託されるバトン、決勝への扉
「春花先輩、最高の試合をありがとうございました。……あとは、私に任せてください!」
S2(シングルスツー)のコートへ向かう松本美咲が、ベンチ前で春花部長にそう告げた。その表情はいつになく引き締まっており、星和のレギュラーとしての強い誇りと、絶対にここで決めるという静かな闘志がみなぎっている。
対する九州志士学園のS2は、ここまで勝ち上がってきた実力者。しかし、先ほどの岩本選手のような規格外の超回転や、破壊的なパワーを持っているわけではなかった。
「美咲のテクニックなら、絶対に負けないわ。落ち着いてゲームを組み立てていって」
ベンチから奈緒が冷静に声を送り、美咲は頼もしく笑って頷いた。
「女子S2、試合を開始します!」
審判のコールとともに始まった試合は、まさに美咲の独壇場だった。
美咲は、相手に主導権を一度も握らせない。鋭いスライスを深く滑らせて相手の体勢を崩したかと思えば、絶妙なタイミングでネットに突き刺さり相手コートへポトリ落ちるネットイン。
「なっ……!?」
相手が必死の形相で前へ滑り込むが、ラケットは空を切り、ボールは軽やかにコートを弾んだ。
「ポイント、星和学院、30-0!」
翻弄される相手に対し、美咲のプレースタイルはどこまでも優雅で、それでいて容赦がなかった。持ち前の高い技術を遺憾なく発揮し、相手のストロークの威力をいなしながら、コートの左右、そして前後に揺さぶりをかけ続ける。
美咲が紡ぎ出す変幻自在のテクニックに、九州志士学園のS2はただコートを走り回らされるだけとなり、完全にゲームを支配されていた。
「ゲーム、星和学院、3-0!」
完璧なペース。ベンチから見守る私たちも、その盤石なプレーにすっかり魅了されていた。
観客席の最前列で腕を組んで見守る蓮さんも、美咲の精密なラケットワークを見て、静かに満足げな笑みを浮かべている。
「すごい……。美咲、全然危なげがないね」
莉奈が感嘆の声を漏らすと、奈緒が鋭い目でコートを見据えながら答えた。
「相手の狙いを先回りして、自分の土俵に引きずり込んでいる。相手からすれば、蜘蛛の巣に引っかかったような感覚でしょうね。これなら、何の問題もないわ」
言葉通り、美咲の勢いは最後まで衰えることはなかった。
時折、相手が放つ決死のパッシングショットも、美咲は流れるようなステップで追いつき、完璧なアングルボレーでコートの隅へと叩き落としていく。
「ゲームアンドマッチ! 星和学院、6-1!」
審判のコールが響き渡り、コートを支配しきった美咲が右手を高く突き上げた。
3勝1敗。
この瞬間、星和学院女子テニス部は、悲願である全国大会決勝への切符をその手にしっかりと掴み取ったのだ。
「やったぁぁぁーーっ!!」
莉奈が私の肩を抱いて飛び跳ね、1年生のひかりちゃんと結衣ちゃんも、嬉しさに目を潤ませながら抱き合っている。ベンチに戻ってきた美咲を、私たちは割れんばかりの拍手と歓声で迎えた。
「美咲、本当に最高の試合だったわ!」
春花部長がボロボロの手で美咲と固く抱き合う。
「ふふ、お疲れ様、春花部長。約束通り、最高の形でバトンを繋ぎました。……ねえ、みゆ?」
美咲が汗を拭いながら、私に向かって優しく微笑み、そして親指をグッと立ててみせた。
チームの勝利はすでに決まった。けれど、まだ私のシングルス1の試合が残っている。
決勝の相手はきっと、あの白河こころさんが待つ西園寺女学院だ。その前哨戦として、私自身がここでどんなテニスを見せられるか。
「はい。しっかりと、締めてきます!」
私はラケットを強く握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「女子S1(シングルスワン)、試合を開始します!」
審判のコールがコートに響き渡り、私はゆっくりとベースラインへ向かった。
すでに星和の決勝進出は決まっている。けれど、この試合は消化試合なんかじゃない。決勝の舞台で待ち受ける西園寺女学院、そして白河こころさんに、私たちの進化を見せつけるための前哨戦だ。それに何より――。
ベンチに目をやると、右腕を冷やしながらも真っ直ぐな瞳を向けてくれる春花部長と、目を輝かせてこちらを見つめる後輩のひかりちゃんの姿があった。
(春花部長、そしてひかりちゃん……。二人に、私のテニスを、本当の『波紋』をよく見ていてほしい)
私のサーブから始まった第1ゲーム。
相手の九州志士学園のS1は、負けが決まったチームの意地を背負い、鋭いフラット気味のファーストリターンを私のコート深くへと突き刺してきた。
球足は速く、回転も鋭い。
だが、私の視界は驚くほどクリアだった。
ボールの軌道、回転の向き。すべてがスローモーションのように頭に流れ込んでくる。私はラケットの面を柔軟に傾け、吸い付くようにボールを受け止めた。
――力を逃がすだけじゃない。そこから、相手の力を『奪い、乗せる』。
バチュウッ!
