途切れた絶対、受け継がれる熱
有明コロシアムの最奥、メインコート裏へと続く静まり返った通路。
陽太の背中を追って走り抜けた私たちは、冷やりとした空気が満ちる一角で立ち止まった。
「天音……!」
陽太の声が静寂を切り裂く。
その視線の先、壁に背をもたれかけ、深くうつむいていたのは鳳凰院中学の主将――天音つかさだった。
かつてコートで圧倒的な絶対王者として君臨していた彼の肩は小さく震え、握りしめられた両手からは力なくラケットバッグが床へこぼれ落ちていた。連覇のプレッシャー、そして絶対のエースとしての重圧を一人で背負い続けてきた彼の背中に、かけるべき言葉が見つからない。
「……陽太、か」
掠れた声で顔を上げた天音の瞳は、敗北のショックで光を失っていた。
「すまない……無様なところを見せたな。鳳凰院の……連覇を、僕の代で途絶えさせてしまった」
「天音……お前……」
歩み寄った陽太は、いつもならかけるはずのライバルとしての軽口も出てこないようだった。神代さんが勝利したことへの誇らしさと、目の前で打ちひしがれる天音への痛切な思い。複雑な感情に胸を締め付けられながらも、陽太は強く、まっすぐに天音の目を見つめ返した。
「無様なんかじゃないだろ! 最後まで最高のプレーだった……! 神代さんとお前の試合、スコア見ただけでもどれだけすごかったか分かるよ!」
「……結果がすべてだ。王座を守れなかった事実は変わらない」
自責の念に囚われる天音の言葉に、追い付いてきた湊兄さんが一歩前に出た。少し呆れたような、けれどどこか重みのある声で言い放つ。
「おい、天音。一人で全部背負った気になってんじゃねぇよ」
「……水瀬さん……」
「負けを知らねぇ奴が強くなれるわけねぇだろ。鳳凰院の連覇が途切れた? だったら、またここから奪い返せばいいだけの話だ。……お前がここで折れたら、全力をぶつけ合った神代にも失礼だろ」
不愛想だが芯を突いた湊兄さんの言葉に、天音はハッとしたように息を呑んだ。
言葉を交わしたことはなかったけれど、傷つきながらも立ち上がろうとする彼の姿に、私は思わず一歩踏み出していた。
「あの……はじめまして。星和学院女子テニス部の水瀬みゆです」
私の自己紹介を聞いた瞬間、天音の表情が大きく固まった。
「……ミナセ……? 水瀬さん……?」
天音は目の前の私と、隣に立つ湊兄さんの顔を交互に見比べ、ハッと息を呑んだ。
「もしかして君が、水瀬さんの……妹さん、ですか……!?」
「あ、はい! 湊兄さんの妹です!」
私がお辞儀をしながら答えると、天音は吸い込まれるように私を凝視した。初対面の胸の高鳴りか、敗北のショックで青ざめていた彼の頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「水瀬……みゆさん……。……なんという可憐な……」
ウットリと呟く天音は、急に背筋をピンと伸ばすと、何を思い立ったのか湊兄さんの方へと向き直り、慇懃無礼に深々と頭を下げた。
「……湊お兄さん! 妹さんへのご指導、日頃から大変感服しております! これからはぜひ、僕も……!」
「……あ?」
『湊お兄さん』という呼び声が響いた瞬間、周囲の空気が一瞬で氷点下まで凍りついた。
湊兄さんは眉間におそろしく深いシワを寄せ、猛烈な威圧感と警戒心を剥き出しにして天音を睨みつけた。
「誰がお前のお兄さんだ!? 調子のってじゃねぇぞ天音……!」
(な、なんだこの急展開は……っ!?)
