折れない刃、繋ぐ一歩
「女子S2(シングルスツー)、選手はコートに入ってください!」
春花部長が掴み取ってくれた大きな2勝目。その最高の流れを背負ってコートへ向かう莉奈の背中は、いつになく頼もしかった。
だけど、対戦相手のベンチから立ち上がった姿を見て、私の胸に小さな緊張が走る。華蓮女子の部長――柄澤 紗希さん。チームの窮地を救うべく、その鋭い瞳には並々ならぬ執念と闘志が宿っていた。
「みゆ、見ててね。私がきっちり決めてくるから!」
莉奈は私に向かってニカッと親指を立てると、軽快なステップでコートへと駆けていった。その笑顔につられて、私の緊張もすっと解けていく。
試合前半、主導権を握ったのは完全に莉奈だった。
「ゲーム、星和学院、1-0!」
「ゲーム、星和学院、3-1!」
ベンチから見守る私の目にも、今の莉奈の動きがどれだけ冴えているかがよく分かった。
莉奈の武器である、しなやかなフットワーク。そこから繰り出される伸びのあるストロークが、面白いように相手コートの隅を射抜いていく。1年生コンビのあの粘り、実力派の柄澤さんを相手に、終始ラリーを支配する圧巻の立ち上がりだった。
これなら一気にいけるかもしれない。そんな期待がベンチに漂い始めた時だった。
「ゲーム、4-2。チェンジコート!」
審判のコールがかかり、莉奈が息を切らせてベンチへ戻ってくる。ドリンクを持ってきた奈緒が、タオルの上から莉奈の肩を叩き、真剣な顔で告げた。
「莉奈、気を引き締めて。前半の柄澤さん、ずっとあんたの球を様子見してた。わざとテンポを合わせて、軌道を測ってたんだと思う。ここからの後半、絶対に仕掛けてくるから。十分に警戒して!」
「え……様子見……?」
莉奈がハッと目を見張る。その言葉に、私も背筋が寒くなるのを感じた。相手は四国を制したチームの部長。このままストレートで引き下がるはずがない。
「……分かった。奈緒、ありがと。油断せずに行く!」
莉奈はラケットを握り直し、もう一度コートへと視線を向けた。
そして奈緒の不吉な予感は、コートに戻った直後、最悪の形で的中することになる。
「そこよ……!」
コートから響く、柄澤さんの鋭い掛け声。彼女の放つ打球が、突如としてそれまでとは違う異質な重みを増した。前半のストレート攻勢から一転し、莉奈の足元へこれでもかとエグいスピンショットを沈めてくる。さらに、莉奈が体勢を崩した一瞬を見逃さず、執拗にバックハンド側へボールを集め始めたのだ。
「くっ……!」
警戒していたはずの莉奈の顔から、みるみるうちに余裕が消えていく。前半のように気持ちよくラケットを振らせてもらえない。気がつけばミスを誘われ、ゲームカウントは瞬く間にひっくり返されていった。
「ゲーム、華蓮女子、5-4!」
一打ごとに会場の応援席から地鳴りのような歓声が上がる。完全に華蓮女子の逆転ムード。
このゲームを落とせば、あとがなくなる。ベンチへ戻ってきた莉奈の肩は激しく上下し、その瞳には強烈なプレッシャーが襲いかかっていた。
「……強い。完全に、私のコースを読まれてる……」
ベンチに深く腰掛け、ガタガタと震える手でスポーツドリンクを口に運ぶ莉奈。その瞳は完全に相手の術中に嵌まり、プレッシャーに押し潰されそうになっていた。
私はすかさず莉奈の前にしゃがみ込み、その冷たくなった手を上からぎゅっと包み込んだ。
「莉奈、私の目を見て」
ハッとしたように莉奈が顔を上げる。
「弱気にならないで。今の柄澤さんの配球は、確かにすごい。でもね、私たちのあの地獄の合宿を思い出して。あの西園寺のレギュラー陣たち、もっとえげつないコースに、もっと重い球を何度も打ち込んできたでしょ?」
私の言葉に、莉奈の瞳の奥が小さく揺れた。
あの年始合同合宿――鳳仙さんを始めとする日本最強のチームに何度も何度も叩きのめされ、それでも泥にまみれながら、這いつくばって食らいついた。あの圧倒的な絶望を乗り越えたからこそ、今の星和がある。
「柄澤さんのテニスはすごいけど、西園寺のレギュラー陣と比べると見極められないレベルじゃない、今の莉奈はテンポを崩されて弱気になってるだけで、本来であれば圧倒できる実力はあるんだよ。気持ちを切り替えて相手の動きをよく見て、莉奈の本気、見せつけてきて!」
私の言葉を頭の中で反芻するように、莉奈は深く、長く息を吐き出した。そして、今度はいつもの力強い手で私の手を握り返してきた。
「……そうだよね。あの地獄に比べたら、このプレッシャーなんて何てことない。みゆ、ありがと。私、まだ全然諦めてないよ!」
コートへ戻っていく莉奈の背中から、悲壮感が完全に消え去っていた。
柄澤さんの放つヘビーなスピンショットが再び莉奈のバックハンドを襲う。しかし、莉奈はもう逃げなかった。体勢を崩されながらも、合宿で培った驚異的なボディバランスで踏みとどまり、泥臭くライジングで球を捉えてコートの奥深くへと押し戻していく。
一歩も引かない意地と意地のぶつかり合い。試合はついに、お互いのプライドを懸けたタイブレークへと突入した。
ポイントは一進一退。息が詰まるような緊迫したラリーが続く中、極限状態の集中力を発揮したのは莉奈だった。柄澤さんの猛攻を何度も驚異的なフットワークで拾いまくり、ついに歓喜の瞬間が訪れる。
「ポイント、星和、6-5!」
莉奈のマッチポイント。柄澤さんの渾身のサーブがセンターへ決まるが、莉奈は執念でこれをリターン。深く返った打球に対し、柄澤さんが勝負を急いで放ったフォアハンドが、僅かにサイドラインを割った。
「アウト! ゲームアンドマッチ、星和学院! 7-6(タイブレーク7-5)!」
「やったぁぁぁ!」
莉奈がラケットを放り出し、両腕を天に突き上げてコート上で跳びはねた。
「よっしゃあ! 女子も準決勝進出だ!」
ベンチから全員が飛び出し、戻ってきた莉奈を揉みくちゃにする。男子に続き、女子もこれで3勝を挙げ、ベスト4への切符を完全に手中に収めたのだ。
興奮に沸き返る星和ベンチ。最高の形で勝利のバトンが繋がれ、そして全試合消化のルールの中、最後に残されたシングルス1のコートが、静かに私を待っていた。
「みゆ、バトン……しっかり繋いだよ。あとは、任せた……!」
汗だくで、顔をクシャクシャにした莉奈が、最高の笑顔で私の手を強く握りしめる。
「うん。最高の試合をありがとう、莉奈」
私はラケットを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
視線の先には、すでにコートで静かにラケットを構えている千堂茜の姿がある。プロを見据える鳳仙雅の遺伝子――その本物の牙を相手に、次は私が星和のテニスを証明する番だ。




