扉の向こう、開かれる刻
我が家の玄関を潜ると、いつもならほっと安らぐはずの温かな木の匂いが、今夜ばかりは胸をしめつけるように重く感じられた。
「あ、おかえりなさい。……あら、陽太くんも?」
リビングから出てきたお姉ちゃんが、私たち三人の張り詰めた表情を見て言葉を呑んだ。ただならぬ空気を察したお姉ちゃんは、静かに私の隣まで歩み寄り、その手袋越しに冷え切った私の手をそっと握りしめてくれた。
「お姉ちゃん……。兄さんに、全部話すことにしたの。……あの日のこと」
「……そう。覚悟を決めたのね」
お姉ちゃんは深く、ゆっくりと呼吸を整えると、湊兄さんの真っ直ぐな瞳を静かに見つめ返した。
「湊。……お父さんの書斎へ行きましょう。あなたが知るべきすべての答えが、あそこにあるわ」
お父さんの書斎までの廊下、静まり返った廊下に足音が寂しく響く。
お父さんの書斎の前に立ち、お姉ちゃんがゆっくりとドアノブを回した。静謐な空間の中に、あの日の夕暮れと同じ、革装の分厚い日記帳が整然と置かれているのが見えた。
私とお姉ちゃん、そして私のすぐ後ろで寄り添ってくれている陽太。
三人は誰からともなく目線を交わし、胸の中で静かに同じ決意を固めていた。
(兄さんが真実を知って……もし、私たちを許せなくなったとしても。どんな感情を向けられたとしても……全部、受け止めよう)
十四年間育んできた家族の絆、注いできた愛。それがどれほど深く真実であったとしても、奪われた命と時間があるのも紛れもない事実なのだから。
湊兄さんは生唾を呑み込み、震える手でデスクの前に歩み寄った。
神崎家で見つけたあの写真、水瀬家で渡された幼い頃のアルバム、そして――父・健一の筆跡で記された日記帳。
「……開けるぞ」
かすれた声で呟き、湊兄さんの指先が、十四年前の「六月二十日」と書かれたページへと伸ばされる。息の詰まるような沈黙の中、運命のページがゆっくりと開かれようとしていた。
静寂に包まれた書斎の中で、紙が擦れる音だけが耳に痛いほど響いた。
湊兄さんはデスクライトの青白い光の下、父さんの日記帳を凝視していた。
黄ばんだ新聞記事の切り抜きから、十四年前の六月二十日――あの暴風雨の夜の記録へ。湊兄さんの指先は微かに震え、ページを繰るごとにその顔から血の気が引いていく。
今にも倒れてしまいそうな湊兄さんの横顔を、私は胸が張り裂けそうな思いで見つめていた。
(兄さん……っ)
日記に記されていたのは、凄惨な事故の記憶だけではなかった。
豪雨の中、破水した母さんを救うために必死で車を走らせてくれた神崎徹さんの想い。自分の体を盾にして母さんと私を守り抜き、命が消えゆく間際に『湊を引き取ってほしい』『ただの幸せな男の子でいさせてあげてほしい』と涙ながらに託した祥子さんの深い愛。
そして、親友夫妻の命と引き換えに生き残った自責の念に苛まれながらも、『実の娘以上に湊を愛する』と心に誓い、今日まで「水瀬湊」として大切に育ててくれた父さんと母さんの言葉――。
湊兄さんの瞳から、絶え間なく涙が溢れ出し、日記の余白へぽつぽつと滲みを作っていく。
その表情は、失われた真実の重みに打ちのめされながらも、どこか深く、温かな愛に包まれているかのように見えた。
(……分かってくれたのかな?湊兄さんは……両親の想いを知ってどう思ってるのかな...)
