決勝戦S1:頂の対峙
「女子シングルス1、試合を開始します!」
審判のコールが有明のセンターコートに大きく響き渡り、会場全体の空気が一瞬にして凛と張り詰めた。2勝2敗。全国制覇の夢も、絶対王者の連覇も、すべてはこの最終決戦――私と白河こころさんの肩にかかっていた。
コートへ向かう直前、大会前に奈緒から告げられた言葉が脳裏をよぎる。
『みゆ、気をつけて。白河さんのプレイスタイル、以前のデータとはガラリと変わっているわ。これまでの彼女のテニスだと思っていると、足元を掬われる』
(どんなテニスをしてくるんだろう……)
胸の鼓動が高鳴るのを感じながらネット際へ進むと、そこには西園寺女学院のキャプテン、白河こころさんが佇んでいた。陽だまりのような雰囲気の可憐な少女。けれど、その佇まいには絶対的な自信が溢れかえっていた。
「みゆさん。この舞台であなたと戦えることを、ずっと楽しみにしていたわ」
こころさんが柔らかく微笑む。
「私もです、こころさん。奈緒から、こころさんのテニスが変わったって聞きました。どんな試合になるのか、少し怖くもあります……でも、すごくワクワクしています」
私の言葉に、こころさんは優しく目を細めた。
「ええ。私も自分自身の新しいテニスと向き合ってきたの。……みゆさん、勝敗はもちろん大切だけれど、今日はお互い、今持てるすべてをぶつけ合って、絶対に悔いの残らない最高の試合にしましょう」
「はい! 悔いの残らない試合にしましょう!」
固く握り交わした手から、相手の熱い魂が伝わってくるようだった。
エンドを決めるトスを終え、ポジションにつくためにコートの奥へと歩き出しながら、私はふと巨大なスタンドを見上げた。
超満員の観客席の中央、 VIP席や関係者席には、この試合を見届けるために集まった凄まじい顔ぶれが並んでいた。
最前列で腕を組み、鋭い眼光でこちらを睨みつけているのは、かつて西園寺の絶対的エースとして君臨した『煉獄の処刑人』鳳仙雅さん。その隣には、彼女の従姉妹の千堂茜さんや、静かに見守ってくれている湊兄さんと北条蓮さん、その他これまでの激闘を戦い抜いてきた他校のライバルたちの姿があった。
さらに視線をずらすと、予選や地区大会、全国のトーナメントで拳を交えてきた懐かしい顔ぶれも勢揃いし、全員が息を呑んでコートを見つめている。
そして何より、スーツ姿のプロテニス界のスカウトたちが、手元の資料にペンを走らせながら、一挙手一投足に熱い視線を注いでいた。
(こんなにもたくさんの人たちが、私たちの試合を見に来てくれている……!)
観客席の熱気と視線を全身に浴びて、背筋がゾクゾクとするような心地よい緊張感が駆け巡る。
ベンチを見やれば、春花先輩、芽衣先輩、綾先輩、そして泥だらけになってバトンを繋いでくれた美咲、莉奈、奈緒が、祈るような思いで私を見つめていた。
「さあ、いこう……!」
ラケットを固く握り直し、私は西園寺のエース――白河こころの構えるコートの向こう側へと、真っ直ぐに視線を据えた。
「サービス、西園寺女学院、白河!」
審判のコールが響いた瞬間、コートの空気が激変した。
さっきまでの穏やかで温かい佇まいは綺麗に消え去り、白河こころさんの全身から立ち昇ったのは、幾多の死線をくぐり抜けてきた『歴戦の怪物』そのものの圧倒的な覇気だった。
ドゴォン!!
「っ……!?」
放たれたファーストサーブ。回転、スピード、コース――すべてが次元の違う重みを持って私のコートへ突き刺さる。第1ゲームは圧倒的なストロークでこころさんに取られたものの、私もすぐにギアを上げた。
続く第2ゲーム、こころさんのプレイスタイルがガラリと変わる。ミリ単位で計算されたネットインを執拗に狙ってくる技巧派のテニスに対し、私は研ぎ澄まされた予測能力をフル稼働させた。相手の視線、肩の角度、軸足の沈み込みから軌道を即座に割り出し、ギリギリでネット際へ滑り込んで拾い上げていく。
「ゲーム、星和学院、1-1!」
だが、第4ゲーム。こころさんはさらに変化し、私をコート深くへ押し込める高軌道のディープロブを連発。下がって体勢を崩した瞬間、浅いフロントへの鋭いカットボレーで仕留めてくる。ゲームごとにプレイスタイルを完璧に切り替えてくる底なしの引き出しに、私も防戦一方に追い込まれた。
「ゲーム、西園寺、3-1!」
(やっぱりすごい……。でも、相手の出方を待つだけじゃダメだ!)
第5ゲーム。私は手首にしなやかなしなりを効かせ、必殺の『波紋』を打ち込んだ。相手の打球のパワーと回転を吸収し、何倍もの螺旋となって跳ね返すショット。
シュゴォォッ!
