打ち明けられた真実と、優しき決断
「ただいまー」
「あ、湊、みゆ、おかえりなさい。寒かったでしょう?」
玄関のドアを開けると、出迎えてくれたのはエプロン姿の雫お姉ちゃんだった。温かな出汁の香りが廊下いっぱいに広がっていて、いつもの平和な水瀬家の日常がそこにある。
「ただいま、お姉ちゃん。今日はちょっと通学路で転校生の子と知り合って遅くなっちゃった」
「あら、そうなの? 立ち話も寒かったでしょう。すぐ夕飯にするから、手とうがいをしてね」
湊兄さんがいつも通りの穏やかな笑顔で手洗いに向かう。
私はその背中を見送りながら、胸の奥で激しく鳴り響く警鐘に必死で耐えていた。
(どうしよう……どうやってお姉ちゃんに切り出せばいいんだろう……)
湊兄さんと一緒に帰宅した以上、二人きりになれる瞬間がない。夕食中も、私と湊兄さん、お姉ちゃんの三人でいつものように学校や部活の会話を交わしたが、私の生返事にお姉ちゃんが時折不思議そうな視線を向けてくるのを感じていた。
食後、食器の片付けを終えたところで、湊兄さんが立ち上がった。
「じゃあ俺、先にお風呂もらうな。明日の朝練の準備もあるし」
「ええ、ごゆっくり、湊」
脱衣所のドアが閉まり、お湯の流れる音が聞こえ始めた瞬間――。
私はリビングのソファーに座っていたお姉ちゃんのもとへ駆け寄った。
「お姉ちゃん……! ちょっと、すごく大事な話があるの……!」
私の尋常ではない緊張感と青ざめた顔に、お姉ちゃんは持っていたマグカップをそっとテーブルに置き、表情を真剣なものに変えた。
「みゆ、どうかしたの? 落ち着いて話して」
「今日ね……高等部に転校してきた女の子……『綾瀬葵』さんっていうの」
「――綾瀬……葵さん……?」
その名前を口にした瞬間、お姉ちゃんの瞳が大きく見開かれた。
「葵さんはね、1歳の頃に兄さんとお隣同士で遊んでいた写真を持っているんだって……。それで、兄さんに『昔からずっと水瀬さんですか?』って……!」
「……っ!」
「しかも、葵ちゃんの家と神崎家は隣同士で、今も神崎家はそのまま残っていて手入れされてるって……。兄さん、自分で『小さい頃の写真を見せてほしい』って葵さんに頼んじゃったの! どうしようお姉ちゃん……っ!」
焦りと不安で涙目になりながら一気に捲し立てる私を、お姉ちゃんは優しく包み込むように肩を抱き寄せてくれた。
「大丈夫よ、みゆ。話してくれてありがとう……」
お姉ちゃんは静かに息を吐き、どこか懐かしむような、けれど切ない目で天井を見上げた。
「綾瀬葵ちゃん……。やっぱり、あの時のあの子なのね。私、覚えているわ……」
「え……? お姉ちゃん、葵さんのこと知ってるの……?」
「ええ。私がお父さんとお母さんに連れられて、神崎家のお宅にお邪魔していた頃……まだ小さかった葵ちゃんと、湊が二人で仲良く積み木で遊んでいた姿を、今でもはっきりと覚えているの」
雫お姉ちゃんは膝の上で静かに両手を重ね、遠い記憶の扉を開くように語り始めた。
「神崎徹さんと祥子さんはすごく優しい人でね。お邪魔するたびに私を温かく迎えてくれたの。そのお庭で、まだ幼かった湊と葵ちゃんが、いつも一緒におもちゃを奪い合ったり、笑ったりしながら遊んでいた……」
お姉ちゃんの声には、優しさと切なさが滲んでいた。
毎日のように二人で仲良く過ごしていたという。
「葵ちゃんの家がご両親の都合で別の街へ引っ越す少し前のことだったわ。……あなたの生まれたあの悲劇の夜は...」
お姉ちゃんの表情が、すっと深い影を帯びた。
私の命が生まれたあの日、湊兄さんの両親は私と母さんを救うために命を落としたのだ。
「事故の翌日、湊は隣の綾瀬家で保護されていたわ。お父さんは病院から駆けつけて、涙を流しながら綾瀬さんのご両親と話していたの。『湊を引き取らせてほしい。水瀬の子として大切に育てるから』って……。その間、私は神崎家の中で、まだ何も知らない湊と葵ちゃんの面倒を見ていたのよ」
