冬の足音と、記憶の面影
暦は12月へと突入し、朝の空気は肌を刺すような冷たさを帯び始めていた。
吐く息が白く染まる通学路を、私は、湊兄さんと陽太の三人で並んで歩いていた。
「うぅ……寒い! 急に冬本番って感じだなあ」
陽太がマフラーに顔をうずめながら、寒そうに息を吐き出す。
「寒さに負けて体調を崩すなよ。冬のトレーニング期間は、毎日の体調管理が一番大事なんだからな」
「はーい、兄さん。でも本当に冷えるね」
私もマフラーをギュッと巻き直した、その時だった。
学校近くの交差点の曲がり角から、大きなカバンを抱えた一人の女子生徒が勢いよく飛び出してきた。
「きゃっ……!?」
「わっ……!」
曲がり角の死角で避ける間もなく、私とその女の子は正面から衝突した。
視界がグラリと揺れ、後ろへ倒れそうになった私の身体を、隣にいた湊兄さんが咄嗟に素早く抱きとめてくれた。
「大丈夫か、みゆ!?」
「あ……うん、ありがとう兄さん……! 私は平気……っ!」
間一髪で支えられ、胸を撫で下ろす。だが、私とぶつかった女の子の方は、そのまま尻餅をつく形で地面に倒れ込んでしまっていた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか……!?」
私は慌てて駆け寄り、手を差し伸べた。湊兄さんも素早くかがみ込み、倒れた女の子を気遣うように声をかける。
「怪我はないか? 立てるか?」
「あ……はい、すみません! 私の方こそ前をよく見ていなくて……」
そう言って顔を上げた女の子は、星和学院高等部の制服を着ていた。どこか見慣れない真新しい制服と胸章。彼女は差し出した私の手を取り、申し訳なさそうにスカートの土を払った。
「実は今日、星和学院に転校してきた初日で……道に迷いかけて焦っていたんです。驚かせてしまってすみませんでした」
「転校生……? 高等部のか?」
湊兄さんが尋ねると、彼女は「はい、高校1年です」と小さく頷いた。
「怪我がないなら良かった。俺は星和学院高等部1年の、水瀬湊。こっちは妹の中等部2年、みゆだ」
「俺はみゆと同じ中等部2年の、河村陽太! よろしくおねがいします!」
陽太も元気に笑顔で自己紹介を付け加える。
「水瀬……湊、さん……?」
湊兄さんが名前を名乗った瞬間。
女の子は瞳を大きく見開き、ハッとしたように湊兄さんの顔をじっと見つめた。どこか懐かしいものを手繰り寄せるような、不思議な視線。
(……え? なんだろ、湊兄さんの顔に何か付いてるのかな……?)
「あ、すみません! じっと見てしまって……。私、1年の綾瀬葵と言います。よろしくお願いします」
我に返った彼女――綾瀬葵さんは、少し顔を赤くして丁寧に頭を下げた。
「綾瀬さん。職員室の場所、分からないだろう? 高校の校舎なら俺も同じ1年だし、案内するよ」
「えっ……いいんですか? ありがとうございます、助かります……!」
凛とした表情で優しく申し出る湊兄さんに、葵さんは安堵の笑みを浮かべた。
じゃあ中等部校舎へ向かおうと、私と陽太が足を踏み出しかけた、その時だった。
「あの……水瀬さん」
葵さんがふと立ち止まり、何かを確かめるように湊兄さんを見つめた。その真剣で、どこか遠い目をした表情に、私と陽太も思わず足を止める。
「ん? どうしたんだ?」
振り返った湊兄さんに向かって、葵さんは少し迷うように唇を噛みしめ、それから静かに尋ねた。
「……水瀬さんは、昔からずっと『水瀬』さん……ですか?」
「――ッ!?」
その一言が耳に届いた瞬間、私と陽太の全身に電流が走った。
私と陽太は息を飲み、思わず顔を見合わせる。
(なんで……!? なんで葵さんが、そんなことを聞くの……!?)
湊兄さんが本当は『神崎湊』であり、幼い頃に複雑な境遇を経て水瀬家の養子になったこと――その過去を知っているのは、家族やごく限られた親しい人間だけのはずだ。初対面のはずの転校生が、なぜそんなピンポイントな疑問を口にするのか。胸の奥が冷たく締め付けられるような、強い衝撃と動揺が押し寄せてくる。
「……え?」
当の湊兄さんは、意図の分からない質問に一瞬不思議そうに眉をひそめた。
「あ、すみません……! 変なことを聞いてしまって!」
私たちの尋常じゃない雰囲気を察したのか、葵さんは慌てて少し照れくさそうに手を振った。
「なんだか……本当に昔、どこかでお会いしたことがあるような気がしてしまって。でも、私の気のせいですよね。変なことを言ってごめんなさい」
「……いや、気にしないでくれ。質問の意図は分からないが、俺はずっと水瀬湊だ。でも、もしどこかで会っていたなら……不思議な縁だな」
湊兄さんは静かに首を振り、いつもの優しい笑みを浮かべた。
1歳の頃、まだ「神崎湊」だった頃の記憶など、湊兄さん自身にもほとんど残っていない。けれど、葵さんの面影にどこか懐かしいものを感じたのか、湊兄さんの瞳にもかすかなとまどいが広がっているように見えた。
「じゃあ陽太、みゆ、俺は綾瀬さんを職員室まで送っていく」
「あ……うん。兄さん、お願いね……」
二人が歩き出す背中を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
「みゆ……今の、聞いたか……?」
隣で陽太が、声を潜めて硬い表情で囁いてくる。
「うん……。葵さん、湊兄さんの『昔』を知ってるのかな……?」
1歳の頃に出会っていたかもしれない、昔の記憶。
自分たちの知らない湊兄さんの過去の破片を葵さんが握っているのかもしれないという予感に、私の胸はざわざわと静かに波立ち続けていた。




