解き放たれる記憶、愛された証
「お待たせ! 鍵、持ってきたよ――」
走って戻ってきた葵さんが、ジャラリと音を立てて脚を止めた。
街灯の光の下、涙を流して立ち尽くす湊兄さんの姿に気づき、葵さんは目を見開く。
「湊くん……? どうしたの……?」
葵さんは一瞬戸惑ったものの、湊兄さんのその涙の意味を悟ったように、そっと表情を和らげた。懐かしさと愛おしさが混ざり合った優しい笑顔、そして泣いている湊兄さんを心配する温かな眼差しで、静かに言葉をかける。
「……やっぱり、そうだったんだね。本当に……あの時の湊くんだったんだ」
「綾瀬さ...葵さん……ごめん。俺、何も覚えてなくて……君のことも、この家のことも……何も記憶にないんだ。それなのに……胸がすごく痛くて、涙が止まらなくて……っ」
申し訳なさそうに必死で涙を拭う湊兄さん。
そんな湊兄さんを、葵さんはどこまでも優しく包み込むように首を振った。
「ううん、謝らないで。覚えてなくて当然だもん。でも……体が覚えていてくれたんだね。……中、入ってみる? 一緒に行こう」
「……あぁ。入りろう」
湊兄さんは意を決して深く頷いた。
葵さんが差し込んだ鍵が、ガチャリと音を立てて回る。
重い扉が開くと、長年人が住んでいない家特有の少し冷たく澄んだ空気があふれ出てきた。
おじいさんたちが定期的に手入れをしてくれていたおかげで埃っぽさはなく、どこか凛とした静けさが包み込んでいる。
「ここはリビングだよ。湊くんたちが引っ越した後も、うちのおじいちゃんたちと、湊くんのおじいちゃんおばあちゃんがずっと一緒に管理してくれていたの」
葵さんのその言葉を聞いた瞬間、私はハッと胸を突かれた。
(神崎のおじいちゃんと、おばあちゃん……)
湊兄さんの、本当のおじいちゃんとおばあちゃんが、今も健在でこの家を守り続けてくれている。
私たちが「水瀬湊」として兄さんを大切に育ててきた陰で、本当の祖父母様はずっと遠くから孫を見守り、生家を守り続けていたのだ。
(このこと……お姉ちゃんは知っているのかな……? 帰ったら絶対に確認しなきゃ……!)
葵さんは、湊兄さんが事故で両親を亡くし、水瀬家に引き取られた事実を知らない。「ただ遠くへ引っ越した」と思っている彼女の無邪気な言葉が、真実を知る私と陽太の胸に重く突き刺さる。
葵さんがそっとリビングの明かりを点けると、温かな光の中に、時間が止まったかのような優しい空間が広がった。
部屋の隅に置かれた小さな木製のおもちゃ箱。柱に刻まれた『みなと 1さい』の文字。そして――タンスの上に飾られた、笑顔の夫婦と一歳の湊兄さんが抱き合っている大きな写真。
「……父さん……母さん……?」
自分の本当の両親の姿を見つめ、湊兄さんは再びボロボロと溢れる涙を止めることができずにいた。
私はその写真を見た瞬間、息を飲むとともに胸が強く締め付けられた。
(あの写真の二人……お父さんの書斎の日記に挟まれていた新聞記事の写真と……同じだ……)
間違いなく、神崎徹さんと祥子さん。私を守るために事故で命を落とした、湊兄さんの本当のご両親だ。
涙を流しながらその写真を見つめていた湊兄さんが、意を決したようにゆっくりと振り返り、私とまっすぐ目を合わせた。その瞳には、隠しきれない動揺と困惑が揺れていた。
「……みゆ。姉さんは……このこと、知っていたんだよな?」
「……っ」
「そして……みゆも、知っていたのか?」
静かだけど、真実を求める切実な声。
逃げることはできない。私は震える唇を必死に抑えながら、まっすぐに湊兄さんを見つめ返した。
「……うん。知ってたよ……」
「いつ……知ったんだ?」
「……今年の、私の誕生日の日だよ」
私がそう答えると、湊兄さんはハッとしたように目を見開いた。
今年の六月二十日――私の十四歳の誕生日。あの日以降、私が理由も言わずに激しく落ち込み、どこか情緒不安定になっていたことを、湊兄さんは鮮明に思い出したようだった。
「……そうだったのか。あの日……俺と血が繋がっていない家族だって知って……ショックを受けていたんだな」
湊兄さんはどこか自分を納得させるように、力なくぽつりと呟いた。
