受け継がれし牙、未知なる波紋
「女子S1(シングルスワン)、選手はコートに入ってください」
アナウンスに背中を押され、私はゆっくりとコートへ足を踏み入れた。莉奈がタイブレークの死闘を制してくれたおかげで、星和の準決勝進出はすでに決まっている。けれど、目の前のネットを挟んで立つ千堂茜さんの瞳には、消化試合の緩さなんて微塵もなかった。プロを目指す者特有の、鋭く乾いた、飢えた野獣のような眼光が私を真っ直ぐに射抜いてくる。
ネットを挟んでトスを行う際、千堂さんが不敵に口元を歪めて私に視線を投げかけてきた。
「おい、星和の水瀬。あそこの観客席を見てみな」
「え……?」
言われるがままに視線を向けると、少し離れた関係者席の最前列に、独特の圧倒的なオーラを放つ女性が座っていた。
「鳳仙……さん……っ!」
去年の西園寺女学院を絶対的エースとして率い、現在は女子プロテニス界の若き怪物としてシニアを震撼させている鳳仙雅さん。合宿で私たちを地獄の果てまでしごき上げてくれた恩人が、そこにいた。私の視線に気づいた鳳仙さんは、腕を組んだまま、フッと不敵な笑みを浮かべて小さく顎を引いた。
「今日は雅の奴もわざわざ見に来てんだよ。身内の私が、そんじょそこらの有象無象に負ける姿は見せられねえんでね」
千堂さんがラケットで自身の肩をポンと叩きながら、冷ややかに言い放つ。
私は鳳仙さんへ向けた会釈を終え、真っ直ぐに千堂さんを見据え返した。胸の奥で、熱い塊が爆発しそうに暴れているのが分かる。
「……ただの消化試合というわけには、本当にいかなくなりましたね。望むところです、全力で行きます!」
私の言葉に、千堂さんの目が獰猛に細められた。
試合開始直後、私は最初からギアを最大まで引き上げた。あの鳳仙さんの前で、無様な試合など絶対にできない。
「ふっ……!」
呼吸を整え、身体の芯から『波紋』を全開にする。ラケットに触れた瞬間にボールの回転を完全に無効化し、コートの極限の隅へと、寸分の狂いもない超高速のストロークを叩き込んでいく。
「ゲーム、星和学院、1-0!」
「ゲーム、星和学院、3-0!」
プロレベルを想定した千堂さんの重いストロークさえも、私の波紋は綺麗に吸い込み、威力を倍増させて弾き返した。会場からはどよめきが起こる。チームの勝利が決まっているにもかかわらず、コート上で繰り広げられているのは、明らかに中学生の次元を超えた超高精度のラリーだった。
しかし、やはり鳳仙雅の遺伝子。千堂さんはただ圧倒されているだけではなかった。
「ゲーム、4-2。チェンジコート!」
後半に入った瞬間、千堂さんのテニスがガラリと変わった。
「はああァッ!」
放たれた打球の軌道を見て、私は思わず目を見張った。驚異的なまでの超ヘビースピン。いや、それだけじゃない。ボールの回転軸が、打球ごとに不規則に変化している。
(私の波紋が『回転を利用して無効化する』技術であることを見抜いて、わざと計算を狂わせにきてるんだ……!)
変則的なキックサーブや極端なスライスを織り交ぜた千堂さんの猛攻を前に、私の波紋の面が僅かにブレ始めた。
ガツッ……!
「あ……っ!」
計算を狂わされ、私の波紋の面が僅かにブレる。その一瞬の隙を見逃さず、千堂さんのプロ仕込みの重戦車のようなフォアハンドが、私のオープンコートを容赦なく打ち抜いていった。
「ゲーム、華蓮女子、4-3!」
会場全体の空気が一気に張り詰める。千堂さんの猛追は止まらない。打球ごとに回転の軸を変えるだけでなく、私の一歩目の逆を突くような鋭い配球。四国ブロックを無敗で勝ち上がってきたエースの本領が、ここに来て完全に覚醒していた。
「はああぁッ!」
バチィィン! と重い金属音が響き、私の足元でボールが不規則に跳ね上がる。必死にラケットを合わせるけれど、回転を制御しきれずに打球が浮いてしまう。それを千堂さんが目の前で容赦なくスマッシュした。
「ゲーム、華蓮女子、4-4!」
一気に追いつかれた。
相手は私の防御的な波紋の性質を完全に解析し、力ずくでその歯車を狂わせにきている。流石はプロを目指す選手、その適応力と執念は凄まじい。
(私の波紋が、相手の回転を『待つ』だけのものだと思われているなら……)
チェンジコートの短い時間、私は深く息を吸い込み、ラケットのグリップを限界まで握り直した。
これまでの波紋は、相手の打球のエネルギーを受け流し、利用する受動的な技術。だけど、今ここでやるべきなのは、その先にある領域。自ら回転を作り出し、相手の予測を上回る未知の波動を伝えること。
公式戦ではまだ一度も試したことのない、能動的な波紋。
「……いきます!」
コートに戻り、私のサービスゲーム。千堂さんは一段と前傾姿勢を強め、どんな変則球にも対応できるよう身構えている。
私はボールを高くトスし、身体の軸を鋭く捻り込んだ。ラケット面がボールに触れたその刹那、私自身の身体の捻りとインパクトのエネルギーを、ラケットを通じてボールへと一気に『能動的』に注入する。
バチィィィン!!
