最初の仕掛け、重なる偶然
「よし、作戦通りにいくぞ」
昼休み、中庭の片隅にあるベンチで、陽太は周囲を気にしながらスマートフォンの画面を私に見せてきた。そこには、今朝私たちが再確認した『兄さん幸せ計画』の、記念すべき第一段階のタイムスケジュールが打ち込まれていた。
ターゲットは、陽太のクラスメイトであり、星和祭以来、湊兄さんのギター演奏に密かな憧れを抱いている長谷川 杏子さん。
そして作戦の舞台は、湊兄さんが毎朝必ず通る、図書室前の自動販売機が並ぶあの静かな廊下だ。
「長谷川は、明日日直の仕事があるから職員室から大量のプリントを運ぶ予定になっている。その通り道が、ちょうど湊さんが缶コーヒーを買う時間と重なるように、俺が後ろから絶妙にタイミングをコントロールするから」
陽太が不敵な笑みを浮かべる。
「私は、その少し前に図書室に行って、二人の様子を近くで見守るね。もし万が一、プリントが崩れなかったり、兄さんが気づかなかったりしたら、さりげなくサポートする」
「おう、頼む。古典的だけど、『少女漫画風ハプニング作戦』だ。あいつは大人しいけど、きっかけさえあれば絶対に真っ直ぐ気持ちを伝えられる良い奴だからな。湊さんだって、あんな健気な子に頼られたら無下にはしないはずだろ?」
陽太の言う通りだった。湊兄さんはぶっきらぼうに見えて、困っている人を放っておけない優しい人だ。落としたプリントを一緒に拾う――そんなありふれた偶然から、二人の関係が始まってくれれば、これほど自然なことはない。
そして迎えた、翌朝。
冬の足音が近づく冷え切った空気の中、私は予令が鳴る少し前に図書室へと向かい、入り口のガラス扉越しに廊下の様子を窺っていた。心臓がトクトクと小さく高鳴る。
カチャン。
静かな廊下に、コインが落ちる音が響いた。予定通り、湊兄さんがいつもの自動販売機で缶コーヒーを購入した。いつものようにブレザーのポケットに片手を突っ込み、気怠げに缶のプルタブを開けようとした、その瞬間――。
「あ、あれ……っ!?」
廊下の角から、自身の背丈ほどもある大きな段ボール箱を抱えた長谷川さんが、おぼつかない足取りで歩いてきた。陽太が上手く誘導してくれたのだろう。彼女の視界は完全に箱で遮られている。
「わ、わっ……!」
自販機の前に差し掛かった瞬間、長谷川さんが足をもつれさせた。
ガシャシャッ!! と激しい音を立てて、段ボール箱から溢れ出た大量のプリントが、冬の廊下に白い雪のように散らばっていく。
「痛っ……あ、ご、ごめんなさい……!」
床にへたり込み、パニック気味にプリントを拾い集めようとする長谷川さん。
完璧なタイミングだった。湊兄さんはすぐ目の前にいる。
湊兄さんは一瞬、驚いたように目を見張ると、手にした缶コーヒーを自販機のゴミ箱の上に置き、すぐさま杏子さんの前に片膝をついた。
「おい、大丈夫か? ……無理してこんな量、一人で運ぶからだ。ほら、貸せ」
低く、けれどぶっきらぼうな優しさが滲む声。湊兄さんは大きな手で、手際よく散らばったプリントをまとめ始めた。
「あ……あ、ありがとうございます……!」
長谷川さんは顔を真っ赤に染め、本当に今にも泣き出しそうな、それでいて嬉しさを隠せないような表情で湊兄さんを見つめている。そのまま二人は言葉を交わし、湊兄さんは残りの段ボールを代わりに抱えて、彼女と一緒に廊下の奥へと歩いて行った。
図書室の影からその様子を見ていた私は、胸の内で小さく息を吐き出した。
確かに計画は大成功。けれど、その光景があまりにも絵になりすぎていて、胸の奥にどこか奇妙な違和感が残った。