神崎夫妻にとっても、水瀬夫妻にとっても、湊兄さんはどれほど愛され、大切にされていたか。
そして――祥子さんが命を懸けて守り抜いた私のことをどう思うのだろうか、神崎夫妻の想い遺された「命」を湊兄さんは受け入れてくれるのだろうか。
最後のページを読み終えた時、湊兄さんはそのまま深く頭を垂れ、静かに日記帳を閉じた。
息を詰めて見守る私とお姉ちゃん、そして私の肩をしっかりと支えてくれている陽太。
書斎の中に、重く切ない沈黙が流れる。
「……ごめん」
やがて、湊兄さんは震える声でぽつりと呟いた。
ゆっくりと顔を上げたその瞳は真っ赤に腫れ上がり、溢れ出す感情の渦に必死で耐えているようだった。
「少し……一人にさせてくれないか」
真実のすべてを受け止めるには、あまりにも大きすぎたのだと思う。
湊兄さんは力なく立ち上がると、私たちの返事を待たずに静かに書斎を後にし、自室へと向かって行った。
パタン、と遠くでドアが閉まる音が、夜の静けさに虚しく響き渡っていた。
湊兄さんが自室へ戻り、重い静寂が家全体を包み込んでから、十分ほどが過ぎていた。
リビングのソファに身を寄せ合うように座る私とお姉ちゃん、そして私の隣でそっと寄り添ってくれている陽太。誰も言葉を発することができず、ただ時計の針が進む音だけが静かに響いていた。
「……お姉ちゃん」
胸の奥を締め付ける不安に必死で耐えながら、私は静かに口を開いた。
「なに、みゆ?」
「……神崎のおじいちゃんと、おばあちゃんのことなんだけど……。二人が今も健在だってこと、お姉ちゃんは知っていたの?」
葵さんが言っていた、今も神崎家を共同で管理してくれているという祖父母様の存在。
お姉ちゃんは深くまばたきをすると、穏やかな、けれど切ない瞳で私を見つめ返した。
「ええ……知っていたわ。お父さんとお母さん、毎年必ずおじい様とおばあ様の元へ足を運んでいたの。湊の成長した写真を持って、近況報告をしにね」
「そうだったんだ……」
「……みゆ、覚えているかしら? あの六月二十日、あなたが真実を知って……心が壊れてしまいそうになっていた時のこと」
お姉ちゃんの言葉に、脳裏の記憶が鮮明に蘇る。
十四歳の誕生日の夜、罪悪感で息もできず泣き崩れていた私の元へ、お姉ちゃんが持ってきてくれた一枚の小さなメモ。急な仕事で数日家を空けると言って出て行ったお父さんとお母さんが、『どうしても耐えられなくなったら、ここへ行きなさい』とお姉ちゃんに託していった、あの手書きの地図と住所――。
「あの日、お父さんとお母さんから預かってあなたに渡したあのメモに書かれていたのが……神崎のおじい様とおばあ様が暮らしている住所よ」
「……あの時の……メモ……」
「ええ。もしあなたが真実の衝撃に耐えきれなくなった時のために、お父さんたちが用意していた『救い』の場所……。覚えているでしょう?」
私の脳裏に、カバンの底へ押し込んだ小さく折りたたまれた紙切れの感触が蘇る。
当時は罪を上塗りする欺瞞のように感じられて向き合えなかったけれど、お父さんたちはずっと、私が絶望から立ち上がるための場所を用意してくれていたのだ。
「カバンの……奥に……ずっと入ったまま……っ」
私は弾かれたように立ち上がり、カバンの奥底から震える手でそのメモを取り出した。
そこには父さんの几帳面で震える筆跡で、隣町の住所がしっかりと記されていた。
「みゆ……」
陽太が心配そうに顔を覗き込んでくる。私はメモをぎゅっと胸に抱きしめ、お姉ちゃんと陽太を順番に見つめた。
「あの時は……怖くて逃げることしかできなかった。でも……今なら向き合えると思う。兄さんが……私たちのこと、この家のことを許してくれるかどうかは分からない。……でも、もし兄さんが許してくれるなら、私、兄さんと一緒におじいちゃんたちのところへ行きたい」
「ええ。それこそがお父さんたちの願いであり……神崎家と水瀬家、そして湊の止まった時間を動かすための、大切な一歩になるはずよ」
お姉ちゃんは優しく深く頷いてくれた。
二階の自室で一人、過去と向き合っている湊兄さん。その孤独な夜の向こう側に、今度こそ逃げずに進むべき道が見えた気がした。




