準決勝初戦、冷ややかな視線
男子の試合会場へ向かう湊兄さんの背中、そして坂上先生に率いられた男子チームの引き締まった表情を見送ったあと、私たちは女子のコートへと移動した。
今、有明の反対側のコートでは、陽太たちが去年の王者・鳳凰院中学と命懸けの死闘を繰り広げているはずだ。だけど、私にはそっちの様子を気にかける余裕は一瞬たりともなかった。
「女子準決勝、星和学院対九州志士学園、D2(ダブルスツー)の選手はコートへ入ってください!」
審判の鋭いアナウンスが響き、コートサイドに独特の緊張感が張り詰める。
私たちの本日のオーダーは、安定菅野ある布陣だった。
D2:佐々木ひかり / 小野寺結衣
D1:小林 芽衣 / 伊藤 綾
S3:佐藤 春花
S2:松本 美咲
S1:水瀬 みゆ
D2に起用されたのは、1年生コンビのひかりちゃんと結衣ちゃん。
昨日のベスト8進出をかけた試合で、二人は全力を尽くしたものの、一歩及ばずに敗北を喫してしまっていた。敗戦の悔しさを胸に抱きながら、それでも前を向いてこの準決勝のコートに立つ。
「ひかり、結衣。緊張してる?」
ベンチコートを脱ぎながら、莉奈が二人の肩に優しく手を置く。
「……はい。昨日は負けちゃって、本当に悔しかったから……今日は絶対に勝ちたいです!」
「うん。昨日の反省は二人で夜遅くまで話し合いました。今日は最後まで泥臭く食らいついてみせます!」
「二人とも、良い顔ね」
監督代理としてベンチに座る奈緒が、手元のノートから目を上げて、静かに、だけど確信に満ちた声で告げた。
「九州志士学園のD2は、力強いフラットショットを軸に速攻を仕掛けてくるパワータイプのペア。でも、大味な部分も多いわ。焦る必要は一切ない。結衣が拾い、ひかりが相手の隙を見極める。昨日の悔しさを、そのままコートにぶつけてきなさい」
「はい!」
奈緒の的確な指示を受け、二人は力強く返事をしてコートへと歩き出した。
ネットを挟んで待ち構えていた九州志士学園のペア――宮路と長谷部の二人は、コートに入ってきたひかりちゃんと結衣ちゃんを、冷ややかな視線で見下ろしていた。
トスのためにネット際へ集まった際、宮路がラケットを軽く弄びながら、フンと鼻で笑った。
「なぁ長谷部、こいつらだよな。昨日、普通に負けてた1年坊主って」
「ああ、そうだな。あんなレベルでよく準決勝のオーダーに残れたもんだよ。星和も選手層が薄いのかね」
長谷部も同調するように口元を歪め、ひかりちゃんと結衣ちゃんを値踏みするように睨みつける。彼女たちは昨日、私たちの試合をしっかりと偵察していたのだ。そして、自分たちの圧倒的なパワーとフラットショットに比べ、実力不足で敗れた1年生コンビを「格下」だと完全に侮っていた。
「……なっ」
結衣ちゃんの眉がピクリと跳ね上がる。ひかりちゃんも思わず唇を噛み締めた。
「まあ、今日は格の違いってやつを教えてあげるから。3ゲームくらいで終わらせてあげるから、早くお家に帰りな」
宮路がそう吐き捨て、ラケットを肩に担いでコートの奥へと下がっていく。
失礼な選手だなと感じはするが怒る必要はない。相手が油断して、1年生たちの本当の才能を侮ってくれているなら、それはむしろチャンスなのだ。ひかりちゃんの動体視力、そして結衣ちゃんの反射神経と粘り強さ。二人の真のポテンシャルを、あいつらはまだ何も知らない。
「……絶対、見返してやろう、結衣」
「うん。私たちのテニス、舐めないでよね」
昨日の敗北を糧に、星和の未来を担う1年生コンビが、静かに牙を剥く。
有明の太陽が照りつけるコートで、運命のD2、試合開始のホイッスルが響き渡った。
「サービス、九州志士学園!」
試合開始直後、宮路が放ったファーストサーブは、凄まじい風切り音を立ててセンターライン際へと突き刺さった。
「らぁッ!」