「お姉ちゃんが……二人の面倒を……」
「ええ。まだ一歳のふたりは何も知らずに仲良く遊んでいてね……。その後、葵ちゃんのご家族は別の街へ引っ越していったけれど、幼い葵ちゃんが傷つかないように、ご両親は『湊くんたちはお引越ししたんだよ』って伝えたみたいなの」
だから葵さんは、湊兄さんの両親が亡くなったことも、水瀬家に引き取られたことも知らずに「昔のお隣さん」として再会したのだ。
「あの子を守るために、悲しい過去に縛られないようにするために、お父さんとお母さんは『水瀬湊』として育てることを選んだ。でも……こうして葵ちゃんと再会して、過去の糸が再び繋がってしまったのね」
お姉ちゃんは静かに息を吐いた。
浴室から聞こえていたシャワーの音がやみ、衣擦れの音が響き始めた。
湊兄さんが上がってくるまで、もう時間がない。
「みゆ……私たちが今一番守らなければいけないのは、湊の心よ」
お姉ちゃんが私の両手をぎゅっと包み込み、まっすぐな瞳で見つめてきた。
「あの子は『水瀬湊』として、この家で育ってきた。私にとっても、あなたにとっても、本当の愛おしい弟であり、兄なの。もし突然自分のルーツやご両親の事故を知らされたら……あの子の心がどれほど傷つくか、想像するだけで胸が痛むわ」
「うん……お姉ちゃん、私も同じ気持ちだよ。兄さんの笑顔を守りたい……っ」
涙を拭った私に、お姉ちゃんは深く深く頷いた。
「隠し通すのはもう限界かもしれない。でも、真実を突きつけるのではなく、湊自身が自分のペースで受け止められるように……私たちが隣で支えてあげましょう。そのためにも、まずは私たちから一歩を踏み出さないとね」
そう言ってお姉ちゃんがお父さんの書斎から持ってきてくれたのは、古びた革製の例のアルバムだった。
めくられたページには、まだ生後間もない赤ん坊の私と、その横で少し緊張したように、けれど優しく私を見つめて寄り添う一歳ほどの湊兄さんの姿が写っていた。
「これを……湊に渡しましょう。水瀬家に来たばかりの、あの子の最初の写真よ。葵ちゃんが写っているわけじゃないけれど……あの子が『自分は水瀬家の家族なんだ』という愛を感じられるように」
「うん……! それがいいと思う」
ガチャリと脱衣所のドアが開き、髪をタオルで拭きながら湊兄さんがリビングに入ってきた。
「ふぅ、温まった……。あれ、二人で何見てるんだ?」
「湊、ちょっとおいで。あなたに見せたい写真があるの」
お姉ちゃんに促され、湊兄さんは首をかしげながらソファーに腰掛けた。
差し出されたアルバムの写真を覗き込むと、湊兄さんの瞳がふっと優しく揺れた。
「これ……みゆが生まれたばかりの頃か? 俺、なんだかすげえ緊張してるな」
「ええ。あなたが初めてみゆを『妹』として抱っこしようとした時の写真よ。湊、あなたは昔からずっと、みゆの優しいお兄ちゃんだったの」
「そっか……。なんだか覚えてないけど、すごく懐かしい感じがするな」
湊兄さんは愛おしそうに写真をなぞった。
自分がなぜ一歳の頃からこの家にいるのか、その背景にある深い真実にはまだ気づいていない。けれど、水瀬家で注がれてきた温かな愛の記憶が、写真を通して湊兄さんの胸に優しく染み渡っていくようだった。
「……葵さんも、明日アルバムを持ってきてくれるって言ってたな。自分と葵さんがどんな風に過ごしていたのか、見たら何か思い出すのかな」
無邪気に葵さんとの写真を心待ちにする湊兄さん。
明日、葵さんが持ってくる写真と、この水瀬家の写真が重なった時――1歳の頃の「神崎湊」と「水瀬湊」の時間がつながり、物語はいよいよ決定的な核心へと向かっていく。
「……うん。葵さんの写真、見せてもらえるといいね」
私は胸の奥の動揺をそっと隠し、隣で微笑む湊兄さんの横顔を静かに見つめ直した。どんな真実が待ち受けていようとも、この手を絶対に離さないと、心の中で強く誓いながら。




