受け継がれる温もり(雫視点)
子供たちがそれぞれの部屋へ引き揚げ、静まり返ったリビング。
冷えたハーブティーのカップを片付け終えた私は、受話器を握り締め、静かにダイヤルを回した。
少しのコールの後、聞き慣れた父の声が耳に届く。
『もしもし、雫か? こんな遅くにどうした?』
「お父さん。……今、大丈夫? お母さんも近くにいるかしら」
『ああ、二人で部屋にいるよ。……何かあったのか?』
スピーカー越しに聞こえる父の低く落ち着いた声と、微かに届く母の気配。私は静かに息を整え、今夜この家で起きた「大きな変化」を一つひとつ言葉に変えていった。
「神崎家の隣に住んでいた綾瀬葵ちゃんが、この街に戻ってきたわ。偶然にも、湊と同じクラスになったの」
『葵ちゃんが……そうか……』
「ええ。それで今日、葵ちゃんに案内されて、湊とみゆと陽太くんの四人で、神崎家へ行ってきたみたいなの。長年、時間が止まっていたあの家へ……」
受話器の向こうで、父が息を呑む音が聞こえた。
父と母が十四年間、命懸けで守り抜いてきた秘密。それが、予期せぬ形で解き放たれた瞬間だった。
「帰宅したあと……私の立ち会いのもとで、湊にお父さんのあの書斎へ入ってもらったわ。……十四年前の日記を、湊自身に読ませたの」
『……そうか。ついに、知られたんだな。湊が……うちの本当の息子ではないことを』
父の声には、長年抱え続けてきた恐れと、どこか諦念の混ざった切なさが滲んでいた。私は受話器を強く握り締め、優しく、けれど力強く首を振るように言葉を続けた。
「お父さん、失望しないで。湊が日記を読んで何を感じたのか、その胸の内のすべてを推し量ることはできないわ。……けれど、お父さんとお母さん、そして神崎夫妻の想いは、確かにあの子に伝わったわ」
『伝わった……?』
「ええ。涙を流しながらも、湊はすべてを受け止めた。自分がいかに二つの家族から愛されてきたか、そして自分に託された命の重みを……。あの子は、みゆを恨むどころか、これまで一人で苦しんでいたみゆを抱きしめて、改めて『大切な妹だ』と愛おしんでいたわ」
『っ……湊……』
受話器の奥から、母のむせび泣く声が漏れ聞こえてくる。
自分たちが注いできた愛が間違いではなかったのだと、幼い頃から守り育ててきた息子が、歪むことなく立派に成長してくれたのだと知った親の、血の滲むような安堵だった。
「それとね……お父さん、お母さん。……もう一つだけ、伝えておかなきゃいけないことがあるの」
『なんだい?』
「湊はね……真実を知って『血の鎖』から解き放たれたことで、自分の本当の気持ちから逃げないことを決めたわ。……あの子はみゆを、ただの妹としてだけではなく、一人の女の子として好きになっているの」
『なっ……!』
「陽太くんに対しても、一人の男として正々堂々向き合うと宣言したわ。……これからは『兄』という免罪符に甘えず、自分の足でみゆを守り、愛していくつもりだそうよ」
一瞬の沈黙。
けれど、その沈黙は決して不快なものではなかった。かつて祥子さんが『湊と一緒に幸せになってね』と遺した願い。それが、思いもよらない形で巡り巡り、若い二人の未来を照らし始めているのだから。
『……そうか。湊も、一人の男として覚悟を決めたんだな』
「ええ。だからお父さん、お母さん。二人ももう、自分たちを責めないで。今週末、湊とみゆ、それに葵ちゃんと一緒に、神崎のおじい様とおばあ様の元へ行くわ。……止まっていた時間を、みんなで動かしに行ってくるわね」
『ああ……頼んだよ、雫。ありがとう』
電話を切り、受話器を置いた私は、窓の外の深い夜空を見上げた。
(ふふ……長女としての私の仕事も、これでひと段落かしら)
愛おしい弟と妹。
歪で、けれど誰よりも深く強い絆で結ばれたこの家族の未来に、確かな光が差し込んでいることを確信しながら、私は静かに部屋の明かりを消したのだった。




