有明の邂逅、それぞれの約束
全国大会の会場となる、有明テニスの森。
一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような熱気と、全国から集まった大勢の選手たちの熱気が私たちを包み込んだ。どこを見渡しても各地区のトップを極めたバッジやジャージばかりで、いよいよ本番なのだと身が引き締まる。
「うわぁ……やっぱり有明はスケールが違うね。どこを見ても強そうな人ばっかり」
周囲の雰囲気に圧倒されながら、レギュラーメンバーと共に並んで歩いていると、ふいに後ろから、鈴の音を転がしたような澄んだ声が降ってきた。
「――水瀬さん、久しぶり。元気にしてた?」
「え……?」
ハッとして振り返ると、そこには見紛うはずもない、気品あふれる佇まいの美少女が微笑んでいた。関西の絶対女王、西園寺女学院を率いる白河こころさんだ。そしてその隣には、相変わらずクールな佇まいでこちらをじっと見つめる黒江瑠璃さんの姿もあった。
「白河さん! 黒江さんも、ご無沙汰しています」
私が慌てて背筋を伸ばして挨拶すると、黒江さんは口元を優しく緩めて話しかけてくれた。
「うん、久しぶり。......水瀬は相変わらず真面目。あと、瑠璃でいい、私もみゆと呼ぶ」
「あ、私もこころでいいですよ」
「じゃあ、瑠璃ちゃん、こころさん。よろしくお願いします」
ずっと気になって仕方がなかったことを確かめるため、私は真っ先にこころさんの足元に視線を落とした。年始のあの痛々しい負傷から、ずっと胸の奥で心配が燻っていたのだ。
「あの、こころさん……年始に痛められた足の怪我、もう大丈夫なんですか……? 無理はされてないですか?」
私の切羽詰まったような質問に、こころさんは嬉しそうに目を細めると、「ふふ、心配してくれてありがとう」と小さく笑った。
「ほら、この通り! 全然問題ないよ!」
そう言って、こころさんはその場でぴょんぴょんと可愛らしく跳ねてみせた。まるでお気に入りのステップを踏むような愛らしくも軽やかなアピール。その洗練された無駄のない身のこなしに、通りすがりの他校の男子部員たちの視線が一瞬で釘付けになるのが分かった。横にいる瑠璃さんは「もう、外なんだから少しは自重してください、こころ先輩」と呆れたように溜息をついている。
「もう完全に完治してるから、心配いらないよ。むしろね、リハビリを経て前より身体のバランスが良くなって、動けるくらいなんだから」
「……よかったです、本当によかった……」
その元気な姿、そして以前よりも一層研ぎ澄まされたような雰囲気に、胸の奥につかえていたものがスッと消えていき、私は心から安堵の息を吐き出した。
私たちは自然と、近くの掲示板に張り出されている巨大なトーナメント表へと視線を移した。全国の強豪校がひしめくブロックを指でなぞっていく。
「今年は、私たちが順当に勝ち進んでも、決勝戦までいかないと星和と西園寺は当たらない配置なんだね」
こころさんが綺麗な人差し指でボードの頂点を指差しながら、悪戯っぽく微笑む。
「だからみゆちゃん、約束通り、必ず決勝まで勝ち上がってきてね。あの時の続き……私たちが途中で止めざるを得なかった、あの試合の続きを、この最高の舞台でしましょう。楽しみにしてるから」
真っ直ぐに私を見つめるこころさんの瞳には、確固たる期待と、テニスへの純粋な情熱が宿っていた。ただ圧倒されるだけじゃない、背中を押されるようなその視線に、私の胸の奥からも熱いものが込み上げてくる。
「はい。必ず、こころさんの待つ決勝まで行きます! 私たちも負けません!」
私が力強く宣言すると、こころさんは満足そうに「うん、良い返事!」と頷いた。
別れ際、こころさんは私たちの近くにいた春花部長の元へも自ら歩み寄り、「星和学院の皆さん、お互い悔いのない大会にしましょうね。決勝で待っています」と、伝統校の品格を感じさせる非常に丁寧な一礼をして、瑠璃さんと共に西園寺のメンバーの元へと戻っていった。
