重なる手、歩み出す光
階段をゆっくりと降りてくる足音が、静まり返ったリビングに響いた。
私とお姉ちゃん、そして陽太が一斉に立ち上がり、視線を階段の先へと向ける。
そこに立っていたのは、湊兄さんだった。
その目元は赤く腫れていて、一人でどれほど激しい感情の渦に耐えていたかが痛いほど伝わってきた。けれど、その表情には先ほどまでの激しい困惑や戸惑いはなく、どこか深く澄み渡った静けさが宿っていた。
「……みんな、待たせてごめん」
湊兄さんは静かな声でそう言うと、リビングのテーブルへと歩み寄り、私たちの正面に立った。
「兄さん……」
私の声は小さく震えていた。
どんな言葉が返ってくるのか。拒絶されるかもしれない、許されないかもしれない――握りしめた手が、不安で冷たくなっていく。
けれど、湊兄さんはそんな私の震える手をそっと見つめると、ゆっくりと優しく微笑んだ。
「みゆ。……今まで、ずっと一人で苦しんでいたんだな」
「え……?」
「あの日の日記を読んで、全部理解したよ。俺の実の両親のこと……そして、あの日お父さんたちが命を懸けてお前とお母さんを守ったこと。……みゆが自分の誕生日の日、どうしてあんなに傷ついていたのかも、全部繋がった」
湊兄さんは私の正面に屈み込み、まっすぐに目線を合わせてくれた。その瞳には、恨みや拒絶の色なんてどこにもなかった。ただただ、妹を想う深く温かな愛だけが満ちていた。
「俺は……神崎徹と祥子の息子だ。それは間違いのない真実だった。でもね、みゆ……俺を抱きしめて育ててくれたお父さんとお母さん、雫姉さん、そしてお前と一緒に過ごしてきた十四年間も、何一つ偽物なんかじゃない」
「兄……さん……っ」
「俺の本当の父さんと母さんは、命を懸けてみゆを守った。そして、みゆと一緒に幸せになってほしいって……そう願って俺を水瀬家に託してくれたんだろ? だったら、俺がみゆを責める理由なんて、最初からどこにもないんだよ」
溢れ出す涙で、湊兄さんの顔が見えなくなる。
ずっと胸の奥を苛み続けていた「加害者としての罪悪感」が、湊兄さんの温かな言葉によって、静かに溶かされていく気がした。
「湊さん……」
隣にいた陽太が、感極まったように声を詰まらせる。
お姉ちゃんもまた、静かに涙を浮かべながら、胸の前で深く手を組んでいた。
「だから……泣かないでくれ、みゆ。お前は俺の大切な妹だ。昔も、今も、これからもずっと変わらない」
湊兄さんはそう言うと、幼い頃のように、私の頭をそっと優しく撫でてくれたのだった。
「……それから、もう一つだけ。ちゃんと言わなきゃいけないことがあるんだ」
私の頭を撫でてくれていた湊兄さんの手がそっと離れ、その眼差しが急に真剣な色を帯びた。
どこか覚悟を決めたような強い瞳。その視線は私の横を通り過ぎ、隣に立つ陽太へとまっすぐに注がれた。
「……湊さん?」
陽太が背筋を伸ばし、湊兄さんの真っ直ぐな視線を受け止める。
「陽太。……俺は今まで、自分が血の繋がった『水瀬の兄』だからこそ、自分の中にある理性を必死で抑え込んできたんだ。みゆを大切に思えば思うほど、お前に対して芽生える強い独占欲や苛立ちを『兄としての保護欲』だと言い聞かせて、自分を納得させようとしていた」
「……っ」
「みゆを危険から遠ざけたいのも、お前に奪われたくないのも、兄だからだと思ってた。だが……本当は違っていたんだ。俺は、ずっとみゆを一人の女性として惹かれていた。……だけど、血が繋がっている以上、その感情は許されないものだと自分に枷をはめて、お前にみゆを託したんだ」
湊兄さんの告白に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
一人の女性として――? 湊兄さんが、私を……? なんとなくそうなんだろうと思っていた。息を呑む私と陽太の前で、湊兄さんは静かに、けれど逃げ場のない力強さで言葉を続ける。
「だが、神崎徹と祥子の息子であると知った今……俺とみゆを縛る『血の鎖』は、最初からどこにもなかった。だから俺は……もう自分に嘘をつくのをやめる」
