静かな部屋と、託されたノート
市民コートを後にして数分。私は指定された佐々木宅のシックな戸建てのインターホンを鳴らした。
ピンポーン。
「はーい。あ、みゆちゃん。どうぞ、入って」
ドアを開けて丁寧に出迎えてくれたのは、同じ2年Bクラスの凛ちゃんだった。
料理研究会の主力としてクラスの文化祭模擬店でも頼りになった彼女は、休日もどこか落ち着いた雰囲気を纏っている。案内されたお部屋は綺麗に整頓されており、学習机の上には見やすいノートと教科書が整然と並べられていた。
「わざわざ日曜日にごめんね、凛ちゃん。本当に助かるよ……!」
「ううん、気にしないで。みゆちゃんたちが有明の大会で頑張っていたのは知っているし、お互い様だよ。さあ、かけて」
凛ちゃんは静かに微笑むと、手際よく淹れてくれた温かい紅茶を机に置いて向かい側に座った。
早速ノートを広げて勉強に取りかかる。
凛ちゃんのノートは丁寧な文字でポイントが美しく整理されており、本当に分かりやすい。授業で聞き逃していた難解な数学の公式や歴史の文脈が、すんなりと頭に入ってくる。
「……なるほど、ここはこうやって整理すれば良かったんだ! 凛ちゃん、ノートすごく見やすいよ」
「ふふ、お役に立てたなら良かった。みゆちゃんは理解が早いから教え甲斐があるよ」
「あ、そういえばね、凛ちゃんのお家に来る途中のコートで、ひかりちゃんとひびきくんを見かけたんだよ」
私が思い出したように言うと、凛ちゃんは「えっ、そうなの?」と少し驚いたようにパチクリと目を丸くした。
「うん。ひかりちゃん、すごく熱心に練習をしてたんだ。……ただね、私が『凛ちゃんのお家にノートを見せてもらいに行く』って言ったら、自分の授業の遅れや小テストのことを思い出したらしくてさ」
「小テスト……? あ、まさか……」
「うん。『成績が落ちるとレギュラー外されちゃうよ』って言ったら、顔を蒼白にしてパニックになっちゃってて……。ねえ凛ちゃん、もし良かったらなんだけど、凛ちゃんの1年生の時のノートってあったりする……? ひかりちゃんにもコピーを渡してあげたくて」
私が尋ねると、凛ちゃんは呆れたように小さく息を吐き、どこか困ったような、けれど愛おしそうな苦笑いを浮かべた。
「全く、あの子ったら……テニスのことになると本当に周りが見えなくなるんだから。……1年生のノートね、もちろん残してあるよ。押し入れから出してくるね」
「ありがとう! あんなに熱心に頑張ってるんだから、勉強が原因でコートに立てなくなったら可哀想だもんね」
「ふふ、本当だね。みゆちゃんは優しいな。よし、じゃあコピーを取って、後でひかりに届けてあげることにするわ」
料理研究会のエースらしい細やかな気遣いを見せる凛ちゃんと微笑み合いながら、私たちは静かな部屋でそれぞれの課題へと向かい直すのだった。
「ふぅ……! 凛ちゃんのおかげで、遅れてた分の範囲、かなり理解できたよ!」
ペンを置き、大きく背伸びをする。難解だった数学の解法や歴史の単語帳がすっきりと頭の中で整理され、胸のつかえが降りたような開放感に包まれた。
「お疲れ様、みゆちゃん。ちょうどキリが良いし、少し休憩にしようか」
凛ちゃんが時計を見やりながら、優しく微笑む。
「実はね、ちょうど今日のために『料理研究会』の活動で作ってみた新作のお菓子があるの。みゆちゃんに試食してもらえると嬉しいな」
「えっ、凛ちゃんの新作!? すごく楽しみ!」
料理研究会のエースである凛ちゃんの作るスイーツと聞けば、断る理由なんてない。ワクワクしながら待っていると、キッチンからふわっと、香ばしくて甘い芳醇な香りが漂ってきた。
「はい、どうぞ。秋らしく『さつまいもと紫芋の二色タルトレット』を作ってみたの」
運ばれてきたお皿の上には、お店のショーケースに並んでいるかのような美しいミニタルトが載っていた。
サクサクに焼き上げられたタルト生地の上に、鮮やかな黄色と深い紫色のペーストが美しい波模様を描いて絞られている。仕上げに散らされた黒ゴマと、表面のほのかな焦げ目が食欲をそそった。
「わぁ……! すごく綺麗……! いただきます!」
フォークを入れ、一口口に運ぶ。
タルト生地の香ばしいサクッとした食感の直後、お芋の濃厚で自然な甘みが口いっぱいに広がった。黄色のさつまいもペーストはほっくりとした優しい甘さで、中のカスタードと相性抜群。紫芋のペーストはほんのりとした甘みとコクがあり、後味がすごく上品だ。
「……おいしいっ! お芋本来の甘みがすごく活きてて、口当たりもなめらか! 全然重たくなくて、何個でも食べられちゃいそう!」
私が目を輝かせて感想を伝えると、凛ちゃんはほっと胸を撫で下ろし、職人のような真剣な面持ちから柔らかな笑顔へと表情を緩めた。
「良かった……! 裏ごしを何度も繰り返して食感を追求した甲斐があったわ。秋の試作メニューとして自信作だったから、みゆちゃんに褒めてもらえて安心した」
「ううん、本当にプロ顔負けだよ! 凛ちゃんのお菓子って、食べた人をすごく幸せな気持ちにしてくれるよね」
「ふふ、ありがとう。みゆちゃんのお弁当のアイデアや技術もいつも刺激になっているよ。……あ、そうだ。ひかりの分のノートも準備できたから、お菓子の端数と一緒に持っていってあげようか」
凛ちゃんは1年生のノートを綺麗にまとめた紙袋を差し出してくれた。
「うん! 絶対喜ぶと思う! 勉強が一段落したら、ひかりちゃんにもこの美味しいタルト、一口分けてあげたいな」
「あの子には、まず勉強を終わらせてからね」
クスッと笑い合う私たちの部屋に、心地よい秋の風と甘い香りが優しく吹き抜けていった。




