危機感と絆、届いたエール
勉強会を終えた後、私は凛ちゃんと共に佐々木家(ひかりちゃん宅)へ向かって歩いていた。
「ひかりちゃんの家って、ここから近いの?」
「歩いて5分もかからないくらいだよ。……それにしても、みゆちゃんにひかりたちの家まで付き合わせちゃってごめんね」
「ううん! ひかりちゃんが心配だし、凛ちゃんと一緒に行けて嬉しいよ」
私は手に持った、凛ちゃんの1年生の時のノートのコピーと、お裾分けのお芋のタルトが入った紙袋をキュッと握り直した。
住宅街の一角にあるひかりちゃんの家へと到着し、敷地の中に一歩足を踏み入れると――開け放たれた一階の窓から、悲壮感漂う声が漏れ聞こえてきた。
「あぁぁもうっ! この『x』と『y』の連立方程式、どうしてここでマイナスがプラスになっちゃうの……!? 教科書見ても全然意味が分からないよぉ……っ!」
門の前で、私と凛ちゃんは思わず顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。ひびきくんは習い事か何かで外出しているのか家の中は静かで、ひかりちゃんの悲痛な独り言だけが響いている。
凛ちゃんがインターホンを鳴らすと、ドタバタとした足音が響き、半泣き状態のひかりちゃんがドアを開けた。その髪は少しボサボサで、目元には明確な焦りと絶望が浮かんでいる。
「は、はい……あ! 凛姉……と、みゆ先輩!?」
「ひかり、外まで大きな声が聞こえていたわよ。相変わらず極端なんだから……はい、これ」
凛ちゃんが静かに差し出した紙袋を受け取り、中を覗き込んだひかりちゃんの目がまん丸になった。
「これ……凛姉の1年生の時のノート……!? すごい、解き方のコツまで全部書いてある……!」
「みゆちゃんがね、ひかりがコートで困っていたって教えてくれたの。だからノートのコピーと、私が作ったお芋のタルトを持ってきたのよ」
「みゆ先輩と凛姉が……!? うわぁぁん! ありがとうございます! これで命が助かりました……っ!」
涙目になりながらノートを抱きしめるひかりちゃん。
「勉強もテニスも、一人で抱え込んじゃダメだよ。困ったときは先輩や周りを頼るのも、強くなるための大事なステップなんだから」
「はい……!玄関先に立たせておくのもなんだから、二人とも上がってよ! お茶淹れるから!」
半泣きから一転、パッと表情を明るくしたひかりちゃんに促され、私と凛ちゃんはリビングへとお邪魔した。
整然とした凛ちゃんの部屋とは対照的に、ひかりちゃんのリビングのテーブルには、教科書やプリント、ノートが所狭しと広げられている。格闘の跡が目に見えるようだ。
「……相当追い詰められていたみたいね」
凛ちゃんが呆れつつもどこか愛おしそうにプリントを一枚拾い上げると、赤ペンで丁寧に解説を書き込み始めた。
「ほら、ひかり。この連立方程式は、まず上の式を2倍して『y』の係数を揃えるの。ここでマイナスを分配するときに……」
「あ……! ほんとだ! 符号が変わるんだ……! 凛姉、教え方すごく分かりやすい!」
凛ちゃんの的確な指導に、ひかりちゃんの目がウロコが落ちたように輝く。料理研究会で培われた彼女の丁寧で論理的な教え方は、勉強の解説でも遺憾なく発揮されていた。
「私からも、これ! 凛ちゃんが作ってくれた新作のタルトだよ」
私が紙袋からタルトの箱を取り出すと、ひかりちゃんは「わぁっ……!」と声を弾ませた。
「さつまいもと紫芋のタルト……綺麗……! いただきます!」
一口食べた瞬間、ひかりちゃんの頬がキュッと緩む。
「おいしい……! 濃厚なのに優しくて、疲れた頭にすごく染み渡るよ……!」
「ふふ、良かった。糖分をしっかり補給して、集中力を切らさないようにね」
満足そうに微笑む凛ちゃんの横顔を見ながら、私はひかりちゃんに向き直った。
「ひかりちゃん。有明の大会が終わって、新体制になって……プレッシャーも大きいよね。春花先輩たちからバトンを受け取って、自分がしっかりしなきゃって焦る気持ち、すごく分かるよ」
私の言葉に、ひかりちゃんはタルトを味わう手を止め、真剣な眼差しで頷いた。
「はい……。私、有明のコートで戦う先輩たちの背中が本当にかっこよくて、追いつきたくて夢中になりすぎちゃってました」
「その熱意はすごく素敵だし、コートでの『波紋』の精度、本当に凄かったよ。でもね、一人で全部背負う必要はないんだよ。私や美咲、凛ちゃんもいる。後輩のひかりちゃんが困ったときは、いくらでも手を差し伸べるから」
「みゆ先輩……」
「だから、まずは目の前のテストを全力で撃破すること! コートで最高のパフォーマンスを出すための第一歩だよ」
私がニッと笑って見せると、ひかりちゃんは溢れそうになる涙をグッと堪え、力強く頷いた。
「はいっ! 凛姉のノートとみゆ先輩のエールがあれば百力船です! 私、絶対に赤点を回避して、次の大会でも先輩たちと一緒に勝ち進んで見せます!」
部屋の外では、秋の夕日がゆっくりと沈み、優しい茜色の光が窓から差し込んでいた。
先輩から後輩へ。コートの上だけでなく、こうした日常のひとコマの中でも、確かに絆のバトンは受け継がれ、紡がれていく。
新しいチームで迎えるこれからの季節が、どんなに厳しいものになろうとも――私たちならきっと、どこまでも高め合っていける。
後輩の真っ直ぐな瞳に明日への希望を感じながら、私たちはあたたかな温もりに包まれた夕暮れの部屋で、柔らかな笑顔を交わし合うのだった。