湊兄さんは陽太の前に一歩踏み出し、対等な「男」として向き合った。
「俺は、兄としてお前たちを応援するような綺麗な真似はもうしない。……陽太。俺は、一人の男として正々堂々みゆを望む。お前に遠慮する気も、譲る気も一切ない」
「湊……さん……」
「みゆ。俺をただの『兄』としてじゃなく、一人の男としても見てほしい。……これが、真実を知った俺の、一番偽りのない本音だ」
静寂がリビングを支配する。
陽太は一瞬、その威圧感と真っ直ぐな想いに気圧されそうになったものの、すぐに拳を握り締め、湊兄さんの瞳を逃げずに見つめ返した。
「……分かりました、湊さん。俺も……みゆを想う気持ちなら、絶対に負けません。湊さんが本気で来るなら、俺も正々堂々、みゆを守り抜きます」
真っ直ぐに視線を交わし合う湊兄さんと陽太。
緊迫した空気が流れる中、湊兄さんの表情がふっと穏やかなものへと変わった。
「だけどな、陽太。……俺はお前のことを、心から認めてもいるんだ」
「え……?」
思いがけない言葉に、陽太が目を見開く。湊兄さんは温かな眼差しで、私と陽太の繋がれた手へと視線を落とした。
「あの六月二十日以降、みゆがずっと何かに苦しみ、一人で抱え込んでいた時……隣で支え続けてくれたのはお前だった。今日も、真実を知るのが怖くて押し潰されそうになっていたみゆの手を、お前は少しも迷わずに強く握りしめてくれていたろう?」
「っ……」
「みゆがどれだけお前に救われてきたか、見れば分かる。お前が誰よりもみゆを大切に思ってくれていることの、それが何よりの証拠だ」
湊兄さんはそう言うと、どこか吹っ切れたような清々しい笑みを浮かべ、陽太の肩へぽんと力強く手を置いた。
「一人の男としてライバルにはなったが……これだけは、どうしても今言っておきたかったんだ。陽太、今までみゆを傍で支えてくれて、本当にありがとう。お前にみゆを託して……本当によかったよ」
自分の恋心を素直に宣言した上で、陽太が注いできた愛と誠意を真っ直ぐに称える湊兄さん。
その言葉の重みと温かさに、陽太の目頭がカッと熱くなった。陽太は繋いでいた私の手にぎゅっと力を込めると、誇らしげに胸を張って答えた。
「当たり前じゃないですか……! 俺だって、みゆのことが大好きなんですから。お礼なんて言われたって、譲る気なんてさらさらありませんよ!」
「ふっ……そう来なくっちゃな」
ふたりの間に流れる、爽やかで心地よいライバルとしての空気。
お互いを心から尊重し合っているからこそ成り立つその絆に、私は胸の奥が温かな光で満たされていくのを感じていた。
「……兄さん」
私は意を決して、胸に抱きしめていた一枚のメモを湊兄さんへと差し出した。
「実はね……私、さっきお姉ちゃんから聞いたの。葵さんが言っていた『神崎家を管理してくれているおじいちゃんたち』……それは、葵さんのおじいちゃんたちだけじゃなくて、湊兄さんの本当のおじいちゃんとおばあちゃんと共同で管理しているって」
「……えっ? 俺の……おじいちゃんとおばあちゃんが……?」
驚きで目を見開く湊兄さんに、私は力強く頷いた。
「うん、二人とも健在なんだよ。お父さんとお母さんね、毎年兄さんの成長した写真を持って、二人のおうちに近況報告をしに行っていたの。……そしてこのメモは、あの日私が罪悪感で壊れそうになっていた時に、お父さんたちが『いつか向き合える日が来たら行きなさい』ってお姉ちゃんに託してくれていた、おじいちゃんたちの住所なの」
私はメモをぎゅっと握り直し、湊兄さんの瞳をまっすぐに見つめた。
「兄さん……私と一緒に、おじいちゃんとおばあちゃんのおうちに行ってみない? 今度は逃げずに、自分の生家と向き合って……みんなで本当の時間を動かしに行こう」
私の言葉を静かに受け止めた湊兄さんは、深く息を吐き出すと、どこか晴れやかな笑顔で強く頷いてくれた。
「ああ、行こう……みゆ。父さんたちの想いも、俺たちの絆も全部持って……一緒に行こう」
夜の冷気も忘れるほどの温もりと決意が、リビング全体を包み込んでいた。
過去の残酷な記憶に別れを告げ、私たちは新しい未来へと向けて、しっかりと歩み出し始めていた。