次の瞬間、相手の打球が持っていたスピードと回転が、私のスイングによって数倍に増幅され、爆発的な勢いとなって相手コートのライン際へ突き刺さった。
「なっ……速いッ!?」
相手は反応することすらできず、ただボールを見送る。
「ポイント、星和学院、15-0!」
ベンチのひかりちゃんが「わぁっ!」と声を上げ、春花部長も「これが、みゆの波紋……!」と目を見張る。
相手の打球が強ければ強いほど、私の『波紋』はそのエネルギーを吸収し、より破壊的なショットへと変換して送り出す。
私の圧倒的なカウンターを警戒した相手は、すぐに戦術を切り替えてきた。力勝負を避け、タイミングを外すような、回転の少ない緩いロブ気味のショットを放ってきたのだ。
(威力を殺して、私に『波紋』を使わせないつもり……?)
生ぬるい戦術は、私には通用しない。
チャンスボールと化したその緩い球に対し、私は素早く落下点へと潜り込んだ。
ラケットを天高く掲げ、全身のバネをしならせる。
「はあああぁッ!」
空中で炸裂したスマッシュは、私の全体重と強烈なスピンが乗り、大砲のような音を立てて相手のコートに突き刺さった。その威力に、相手は一歩も動けず、ただ呆然と立ち尽くす。
「ゲーム、星和学院、1-0!」
力で来るなら『波紋』でその力を何倍にもして返し、緩い球で逃げるなら全体重を乗せた一撃で粉砕する。相手からすれば、攻めることも守ることもできない地獄のようなラリーだった。
ゲームが進むにつれ、相手の焦りは極限に達していた。
どうにかラリーの主導権を握ろうと、相手は必死にコースを打ち分けてくる。だが、私には彼女の肩の入り方、目線、足の踏み込みから、次の打球コースが完全に視えていた。
相手がバックハンドを構えた瞬間には、私はすでにそのクロスコースへと走り出している。
回り込んで完璧な体勢からのリターン。先読みされたボールに対し、相手は必死に食らいつき、苦し紛れにネット際へ詰めてボレーでのカウンターを狙ってきた。
「前に出させない!」
相手がネットに詰める動きを見せたコンマ数秒、私は手首の角度をキュッと上へ向け、ラケット面を滑らせた。
放たれたボールは、ネット際へ突っ込んできた相手の頭上を嘲笑うように、美しい孤を描いて超える。完璧な深さのトップスピンロブ。
「嘘……っ!?」
相手は慌てて足を止め、振り返ってボールを追うが、ベースラインぎりぎりにストンと落ちたロブに追いつけるはずもなかった。
「ゲーム、星和学院、4-0!」
緩急、先読み、牽制、そして増幅する『波紋』。
コートの上で、私はまるで相手の動きをすべて手のひらの上でコントロールしているかのように、完璧にゲームを支配していた。
「ゲームアンドマッチ! 星和学院、6-0!」
審判のコールが会場に響き渡ると同時に、観客席から大きな拍手が湧き起こった。
私はラケットを下げ、大きく息を吐き出す。ネット際へ歩み寄り、呆然と立ち尽くす相手のS1選手としっかりと握手を交わした。
「ありがとうございました」
相手は小さく、しかし清々しそうに首を振って「強すぎだよ……」と呟いた。
これで女子は星和学院の4勝1敗。春花部長のシングルス3での惜敗はあったものの、チームとしては決勝進出を決めた。
「みゆ、最高だったよ!」
「あのスマッシュ、鳥肌が立ちました……!」