「……はぁ。すごいやわらかい雰囲気の美人さんだな」
いつの間にか私の隣へとスライドしてきていた陽太が、西園寺のジャージの後ろ姿を見送りながら、ポツリと呟いた。
「なぁみゆ、あれで試合中はコートの狩人みたいに容赦なくなるって、俺まだ信じられないんだけど」
「ふふ、そうだね。でも、コートに入ったこころさんは本当に凄いの。圧倒的で、だけどとても信頼できて……私の目標でもある人だよ」
こころさんの残していった確かな熱量を胸に宿しながらそう返すと、陽太も「なるほどな。ますます負けてらんねえな」と不敵に笑った。憧れの人が完全な状態で待っている。その事実だけで、私のモチベーションは最高潮に達していた。
西園寺女学院のメンバーと別れ、私と陽太が改めて気持ちを引き締め直したその時だった。会場の入り口付近が、にわかに地鳴りのようなざわめきに包まれた。
独特の威圧感を放ちながら入場してきたのは、九州ブロック代表の雄、九州志士学院の面々だ。
「おっ、陽太じゃねえか!」
集団の先頭から、地を這うような低く芯のある声が響く。
黒いジャージを肩にかけ、鋭い眼光で陽太を見つけたのは、陽太が兄貴と慕っている神代龍之介さんだった。神代さんは大股で歩み寄るなり、挨拶もそこそこに、陽太の前に仁王立ちして顔を近づけた。
「テメェ、陽太! 高等部の奴らは何やってんだ! 湊と蓮の野郎どもが、まさか全国に出てこねえなんてどういうことだ!」
凄まじい気迫に、周囲の中等部部員たちがギクリと身を硬くする。
「あ、いや……兄貴、それには色々事情がありまして……」
さしもの陽太も、神代さんの剣幕には少しタジタジになりながら弁解を試みる。
事情は分かっているのだ。今年の高等部が地区予選で敗退してしまった最大の理由は、兄さんと蓮さんがU-17世界大会の日本代表として招集され、チームを長期にわたって離脱せざるを得なかったことにある。当人たちの責任ではない。だからこそ、神代さんの表情には、やり場のない、狂おしいほどの悔しさが滲み出ていた。
「分かってんだよ! 湊も蓮も、俺たちと一緒に世界相手に戦ってたんだ!誇らしいよ! ……だけどよぉ!」
神代さんは頭をガシガシとかきむしり、吠えるように言った。
「あいつらの高校デビュー戦を、この有明の舞台で観てやろうと思ってたんだぞ、俺たちは! なのに、あの肝心なバカ二人がいねえなんて……!」
神代さんは悔しそうに拳を握りしめ、ふん、と鼻を鳴らして星和の全体を見やった。
「大体、あの二人が抜けたからって地区予選でコロッと落ちちまう今の星和高等部は、一体どうなってんだ? 腑抜けやがって。あいつらのいない星和なんて、張子の虎だろ」
その言葉に、陽太がふっと表情を和らげ、不敵な笑みを浮かべた。
「まぁまぁ、兄貴。そう熱くならないでくださいよ。来年は神代さんも高等部に上がるんですから、世界大会が今年で、むしろ良かったじゃないですか。来年、直接対決したらいいんですよ。その方が面白いでしょう?」
陽太の絶妙なフォローに、神代さんは一瞬呆気に取られたように目を見張った。そして、フッと口元を歪めて獰猛な笑みを浮かべる。
「……ケッ、言うようになったじゃねえか、陽太」
神代さんは陽太の肩をガシガシと手荒く叩いた。
「チッ、まぁいい。中等部のお前がここにいるんだ、あいつらの分まで暴れりゃ文句ねえ。おい陽太、あのバカ二人に会ったら伝言を頼むぞ」
神代さんの瞳に、ギラリとした野生的な光が宿る。
「『来年は死に物狂いで勝ち上がって来い、有明でブチのめしてやる』ってな。……もちろん、お前もだぞ、陽太。途中でコケたら承知しねえからな」
「――言われなくても、そのつもりです。兄貴たちこそ、俺たちに当たる前に負けないでくださいよ」
陽太も真っ向からその視線を受け止め、最高の笑顔で返した。かつて世界を共に見据えた戦友たちが、それぞれの執念と約束を胸に、この有明に集う。
いよいよ始まる、負けられない戦い。その火花が、試合前から静かに、けれど激しく散り始めていた。