焦ったのは陽太だ。熱い視線を送る天音と、妹を守るためにブチギレ寸前の湊兄さん。彼氏として焦燥感を爆発させた陽太は、強引に天音と湊兄さんの間へ割り込み、必死に話をすり替え始めた。
「ほ、ほら天音! 男子シングルス1のあの激闘の話だ! 神代さんとの最後のラリー、あそこから九州志士学園の巻き返しが始まったわけだろ!?」
「まったく、馴々しく『お兄さん』とか呼んでんじゃねぇ! それより今の体調はどうなんだ!?」
「え? あ、いや……体調は……それよりみゆさん……」
殺気立つ湊兄さんと必死な陽太に挟まれ、天音は目を白黒させながらも未練がましく私を見つめている。
そのカオスなやり取りの渦中、通路の曲がり角から重厚な足音が近づいてきた。
「つかさ。……ここにいたのか」
「神代さん……っ!」
圧倒的なオーラを纏って現れた神代さんの姿に、陽太の瞳が一瞬で輝きを増した。
神代龍之介――九州志士学園を全国制覇へと導き、シングルス1で天音さんとの激闘を制した男。陽太が「兄貴」と慕い、その背中を追い続けてきた絶対的な存在が、そこに立っていた。
「龍之介……」
天音さんは一瞬間を置き、照れくささと敗北の悔しさが混ざったような表情で神代さんを見上げる。神代さんはゆっくりと歩み寄ると、天音さんの肩へ重みのある手をポンと置いた。
「いい顔になったな、つかさ。……コートを降りれば、いつものお前だ」
「……勝者に慰められる筋合いはないよ。だが……今日の試合、僕の負けだ。完敗だった」
天音さんが潔く負けを認めると、神代さんは不敵で豪快な笑みを浮かべた。
「何を言う。お前の覚悟と打球、俺の魂まで震えたぞ。紙一重の勝負だった。……鳳凰院の連覇を止めたのは俺たちだが、お前という最高のライバルがいたからこそ、俺たちは限界を超えられた」
堂々とした神代さんの言葉に、天音さんの目元からすっと憑かしが落ちていく。二人が互いの健闘を称え合うように強く握手を交わす光景に、私は胸が熱くなるのを感じていた。
「神代さん! 優勝、おめでとうございます!」
陽太が抑えきれない興奮を声に乗せて叫ぶと、神代さんは視線をそちらへ向け、表情を和らげた。
「陽太か。……お前たちの試合も見たぞ。お前とつかさの試合でつかさの手の内を全て見させてもらったからな。当たる順番が違えば結果も変わってただろうな」
「どうでしょうね!でも俺も二人に追いつきます、もっと、もっと強くなりたいって思いました! 俺、負けず嫌いなんで!」
まっすぐな陽太の宣言に、神代さんは深く頷いた。
「フッ、いい目だ。……待っているぞ。次は高校の舞台で、俺たちを脅かす存在になってみせろ」
神代さんの力強い言葉が、陽太の胸の奥にある情熱の火にさらに薪をくべる。
陽太は嬉しそうに頷くと、私の隣へ立ち、ぎゅっと拳を握りしめた。
「みゆ、俺……やるよ。湊さんや神代さん、天音にも負けないくらい強くなって、次は俺がみんなを引っ張っていく!」
「うん! 陽太なら、絶対にできるよ!」
私が笑顔で応えると、陽太は照れくさそうに頭をかいた。
「……、相変わらず青くさい口叩きやがって」
横で見ていた湊兄さんは呆れたように息を吐いたけれど、その口元はどこか満足そうに緩んでいた。
「だが陽太、口だけならいくらでも言える。次からの練習、今まで通りの甘いメニューで済むと思うなよ?」
「うぐっ……手加減してくださいね、湊さん……っ!」
過酷な特訓を予感して冷や汗を流す陽太の姿に、蓮さんたちからも小さな笑いがこぼれる。天音さんもまた、私たちのやり取りを少し羨ましそうに、そしてどこか眩しそうに見つめていた。
アリーナから男子閉会式の開始を告げる館内放送が響き渡った。
「さて……そろそろ男子の閉会式だな。つかさ、行くぞ」
「ああ。準優勝の盾、しっかり受け取ってこないとな」
神代さんに促され、身なりを整えた天音さんが歩き出す。すると神代さんは振り返り、陽太にニヤリと笑いかけた。
「陽太、お前も来い。表彰台に立つ俺たちの背中、一番近いところで見届けていけ」
「はいっ……! 行きます!」
陽太は嬉しそうに返事をすると、私の方を振り返って力強く頷いた。
「みゆ、閉会式が終わったらまた合流するよ!」
「うん、行ってらっしゃい! 陽太!」
連覇を阻んだ覇者、全てを背負って戦い抜いたライバル、そしてその背中を追う少年。三人はそれぞれの想いを胸に、まばゆい光が差し込むメインアリーナのコートへと向かって歩みを進めていった。
激闘の大会が終わりを告げる。
王座の移動、敗北の涙、そして新しく芽生えた絆と誓い。
それぞれの胸に宿った情熱の火種は、次の季節へ向かって静かに、けれど確実に燃え上がり始めていた。