バチィィン! と重く乾いた打球音が響く。凄まじいスピードのフラットショットだ。
「くぅ……ッ!」
レシーブに回った結衣が抜群の反射神経でラケットを合わせたものの、球威に押されてボールは力なくネットに阻まれた。
「ポイント、九州志士学園、15-0!」
「ハハッ、やっぱり大したことないじゃん!」
コートの向こうで宮路が勝ち誇ったように笑う。
その後も、長谷部の鋭いボレーと宮路の暴力的なまでの強打が星和のコートを襲った。九州志士学園の猛攻の前に、第1ゲームの序盤は面白いようにポイントを連取されていく。
ベンチに座る奈緒は、慌てることなく静かにノートにペンを走らせていた。
「……大丈夫。相手のフラットは確かに速いけれど、軌道が直線的で単調よ。ひかり、結衣。焦らず、まずは球筋を網膜に焼き付けなさい」
その言葉通り、1年生ペアの表情に焦りはなかった。
ゲームカウントこそ0-1となったものの、第2ゲームに入ると、二人の動きに劇的な変化が現れ始める。
「――見えたっ!」
ひかりちゃんのが、宮路の強烈なフラットサーブの軌道を完全に捉えた。インパクトの瞬間、ボールの縫い目すら見極めるかのような集中力で、ひかりちゃんは鋭く踏み込んでラケットを振り抜く。
「なっ……!?」
宮路の目が見開かれる。完璧なリターンが、長谷部のボレーをすり抜けてベースライン際へと突き刺さった。
「ポイント、星和学院、15-30!」
ここから、星和の1年生コンビの真骨頂が始まった。
一度相手のスピードに目が慣れてしまえば、結衣ちゃんの存在が百倍の価値を持ち始める。宮路がどれほど角度のあるスマッシュを叩き込もうと、結衣はしなやかに身体を滑らせ、泥臭く、しかし確実にコートの奥深くへとボールを返し続けた。
「なんで……なんで追いつくのよ!」
長谷部が苛立ちを露わにし、力任せにボレーを叩き込むが、それも結衣ちゃんの驚異的な反応でブロックされ、逆に九州志士学園の足元へと沈んでいく。
焦った宮路が放った強引なストレートショット。そこへ動いたのは、前衛のひかりだった。
(今なら……いける。毎日、みゆ先輩の後ろ姿を見て、練習してきたんだから……!)
ひかりはラケットを構え、身体の軸を鋭く意識する。
『波紋』。ラケットにボールが吸い付く瞬間に身体の捻りを伝え、球の回転を無効化、あるいは自らのエネルギーへと変換する技術。
ひかりちゃんが、ボールの回転軸を瞬時に解析。インパクトの瞬間、彼女のラケット面がしなやかに波打つようにボールを捉えた。
シュン……ッ!
打球音が、突如として消えた。
ひかりちゃんのラケットから放たれたボールは、回転を完全に殺された『無回転』状態でネットを越え、相手コート手前に落ちる、慌ててボールを拾いに駆け寄るが、間に合わない。
「え……っ!?」
宮路がラケットを出そうとしたが、ボールはすでに死んだように転がっている。
「ポ……ポイント、星和学院!」
審判すら一瞬コールが遅れるほどの、完璧な『波紋』の実践成功。
「やった……できた……っ!」
ひかりちゃんが嬉しそうに自らの手のひらを見つめ、結衣ちゃんが「ひかりちゃん、すごい!」と駆け寄ってハイタッチを交わす。
ベンチにいた私も、思わず立ち上がって拍手を送っていた。公式戦という極限の緊張感の中で、見事に波紋を成功させてみせたのだ。
「ふふっ……大したものね」
奈緒も小さく口元を緩め、観客席の蓮さんも、腕を組んだまま満足そうに一度頷いていた。
ここからの試合展開は、まさにワンサイドゲームだった。
武器であるパワーとスピードを封じられ、さらに『波紋』という未知の技術を目の当たりにした九州志士学園ペアは、完全に戦意を喪失していった。焦りからミスを連発し、自滅の道を辿っていく。
第2ゲームを取り返した星和コンビは、そこから全く隙を見せなかった。