有明のセンターコートに、これまで聞いたこともないような破裂音が響き渡った。
放たれた打球は、千堂さんの目の前で急激に沈み、そこからあり得ない角度で真横へと爆発的にバウンドした。
「なっ……何ソレ……っ!?」
千堂さんが驚愕の声を上げ、一歩も動けずに打球を見送る。
観客席の鳳仙雅さんが、初めて深く組んでいた腕を解き、身を乗り出すのが見えた。
自発的な超回転を宿した、未知なる波紋のストローク。対策をさらに上回るその一撃で、コートの主導権は再び、私の手へと完全に引き戻された。
「ポイント、星和学院、40-0!」
能動的な波紋がもたらす、予測不可能な爆発的バウンド。その超軌道ストロークの前に、さしもの千堂さんも完全にタイミングを狂わされ、ラケットのフレームに当てるのが精一杯という状態になっていた。自ら仕掛け、支配する。これが私の、新しいテニス。
「ゲーム、星和学院、5-4!」
一気に突き放し、ついに王手をかける。チェンジコートの際、すれ違いざまに見つめ合った千堂さんの目は、まだ死んでいなかった。悔しさに歯噛みしながらも、その瞳の奥にはプロを志す者としてのプライドと、凄まじい闘志がギラギラと燃え盛っている。
「……引き出しの多い奴め。だけど、これだけで終わると思うなよ!」
千堂さんのラストサービスゲーム。彼女は最後にして最大のサーブを放ってきた。身体がちぎれんばかりのフルスイングから放たれた打球は、本日最速の弾道で私のバックサイドへ突き刺さる。
(――合わせて、捻り込む!)
私は恐れることなく一歩前へ踏み込み、限界まで身体をしならせた。相手の凄まじいパワーを、能動的な波紋の渦へと巻き込んでいく。インパクトの瞬間、ラケット面でボールを強烈に削るように押し出した。
バチィィィン!!
放たれた打球は、ネット際で不自然に失速したかと思うと、千堂さんの足元で急激にベースライン際へと伸びて跳ね上がった。
「くっ……あぁぁッ!」
千堂さんは決死の体勢で飛びつき、執念でそれを面に乗せて返してきた。死に物狂いで返ってきたロブが、私の頭上を越えようとする。
だけど、その軌道はすでに私の予測の範疇だった。
私は素早く後退し、高く跳躍する。見上げる空、有明のセンターコートの白い屋根が視界に広がる。その中で、一瞬だけ関係者席の鳳仙さんと目が合ったような気がした。
(鳳仙さん、見ていてください。私たちは、あの約束の場所へ行きます!)
渾身の力でラケットを振り抜いた。
バコォォォン!!
鋭い角度で叩きつけられたスマッシュが、千堂さんの横をすり抜け、誰も追いつけないスピードでコートに突き刺さった。
「ゲームアンドマッチ、星和学院! 6-4! よって、4勝1敗で星和学院中等部の準決勝進出が決まりました!」
主審の宣告と同時に、会場の地鳴りのような大歓声が私の身体を包み込んだ。
「やったぁぁぁ! みゆ、ナイスゲーム!」
ベンチから莉奈や1年生たちが一斉にコートへ駆け寄ってきて、自分のことのように喜んでくれる。
汗を拭いながらネット際へと歩み寄ると、千堂さんは肩で激しく息をしながらも、差し出してきた右手にぐっと力を込めてきた。
「……負けたわ。完全に見誤ってた。水瀬みゆ、あんたはとんでもない化け物よ」
「ありがとうございました。千堂さんの重いストロークがなければ、私もあの球は打てませんでした」
「フン、お世辞はいらないわ。雅がわざわざ見に来る理由がよく分かった。……決勝、絶対に行きなさいよ。女王の首を獲るんでしょ?」
「はい。約束ですから」
千堂さんはニヤリと不敵に笑うと、そのまま自陣のベンチへと戻っていった。
私はラケットを片手に、もう一度関係者席を見上げた。鳳仙さんは腕を組んだまま、満足そうにフッと微笑むと、静かに立ち上がって通路の奥へと消えていった。その背中を見送りながら、私は自分の手のひらを見つめる。
繋がれた莉奈のバトン、そしてコートで掴み取った能動的な波紋の手応え。
女王西園寺女学院中等部・白河こころの待つ頂点へ向けて、私たちの進撃はもう、誰にも止められない。




