泥濘(ぬかるみ)の告白、そして
激しさを増していく雨の音が、私たちの間の沈黙をこれでもかと打ち鳴らしていた。
アスファルトの上で無惨に水を含み、文字の滲んだ作戦ノートを、陽太は震える手でじっと見つめている。雨水が彼の前髪を伝い、顎のラインからポタポタと地面へ滴り落ちていた。
「……なぁ、みゆ」
長い沈黙を破った陽太の声は、雨の音に掻き消されそうなほど低く、掠れていた。
「俺さ、本当は分かってたんだよ。お前が湊さんのために必死になればなるほど、その優しさが、逆に湊さんを余計に縛りつけちまうかもしれないって。……でも、俺もお前に頼られたのが嬉しくてさ。まるで特別な秘密を共有する『共犯者』にでもなれたみたいで、調子に乗ってたんだ」
陽太は自嘲気味に笑い、ノートをブレザーのポケットへ力なく押し込んだ。
「結局、一番エゴの塊だったのは俺だよ。みゆの力になりたいとか言いつつ、自分をこの計画の特別席に置きたかっただけだ。……ごめんな」
「陽太……」
私は言葉に詰まった。
違う、陽太は悪くない。私の独りよがりな罪悪感に、彼を巻き込んでしまっただけだ。湊兄さんを誰かと結びつければ、私が背負っている重荷が軽くなるんじゃないかという、私の浅はかな自己満足。
「違うよ。悪いのは全部私。兄さんの気持ちを知りながら、見ない振りをして、外側から無理やり誰かの色で塗りつぶそうとしたんだから……」
冷たい雨が体温を奪っていく。けれど、胸の奥にある、自分の醜さを突きつけられたような痛みのほうが、何倍も冷たく私を刺していた。
誰も傷つけないための『優しい嘘』は、蓋を開けてみれば、私たち自身を欺くためだけの、あまりにも幼く、脆い逃げ道だった。
「――そこで何やってんだ、お前ら」
その声が聞こえた瞬間、私と陽太の身体は同時に凍りついた。
ゆっくりと振り返ると、暗い雨夜の向こうから、一本の大きな傘が近づいてくるのが見えた。傘を差しているのは、部活のジャージの上に重そうなコートを羽織った湊兄さんだった。
「湊……さん……」
陽太が息を呑む。
湊兄さんは私たちのすぐ傍で足を止めると、傘を少し後ろに傾けた。街灯の光に照らされたその表情は、怒っているわけでも、呆れているわけでもなく、ただただ静かだった。すべてを悟り、すべてを受け止めた上での、深い静寂がそこにあった。
「こんな雨の中で突っ立って……、風邪ひくぞ。陽太、みゆを連れてさっさと帰れ」
湊兄さんはそう言うと、自分が差していた傘を、迷うことなく私の手へと握らせた。自分の肩がまたたく間に雨で濡れていくことなんて、一ミリも気にしていないような手つきで。
「兄さん、でも、これ……」
「いいから、持っとけ」
湊兄さんは私の頭をぽん、と一度だけ叩くと、ポケットに両手を突っ込んで、そのまま雨の中を歩き出そうとした。
その背中を見た瞬間、私の胸の奥で、せき止められていた感情が決壊した。
やっぱり湊兄さんは、いつだって私を最優先にして、私を甘やかして、私だけを守ろうとする。その真っ直ぐすぎる優しさが、今の私には酷く眩しくて、そして、申し訳なくて堪らなかった。
「兄さん……っ!」
私の叫び声に、湊兄さんの足が止まる。
振り返った湊兄さんの瞳に、私は雨に濡れた顔のまま、叫ぶように言葉をぶつけていた。
「ごめんなさい……! 私、陽太と一緒に、兄さんを誰かと付き合わせようとしてたの! 兄さんを幸せにするためなんて言い訳して、私のせいで兄さんが縛られてるのが嫌だからって、勝手なことばかりして……! 全部、私の身勝手なエゴだったの……っ!」
激しい雨の音の向こうで、私の告白が響き渡る。
隣で陽太がハッとしたように目を見開くのが分かった。けれど、もう止まれなかった。この泥濘のような罪悪感を、湊兄さんに隠し通したまま『優しい妹』の面皮を被り続けることなんて、私にはもう出来なかった。
雨のカーテンの向こうで、湊兄さんはしばらくの間、じっと私を見つめていた。
やがて、湊兄さんは小さくため息をつくと、ゆっくりと私との距離を詰めてきた。
「……知ってたさ」
湊兄さんの口から出たのは、あまりにも呆気ない、そしてどこまでも優しい言葉だった。
「お前らがコソコソ動いてるのも、あの手作りのお菓子がそういう意味だったのも、全部最初から分かってた」
「え……?」
驚きで声が裏返る私に、湊兄さんは少しだけ困ったように、でも、嬉しそうな笑みを浮かべてみせた。
「お前が俺のために必死になってるんだから、無下には出来ねえだろ。……でもな、みゆ。俺の幸せを、お前が勝手に決めるな」
湊兄さんは私の目の前で立ち止まり、私の手を包むようにして、自分が渡した傘の柄を握らせ直した。
「俺は、今が十分に幸せだ。お前が隣にいて、テニスができて、アイツらみたいな面白い仲間に囲まれてる。これ以上、何を望むんだよ。だから……もう、余計な心配すんな」
湊兄さんの大きな手が、私の冷え切った頬の雨水を、そっと親指で拭う。
その温かさに、今度は本物の涙が溢れ出てきそうになって、私は慌てて視線を落とした。
私と陽太の『兄さん幸せ計画』は、完全に、これ以上ないほど完膚なきまでに失敗した。
けれど、雨上がりの空が少しずつ雲を割っていくように、私の胸を占めていた重苦しい霧は、湊兄さんのその一言で、静かに消え去っていこうとしていた。
「……よし、話は終わりだ。陽太、みゆを家まで送り届けろ。俺は先に行く」
湊兄さんは今度こそ、濡れるのも構わずに足早に歩き去っていった。その背中は、どんな嵐をも撥ね退けるくらいに、力強くて、真っ直ぐだった。
「……敵わねえな、湊さんには」
陽太がポツリと呟き、小さく息を吐き出した。その表情には、計画が失敗した悔しさはなく、どこか晴れ晴れとしたものが浮かんでいた。
「うん……本当に、敵わないや」
私は湊兄さんの残していった傘を強く握り締め、小さく、けれど確かに頷いた。
私たちの『共犯関係』は、ここで幕を閉じる。でも、この失敗の先に待っている私たちの新しい日常は、きっと、今までよりも少しだけ、本当の光に近づいているはずだ。