「……見事な回転ね」
こころさんは冷静に打ち返してくるが、その返球のタイミングが、1ラリーごとにほんのわずかずつ、恐ろしい精度でアジャストされていくのが分かった。
そして、第5ゲームの終盤――。
私が放った渾身の『波紋』に対し、こころさんは完璧に踏み込んだ。増幅された回転の軸が集中する『点』のタイミングを完全に見極め、寸分の狂いもなくラケットの芯を合わせてきたのだ。
バチュゥゥンッ!!
回転を逆に利用され、倍以上のスピードとなったフラットドライブが私のオープンスペースを抜いていく。
「ポイント、西園寺!」
観客席がどよめく。相手の力を利用して受け流す『受動の波紋』に、こころさんが完全にタイミングを合わせてきたのだ。初めての展開にベンチの仲間たちが息を呑む。
――けれど、私の心は慌てていなかった。
(やっぱり、受動の波紋だけじゃこころさんには通じない……。でも、私には自ら回転を作り出す『能動の波紋』もある!)
相手の力を利用するだけではない。自分の筋力と手首の極限のしなりで、ゼロから不規則な超回転を生み出す能動的なテクニック。さらに持ち前の予測精度を組み合わせ、こころさんの配球の先を読んでコートを支配し返す。
ネットインを狙う繊細なドロップには、予測からの高速アングルボレー。ロブで下げられれば、ドライブボレーで強烈に叩き落とす。相手の対応の上を行くテクニックの応酬で、私は主導権を渡さなかった。
バシィィン!
「ゲーム、星和学院、3-3!」
イーブンに戻したものの、コートの向こうに立つこころさんの瞳には、焦りどころか深海のような静けさが漂っていた。
「……素晴らしいわ、みゆさん。でも、まだまだ浅いわ」
第7ゲーム。こころさんの纏う雰囲気が、またしても不可解な変化を遂げた。
今度は、すべての球勢を吸い尽くすかのようなカウンター重視のプレイスタイルへの変貌。私がどんなに厳しいアングルへコントロールしようと、完璧な軸で待ち構え、倍の鋭さでコースを突き返してくる。
「くっ……それなら……ッ!」
第8ゲーム、私は相手の甘くなった浮き球を見逃さず、コート高くへ跳び上がった。
これまでの相手なら確実に仕留めてきた、体全体の捻りと体重を極限まで乗せた渾身のジャンプスマッシュ!
ドバアァン!!
コートに爆音が響き渡る。だが――。
バチュンッ!
「な……っ!?」
こころさんは、その破城槌のようなスマッシュすらも難なく面で受け止め、吸い付くようなカウンターボレーで私の足元へポトリと落としてみせたのだ。
体重をかけた打球すら通じない。それどころか、続く第9ゲームでは一転して、かつての鳳仙雅を彷彿とさせる圧倒的な重圧を伴うパワーで押し切るスタイルへと切り替え、強烈なフラットドライブで私をベースライン後方へ押し込んでくる。
鳳仙さんほどのパワーはなくとも私の体格からすれば十分すぎるパワーだった。
(すごい……!? カウンターも、パワーも……全タイプが全国トップレベルなんて……!)
「ゲーム、西園寺、5-4!」
こころさんに王手をかけられた第10ゲーム。追い詰められた私の額から冷や汗が滑り落ちる。
相手の力を利用する『受動の波紋』はタイミングを合わされ、体重を乗せた強打すらカウンターで封じられた。今までの戦い方が、すべて通用しない。
(……やるしかない。ここで、出し惜しみなんてしていられない!)
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような緊張感。自分の隠し球であり、後半戦の切り札として温存しておくはずだった技を、この序盤の終盤というあまりにも早い段階で解禁せざるを得ない事態に、私の心境は穏やかではいられなかった。
(こんなに早く切り札を切るなんて……後半、スタミナが持つ……? でも、今ここで使わなきゃ、後半なんて来ない!)
「ふぅぅ……っ」
深く息を吐き出し、不安を強引に意識の底へ押し込めると、私はグリップを強く握り直した。
相手の打球の力に頼らない。自らの身体の捻り、手首の極限のしなり、そして肉体のすべてを使ってゼロから不規則な回転を発生させる――『能動の波紋』。
シュゴオォォッ!!
こころさんの強烈なパワーショットに対し、私は自ら強烈なスピンを叩き込んだ。ボールは不自然な不規則軌道を描きながら急降下し、相手のコート際で爆発的に跳ね上がる。
「ポイント、星和学院、15-0!」
「……!?」
完璧な対応を続けていたこころさんの眉が、初めてピクリと跳ねた。回転を合わせようとしたラケットが空を切る。
続くポイントでも、私は能動的な波紋から繰り出される変幻自在の超回転を連発。
こころさんは回転が増幅している想定でカウンターのタイミングを合わせるが、回転が不規則に変化しているため、タイミングが完全が狂う、力で押してくる重厚なストロークすらも、こちらの不規則な軌道で主導権を奪い返していった。
バシィィン!
「ゲーム、星和学院、5-5! タイ!」
「追いついた……! みゆが主導権を奪い返したよ!」
ベンチの美咲たちが歓声を上げる。
だが、私の右腕には確かな重疲労が蓄積し始めていた。自ら回転を生み出す『能動の波紋』は、身体にかかる負担が桁違いだ。切り札を早い段階で切ってしまった焦りと重圧を胸に抱えたまま、私はこころさんとの果てしない死闘の渦中へと深く沈んでいくのだった。