1ゲームも落とすことなく、流れるようなコンビネーションでポイントを積み重ねていく。
「ゲームアンドマッチ! 星和学院、6-1!」
有明のコートに、1年生コンビの勝利を称える拍手が大きく響き渡った。
「ナイスゲーム、ひかり、結衣!」
「本当に凄かったよ、二人とも!」
コートから戻ってきた1年生コンビを、莉奈と私は全力の笑顔で迎え入れた。冷や汗を流しながらも、ひかりちゃんと結衣ちゃんの顔は達成感に満ちあふれている。
ベンチの奈緒も、頼もしい笑みを浮かべて二人にタオルを渡した。
「完璧な試合運びだったわ。ひかりの『波紋』の実践、そして結衣の徹底した粘り勝ち。これで星和が大きな1勝を先取したわよ」
相手の宮路と長谷部は、信じられないものを見るような目で呆然とベンチへ引き揚げていく。格下と侮っていた後輩たちが、完璧な実力で彼女たちをねじ伏せたのだ。
「さあ、この勢いのまま一気に王手をかけるわよ。D1(ダブルスワン)、芽衣先輩、綾先輩、お願いします」
奈緒の視線の先で、3年生ペアの芽衣先輩と綾先輩が静かに立ち上がった。
二人は無言のまま、お互いの手のひらを強く叩き合わせる。昨日1年生が負けたとき、誰よりも悔しがり、そして静かに闘志を燃やしていたのが、この3年生ペアだった。
「女子D1、選手はコートに入ってください!」
アナウンスと同時に、芽衣先輩と綾先輩がコートへ足を踏み入れる。
対する九州志士学園のD1は、大柄な体躯から重戦車のようなストロークを放つ3年生のベテランペア。しかし、星和の誇る最強のダブルスペアの前に、その体躯すらもはや何の脅威にもならなかった。
「いくよ、綾!」
「オッケー、芽衣!」
試合が始まった瞬間、コート上は星和の3年生ペアによる完全な独壇場と化した。
相手の重いフラットストロークが放たれても、前衛の芽衣先輩が完璧なポジション取りで先回りし、電光石火のポーチボレーでことごとくシャットアウトしていく。
もしその壁をすり抜けても、後衛の綾先輩が正確無比なロブと鋭いパッシングショットで、相手の陣形を容赦なく引き裂いた。
「な、なんなのよ、この人たち……! 隙が全然ない……っ!」
九州志士学園のペアが悲鳴のような声を上げる。
1年生に負けていられないと言わんばかりに、二人のプレーはどこまでも冷徹で、かつ圧倒的だった。相手に呼吸をする隙すら与えず、完璧なコンビネーションでポイントを毟り取っていく。
「ポイント、星和学院、40-0!」
「ゲーム、星和学院、3-0!」
コートサイドのベンチから見守る私たちの目にも、今日の3年生ペアは神がかっているように見えた。
「さすがは3年生ね。ダブルスとしての完成度が、昨日とは格段に違うわ」
奈緒が満足そうに頷く。
観客席を見上げると、蓮さんも腕を組んだまま、星和の盤石な試合運びに静かに信頼の視線を送っていた。
一歩も引かない、徹底した攻めの姿勢。
結局、相手に一度のブレイクポイントすら握らせることなく、芽衣先輩と綾先輩は瞬く間に試合を支配しきった。
「ゲームアンドマッチ! 星和学院、6-0!」
一ゲームも与えない、まさに完璧なシャットアウト。
これで星和学院は、2勝0敗と決勝進出へ王手をかけた。
最高の形でバトンが繋がり、ベンチに戻ってきた先輩たちとハイタッチを交わす。
残るはシングルス3試合。あと1勝すれば、あの西園寺女学院、そして白河さんの待つ決勝の舞台へと手が届く。
「よし、次は私の番だね」
S3(シングルススリー)の佐藤春花部長が、ラケットを手に静かに立ち上がった。その背中を見送りながら、私はもう一度、遠く離れた男子のコートがある方向を見つめる。
陽太たちも今頃、鳳凰院を相手に死闘を繰り広げているはずだ。
(陽太、兄さん。私たちも、絶対に勝って繋ぐから……!)
有明の熱い風が吹く中、星和学院の進撃はさらに加速していく。