ホームルーム前の短い時間、私はAクラス隣の階段で陽太と合流した。
「見たかみゆ! 完璧だったな! 湊さん、ちゃんと杏子の荷物持って教室まで送ってったぞ」
陽太が興奮気味にガッツポーズを作る。けれど、私の曇った表情に気づき、陽太は「……どうした?」と首を傾げた。
「陽太。……あのね、すごく上手くいったのは嬉しいんだけど、ちょっと不思議な気持ちになっちゃって」
「不思議な気持ち?」
「うん。……あの二人の様子、図書室のガラス越しに見てたの。でもね、長谷川さんが転んだのも、兄さんが助けたのも、二人が楽しそうに話し始めたのも……全部、あまりにも自然だったの。私たちが裏でタイミングを合わせたり、作戦を練ったりしなくても、あの二人なら、いつかあそこで普通に出会って、普通に仲良くなってたんじゃないかって……」
私の言葉に、陽太は一瞬ハッとしたように目を見張り、それから手元の作戦ノートをじっと見つめた。
「それ……俺も一瞬思った」
陽太は声を潜め、少し困ったように眉根を寄せる。
「俺、杏子の背中を押すタイミングを計ってたんだけどさ、俺が合図するより前に、杏子は本当にプリントの重さに耐えかねてふらついてたんだ。まるで、俺たちの計画なんて関係なしに、最初からそういう運命だったみたいに……」
私たちが裏で糸を引いているはずの『優しい嘘』。
けれど、目の前で起きた現実があまりにも自然で美しすぎたせいで、私たちは自分たちの行っている「介入」が、本当に意味のあることなのか、それともただの余計なお節介なのか、一瞬だけ分からなくなってしまった。
「……でも、きっかけを作ったのは俺たちだ」
陽太が自分に言い聞かせるように、ノートをぎゅっと握りしめた。
「偶然を本物の運命にするために、俺たちが動いた。それでいいんだよな、みゆ」
陽太のその言葉は、私に向けられたものであると同時に、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「うん……そうだね。兄さんが幸せになるなら、それで」
私は小さく頷き、カバンの奥にしまったノートの感触を確かめる。長谷川杏子さんとの接触は綺麗に成功したけれど、あのあまりにも自然すぎた二人の空気感が、どうしても頭から離れなかった。
放課後。私たち中等部テニス部も、クレーコートでいつも通りの厳しい練習に励んでいた。
どうしても高等部側の様子が気になって仕方がなかった私は、ラリーの合間、隣のコートの陽太に目配せをした。陽太はすぐに私の意図を察し、ラケットを引くと「坂上先生、ちょっと高等部の先輩に打球のキレについてアドバイスもらいに行ってきていいですか?」と、顧問の坂上先生に声をかけてくれた。
「おう、熱心だな。湊たちの邪魔にならない程度にな」
先生の快い許可を得て、私と陽太はアドバイスをもらいに行くという名目で、中等部のコートを一時的に抜け出した。
高等部のコートへと近づくにつれ、重く鋭い打球音がダイレクトに響いてくる。
コートの中では、湊兄さんが蓮さんとペアを組み、息をもつかせぬ激しいラリーを展開していた。湊兄さんの圧倒的なまでの躍動感と、蓮さんの流麗なラケットワーク。二人のコンビネーションは息がぴったりで、見ているだけで圧倒されるほどの熱量だ。
「おーい、湊くん! 左空いてる、詰めろー!」
コートの脇から、活発な声で的確な指示を飛ばしているのは鈴木唯先輩だ。唯先輩はカゴを腰に抱え、男子テニス部のマネージャーとして甲斐甲斐しく二人のサポートに徹底している。
(唯先輩……やっぱり、兄さんとすごく良い雰囲気……?)