「自分が水瀬家と血の繋がらない子だったから、みゆはショックを受けていたんだ」――そう誤解したまま納得しようとしている湊兄さんの横顔に、私の胸は裂けるほど痛んだ。
(違うの……! 私が泣いていたのは、自分が血が繋がっていないからじゃなくて……っ)
自分の誕生日の裏に隠された、凄惨な事故。神崎夫妻の命と引き換えに私が生まれ、湊兄さんの本当の幸せを奪ってしまったというあまりにも重い罪悪感。それが本当の理由だなんて、今の湊兄さんに言えるはずもなかった。
「あ、あのね、湊くん」
重い空気を感じ取った葵さんが、不安そうに声を挟む。
「葵さん……お願いがあるんだ。俺の……父さんと母さんに、連絡を取ることはできるかな? 一度、話がしたくて……」
湊兄さんのその言葉に、私は全身の血が引いていくのを感じた。
葵さんは驚いたように首をかしげ、申し訳なさそうに言葉を返す。
「えっ……連絡? ごめんなさい、私……湊くんのご両親の連絡先は知らなくて。お父さんたちに確認してみないと、分からないわ」
葵さんの無邪気な言葉。
神崎夫妻がもうこの世にいないこと、そしてその死の原因が私と水瀬家にあること――その恐ろしい真実が、葵さんやお父さんを介して湊兄さんに伝わってしまうかもしれない。
(どうしよう……っ! 神崎夫妻が亡くなった原因を知ったら……兄さんは、私を……私たちのことを、どう思ってしまうの……っ!?)
恐ろしさと激しい動揺で、私の膝がガクガクと震え始める。息が上手く吸えず、その場に崩れ落ちそうになったその時――。
ギュッと、強い力で私の右手が包み込まれた。
「――大丈夫だ、みゆ」
隣にいた陽太だった。
陽太は私の震える手を両手で力強く握りしめ、まっすぐな、どこまでも温かい瞳で私を静かに見つめていた。
「俺がずっと隣にいる。どんなことがあっても、絶対にお前を一人になんかさせないから……大丈夫だ」
陽太の掌から伝わってくる確かな熱と力強さ。
崩れそうだった私の心は、その温もりにしっかりと支えられ、かろうじて踏みとどまることができたのだった。
「ごめんね、湊くん。私じゃすぐ連絡先が分からなくて……。今夜中に、うちのお父さんとお母さんに連絡して聞いてみるね!」
葵さんは申し訳なさそうに言ったあと、静かに鍵を閉めた。
「ありがとう、葵さん。無理を言ってごめん。……今日は、案内してくれて本当にありがとう」
「ううん! また明日ね、湊くん、みんなも」
神崎家の前で葵さんと別れ、夜の静けさが戻ってきた帰り道。
湊兄さん、私、陽太の三人は、言葉もなく並んで歩いていた。街灯の下を通るたび、長く伸びる影が夜道に揺れる。
(今夜、葵さんのお父さんたちから連絡先がないことを知らされたら……。明日、何も知らないまま事実だけを突きつけられてしまったら……)
私の頭の中を、恐ろしい予感が駆け巡っていた。
明日、他人の口から不意に衝撃的な事実を知らされるより、今夜、家族である私たちの口からすべてを伝えるべきだ。自分の部屋の書斎にあったあの日の日記、血の滲むような真実を、湊兄さん自身にちゃんと見てもらった方がいい――。
それがどれほど残酷だとしても、湊兄さんを一番近くで支えるための、私の覚悟だった。
「……兄さん」
立ち止まり、震える声で呼びかけた。
「……ごめんなさい」
振り向いた湊兄さんの瞳に、今にも泣き出しそうな私の顔が映る。
私の悲痛な表情、そして「ごめんなさい」という絞り出すような謝罪。それだけで、湊兄さんは自分がこれから直面する真実がどれほど重く、残酷なものであるかを察したようだった。
湊兄さんはぐっと唇を噛み締め、どこか覚悟を決めたような穏やかで力強い瞳で私を見つめ返した。
「……大丈夫だ、みゆ。逃げずに聞くから……俺に全部、話してくれないか」
「……うん。家へ帰ったら、ゆっくり話すね」
涙を必死に堪えながら頷き、私は隣に立つ陽太へと向き直った。
「陽太……今夜、うちに来てくれる……?」
「当たり前だろ」
陽太は迷うことなく、力強い声で即答してくれた。その真っ直ぐな瞳に、どれほど救われたか分からない。
「ありがとう、陽太。……お姉ちゃんにも、一緒にいてもらわないとね」
12月の冷たい風が吹き抜ける中、私たちは真実と向き合うために、お姉ちゃんの待つ我が家へと足早に歩みを進めるのだった。