コートから戻ると、莉奈とひかりちゃんが真っ先に駆け寄ってきてくれた。
「お手本のような波紋だったわ。みゆ、本当にありがとう」
春花部長も、氷嚢で冷やした右腕をそっと胸に当てながら、優しい眼差しで私を迎えてくれた。私は笑顔で頷きながら、ふと、観客席の蓮さんの姿を探した。
その蓮さんは、観客席の最前列でスマートフォンを手に、どこか険しい表情を見つめていた。画面に目を落としたまま、静かにこちらへと降りてくる。
「蓮さん、お疲れ様です! どうでしたか、私のテニス……」
駆け寄って声をかけると、蓮さんはふっと表情を和らげ、私の頭をポンと叩いた。
「ああ、完璧だった。非の打ち所がないストレート勝ちだ。俺も油断してたらやられるな、今のうちに攻略法を見つけておかないと……そう思わせるくらい、お前の『波紋』は完成されていた」
「えへへ、ありがとうございます!」
蓮さんほどの選手にそこまで絶賛されて、思わず顔が綻ぶ。しかし、蓮さんの表情はすぐに、いつになく真剣なものへと戻った。
「……だが、みゆ。喜んでいるところを申し訳ないが、残念な知らせがある。湊から連絡があった」
蓮さんは、手元にあるスマートフォンを私に見せた。画面には、男子の試合を観戦に行っている湊兄さんからのメールが表示されている。
『蓮、中等部男子の敗北が確定した。D2、D1、S2を落とし、ここまで1勝3敗だ。鳳凰院はやっぱり一枚上手だったよ。』
「え……」
私の胸に、冷たい衝撃が走る。
男子が、敗退……? 陽太たちのチームが、決勝を前に負けてしまったなんて。
「4試合目まで消化して、1勝3敗。男子の全国制覇の夢は、ここで潰えた」
蓮さんは静かな声で詳細を告げた。
「だが、まだ最後の1試合が残っている。S1……河村陽太と天音つかさの試合だ」
陽太。幼馴染で彼氏、ずっと一緒に競い合ってきたあいつが、今、敗北が決まったチームのコートに立とうとしている。その胸中を思うと、締め付けられるように胸が痛んだ。
「今からでも、男子の会場へ向かえば陽太の試合には間に合う」
蓮さんはスマートフォンをポケットに仕舞い、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「みゆ、どうする? 決勝に向けてここで身体を休めることもできるが……」
悩む必要なんて、最初からなかった。
「……行きます」
私は即座に答えていた。
「陽太の試合、見に行かせてください。あいつがどんな気持ちで戦っているのか、ちゃんとこの目で見ておきたいんです。それに、あいつの背中を、今度は私が押しにいかなきゃ」
私の迷いのない言葉に、蓮さんは「そう言うと思った」と、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「よし、行こう。部長、悪いが俺たちは先に向かわせてもらう。あとの片付けと撤収は任せていいかい?」
「はい、もちろん! みゆ、河村くんを応援してあげてね」
春花部長が優しく背中を押してくれた。奈緒や莉奈、そして1年生の後輩たちも「ここは任せて!」と頼もしく笑ってくれる。
「ありがとうございます! 行ってきます!」
私は急いで荷物をまとめると、蓮さんとともに、陽太の待つ男子の試合会場へと走り出した。




