二日目の朝、託された陣形
大会二日目の朝。私たちが宿泊している旅館のロビーは、早朝から独特の熱気と緊張感に包まれていた。
窓から差し込む朝日は眩しく、有明の厳しい暑さを予感させる。ベスト8まで絞られた強豪校の面々が、それぞれ静かに闘志を燃やしながら、ロビーのあちこちで出発の準備を進めていた。
「よし、全員揃っているな。昨日伝えた通り、今日からは一戦一戦が実質的な決勝戦だと思って挑んでほしい」
出発前、ロビーの片隅で坂上先生による軽いミーティングが行われた。全員がユニフォームの上に星和のジャージを羽織り、真剣な表情で先生の言葉に耳を傾ける。
「男子は朝一番からAブロックの3回戦が始まる。女子はBブロックだから少し時間に余裕があるが、チームとしての流れを作るためにも、全員で男子の初戦を全力でサポートするぞ。いいな!」
「はいっ!!」
短いながらも引き締まったミーティングを終え、私たちは旅館を後にした。
朝の澄んだ空気の中、有明テニスの森へと向かう。会場に到着すると、昨日にも増して観客の数が増えており、各コートからはすでにウォーミングアップの激しい打球音が響き渡っていた。
「……あ。ねえ、陽太。あそこにいるのって……」
敷地内の案内板の前を通り過ぎようとしたその時、私は見覚えのある後ろ姿を見つけて、思わず陽太の袖を引いた。
部活のジャージを少し着崩し、鋭い視線でドロー表を見つめている長身の背中。そして、その隣で相変わらず涼しい顔をし、どこか浮世離れした上品な佇まいの先輩。
「あっ……湊さんと蓮さん。なんでここにいるんだよ」
陽太が驚き半分、気まずさ半分といった声を漏らす。
そこに立っていたのは、他ならぬ私の兄・水瀬湊と、従兄の北条蓮だった。昨日、九州志士学院の神代さんから「来年は死に物狂いで勝ち上がって来い」という凄まじい伝言を預かっていたこともあり、陽太は咄嗟に顔をしかめて頭をかく。
「兄さん! 蓮さん!」
私が声をかけると、二人は同時にこちらを振り返った。湊兄さんはいつも通りの様子で、私たちの元へ歩み寄ってきた。
「よお。お前ら、体調は万全だろうな」
湊兄さんは私たちの前に仁王立ちすると、鋭い視線で私と陽太の顔を順に見据えた。
その隣で蓮さんもフッと綺麗な笑みを浮かべる。
「本当にわざわざ星和から応援に来てくれたんですね。驚きました」
私が背筋を伸ばして言うと、蓮さんは肩をすくめた。
「応援っていうか、まぁ、生存確認と観察かな。中等部がこの高いレベルの中でどこまでやれるのか、特等席で見せてもらうためにな、それと俺は母校の様子も確認したくてな」
「つーか、蓮さんはともかく、湊さんまで来るとは思わなかったっすよ。絶対めんどくさがると思ってたのに」
陽太がニヤニヤしながら言うと、湊兄さんは少しバツの悪そうな顔をして、陽太の頭を軽く小突いた。
「お前らが不甲斐ない試合して星和の名を汚さねえか、見張りに来てやったんだよ。……それより、陽太。昨日、龍之介に会っただろ。あいつ、何か言ってなかったか?」
その質問を待っていましたとばかりに、陽太の口元が意地悪く歪む。
「あー、言われましたよ。めちゃくちゃ吼えてました。『湊と蓮の野郎どもが、まさか全国に出てこねえなんてどういうことだ!』って。あのバカ二人に会ったら『来年は死に物狂いで勝ち上がって来い、有明でブチのめしてやる』って伝言を頼むぞ、って最高の笑顔で言われましたね」
「……あいつらしいな」
湊兄さんは一瞬呆れたように天を仰ぎ、それからクツクツと低く笑った。その瞳には、かつて世界を相手に共に戦った戦友への、確かな信頼と熱い情熱が宿っているのが見えた。当人たちの意志ではないとはいえ、U-17世界大会への招集によって高等部が地区予選で敗退してしまったことは、湊兄さんたちにとっても、そして神代さんにとっても、やはり大きな心の棘になっているのだ。
「まぁ、龍之介の言う通りだ。俺たちの抜けた穴を埋められなかった高等部が悪い。だからこそ……」
湊兄さんはフッと真剣な表情に戻り、陽太の胸を拳で軽く叩いた。