そう思いながら観察していた、その時だった。
蓮さんが鮮やかなボレーを決めた瞬間、唯先輩の顔がパッと華やかに輝いた。タオルを渡す彼女の視線、少し上気した頬、そしてその瞳に宿る特別な熱――それは、湊兄さんに向けられているものではなかった。
唯先輩がその一挙一動に、隠しきれない好意を抱いている相手は、北条蓮だったのだ。
ふと見ると、湊兄さんは唯先輩からボトルを受け取りながら、ニヤニヤとした意地悪い笑みを蓮先輩に向けていた。
「おい蓮、お前少しはマネージャーに感謝しろよな」
「……なんだよ唐突に。いつも感謝してるだろ」
蓮さんは不思議そうに首を傾げている。湊兄さんは唯先輩の蓮先輩に対する感情を、とっくに察して面白がっているようだった。
何も知らなかった私と陽太は、その光景を前に足が止まった。
「……なぁ、みゆ」
陽太が声を潜め、困惑したように呟く。
「唯先輩が目で追ってるのって、どう見ても蓮さんだよな? 湊さん、完全に二人のこと冷やかしてるし……」
「うん、みたい……」
もしかして、という疑問が確信に変わっていく。
けれど、私たちは「アドバイスをもらいに来た」という名目を利用して、ここで引き返すわけにはいかなかった。少し動揺しながらも、湊兄さんたちのいるコートサイドへと接触を試みる。
「あ、陽太にみゆ、いらっしゃい! 坂上先生に言われてきたの?」
いち早く私たちに気づいた唯先輩が、いつもの活発な世話焼きっ子らしい笑顔で駆け寄ってくる。
「うん、ちょっと打球のことでな」と陽太が話を合わせている間、私は湊兄さんに直接「唯先輩のこと、どう思ってるの?」と聞く勇気が出ず、隣のコートでラケットを手入れしていた高城紗良先輩の元へと歩み寄った。
「高城先輩、お疲れ様です……あの、少しお聞きしてもいいですか?」
私は視線を、今も蓮さんにスポーツドリンクを渡して耳を赤くしている唯先輩の方へと向け、やんわりと尋ねた。
「唯先輩って……いつも男子テニス部を一生懸命支えていらっしゃいますよね」
紗良先輩は私の視線の意図を瞬時に察したのだろう。ふっと大人の余裕を感じさせる優しい微笑みを浮かべると、声を潜めて言った。
「ふふ、やっぱりわかっちゃうよね」
紗良先輩は楽しそうに、コートの中で相変わらず鈍感そうに首を傾げている蓮さんを見つめる。
「……蓮くんだけかな? 綺麗に気がついていないのは。湊くんも、周りのみんなも、とっくに生温かい目で見守ってるんだけどね」
やっぱり、そうだったんだ――。
「アドバイス、ありがとうございました!」
湊兄さんたちに形だけの挨拶を済ませ、中等部コートの裏へと戻る道すがら、私は小さくため息をついた。
「計画の有力候補だった唯先輩が外れちゃったのは、正直ちょっと残念だね……」
私の言葉に、陽太も「あぁ。湊さんの隣で笑ってる唯先輩、結構お似合いだと思ってたんだけどな」と苦笑いしながら頷く。
でも、不思議と嫌な気持ちはなかった。むしろ、大好きな蓮さんのために一生懸命になる唯先輩の姿は微笑ましくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「でも、唯先輩には蓮さんと上手くいってほしいな。全力で応援したくなっちゃう」
「だな。あんなに一途にサポートされたら、蓮さんもいつかイチコロだろ」
私たちは顔を見合わせて笑い合い、すぐに気持ちを切り替えた。唯先輩が候補から外れたとしても、私たちの『兄さん幸せ計画』が止まるわけではない。カバンの奥のノートには、まだ三人の大切な候補が残っている。
「よし、気を取り直していこう。長谷川さんとの朝のハプニングは成功した。次は、残りの三人……いや、残る二人と長谷川さんを、どうやって進展させていくかだな」
陽太がノートを開き、真剣な表情でペンを構える。
「そうだね。朝の挨拶ができるようになった長谷川杏子ちゃんとは、次のステップとして放課後の図書室とかで自然に会話を深められるようにしたいな。それから、同じ学年の佐々木梓先輩とは、何か文化祭の時みたいな音楽絡みのきっかけを作れないかな? 高城紗良先輩なら、やっぱりテニスの合同練習の時が一番自然に距離を縮められそう」
「なるほどな。一つずつ、もっと確実な動線を練り直そう。湊さんに怪しまれないように、でも確実に二人の距離が近くなるようなシチュエーションをさ」
夕暮れのクレーコートに、再び私たちの小さな作戦会議の声が響く。
一人減ってしまった寂しさはあれど、残された三人の未来に思いを馳せると、胸の高鳴りは消えなかった。この時はまだ、私たちの紡ぐ『優しい嘘』のシナリオが、この先どんな結末を迎えるのか、知る由もなかったのだから。