「中等部のお前たちが、ここにいる奴ら全員に星和の強さを見せつけてやってくれ。みゆ、お前も浮足立つなよ。相手はどこも一等星ばかりだ」
「うん、分かってるよ、兄さん! きっちり勝って、決勝まで行くから!」
私が力強く答えると、湊兄さんは満足そうに小さく頷いた。
「さて、お喋りはこれくらいにして、そろそろコートへ向かおうか。男子の試合が始まるぞ」
蓮さんが時計を見ながら促す。
今日の有明は、男子のAブロック3回戦(準々決勝)からスタートする。私たちの女子Bブロックは試合開始までにまだ時間があるため、私たちは湊兄さんたちを交えた全員で、男子の初戦を応援すべくコートへと向かった。
フェンス越しに見えるコートの向こう側には、すでに青いジャージに身を包んだ対戦相手、北信越代表の伝統校・敦賀第一中学のメンバーが整列を始めていた。緻密なデータテニスと堅実なコンビネーションが武器の技巧派集団だ。
「男子D2(ダブルスツー)、選手はコートに入ってください!」
アナウンスが響き、星和学院のベンチから勢いよく飛び出していったのは、これからの星和を背負って立つ期待の1年生コンビ――石川勇気と森下拓海だった。
全国という大舞台、しかもベスト4をかけた一戦。センターコートを包む独特の緊張感は昨日までとは比べものにならない。フェンス際で見守る陽太が、少しハラハラした様子で声を漏らす。
「緊張してんなぁ、あいつら。肩に力が入りすぎだろ」
その言葉通り、序盤は敦賀第一中学の緻密な並行陣と、前衛の頭上を鮮やかに抜いていくロブワークに翻弄され、1年生コンビは動きの硬さから連続でゲームを失ってしまう。
「ゲーム、敦賀第一、2-0!」
重苦しい空気が流れるベンチ。しかし、チェンジコートを挟んだ第3ゲーム、石川くんが、自らの太い太ももをパチンと叩いてコートに吠えた。
「拓海、焦るな! 後ろは俺が全部拾ってやる! お前は前だけ見て突っ込め!」
「……おう、任せた!」
相棒の力強い言葉に、前衛に立つ森下くんの目が鋭い輝きを取り戻す。
森下くんは、驚異的な「動体視力」の持ち主だった。それは、私が試合中に使う『波紋』の感覚をいつか引き継げるかもしれない、と目されるほどの天賦の才。
敦賀第一の後衛が、絶妙なスライスでこちらのコートの足元へ沈めようとボールを放つ。鋭い回転を伴い、バウンド後に不規則に変化する厄介な打球。しかし、森下くんの卓越した両眼は、ボールの縫い目の回転を完全に捉えていた。
(見えた……!)
森下くんはラケットの角度をミリ単位で微調整し、ボールの回転軸に対して完璧に面を合わせる。それは、波紋の初歩である「回転の無効化」。
ガツッ! と、無駄な摩擦のないクリアな打音。
敦賀第一の前衛が「なっ……!?」と息を呑む。激しいスライスをかけられたはずのボールは、まるで無回転のナックルボールのように死に球と化し、相手前衛のラケットを弾いてコートにぽとりと落ちた。
「……おい、蓮。今の、見たか?」
フェンス越しに試合を見ていた湊兄さんが、驚きに目を見張って隣の蓮さんに声をかけた。いつになく真剣な、驚愕の混じった声だった。
「あの一年生、不完全ではあるがみゆと同じ『波紋』を使ってるな、しかも全国の舞台で、スライスの回転を完全に殺しきりやがった」
「驚いたな。あの驚異的な動体視力があってこそだろうけど、この精度で使えるのなら今後が楽しみだな」
蓮さんも感心したようにコートの森下くんを凝視している。自分の教え子が湊兄さんたちに褒められているのが嬉しくて、私はベンチの横で少し胸が熱くなった。
「よしっ! ナイスボレー、拓海!」
「勇気、次もあいつらの陣形、前からぶっ壊すぞ!」
石川の放つ重戦車のような剛速球ストロークが後ろから敦賀第一の陣形を揺さぶり、浮いた球を森下が回転無効化のボレーで確実に仕留めていく。
世界を知る陽太や先輩たちの厳しい練習を信じ、有明のコートで1年生のエネルギーが爆発する。
一歩も引かない熱いラリーの応酬。星和の未来を担う二人の進撃が、男子準々決勝の口火を鮮烈に切ったのだった。




