日常への帰還、始まりの予感
二泊三日の修学旅行は、まるで瞬きをする間に過ぎ去ってしまった。京都の鮮やかな紅葉や嵐山での騒動は、今やスマートフォンの画面に収まった思い出の写真となり、私たちの足は再び、いつも通りの星和学院へと向いていた。
十一月に入り、学院を取り巻く空気はさらに冷涼さを増している。修学旅行という非日常の魔法から覚め、制服に身を包んだ生徒たちがせわしなく行き交う敷地内は、どこか張り詰めた空気が漂っていた。特に、湊兄さんがいる高等部一年生のフロアは、冬の足音とともにどこか落ち着いた雰囲気に包まれている。
(兄さんは、いつも通り過ごしているのかな……)
登校後、私は自身の教室へ入る前に、少し遠回りをして高等部の校舎へと続く連絡通路に足を向けていた。
渡り廊下の窓から中庭を見下ろすと、いつも通りの静謐な景色が広がっている。けれど、今の私の目的はただ湊兄さんの姿を探すことではない。カバンの奥にある『兄さん幸せ計画』のノートに記した、四人のお相手候補たちの様子をこの目で確かめることだった。
まず向かったのは、図書室へと続くあの静かな廊下。
陽太の事前情報通り、自動販売機の並ぶこの場所は、湊兄さんが毎朝缶コーヒーを買うお決まりのルートだ。壁の影からそっと様子を窺っていると、ちょうど陽太と同じAクラスの長谷川杏子さんが、図書室に鍵をかけ職員室の方向へ向かい歩いてくるのが見えた。彼女は少し緊張した面持ちで周囲を気にしながらも、毎朝ここを通るという湊兄さんの姿を心待ちにしているような、健気な雰囲気を纏っていた。
(うん、動線はぴったり。杏子ちゃんなら、すごく純粋に兄さんを慕ってくれそう……)
手応えを感じながら、私はさらに高等部一年生の教室があるフロアへと静かに階段を上った。
目的の教室の近くを通ると、廊下側でクラスメイトと談笑している佐々木梓先輩の姿が目に飛び込んできた。星和祭のステージで圧倒的な歌声を響かせていたあの時の華やかさはそのままに、どこか大人びた、周囲を惹きつけるオーラがある。湊兄さんと同じ学年ということもあり、これからの学校生活で接点が増えれば、大人の会話ができるお相手としてはこれ以上ないほどお似合いに思えた。
そのまま視線を学内の掲示板へと移す。そこには、直近の専門誌に掲載されたという、女子テニス部の活躍を報じる切り抜きが貼られていた。紙面の中心で凛とした笑顔を見せているのは、私の憧れでもあり、湊兄さんと同じ一年の高城紗良先輩だ。文武両道を地で行く彼女なら、テニスに真っ直ぐな湊兄さんとも深い部分で理解り合えるに違いない。
「――あれ? みゆ? 何してんの、こんなところで」
不意に後ろから声をかけられ、私はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、テニス部のジャージを羽織った鈴木唯先輩が、ドリンクの入ったカゴを抱えて不思議そうにこちらを見ていた。
唯先輩は、去年まで私たちと一緒に中等部のテニス部に所属していたこともあって、私や陽太ともよく知る顔見知りだ。高等部に上がってからは男子テニス部のマネージャーとなり、湊兄さんたちのサポートに徹底してくれている。活発で世話焼きな性格の彼女は、マネージャー業の傍ら、たまに女子テニス部の高城紗良先輩とコートで激しいラリーをしている姿も見かける。
「あ、唯先輩! おはようございます。……いえ、ちょっと高等部の方に用事があって」
「ふーん? もうすぐ予鈴鳴っちゃうから、あんまり遅くなるなよー? 湊くんなら、さっき部室の方に走っていったよ!」
唯先輩は快活に笑いながら、彼女らしく私の背中をぽん、と叩いて足早に去っていった。その親しみやすい後ろ姿を見送りながら、私は深く息を吐き出す。唯先輩のように、いつも近くで湊兄さんを支えてくれている存在も、また違った形で湊兄さんの心を解きほぐしてくれるかもしれない。
「ふぅ……」
一つ息をつき、自分の教室へと急ぐために階段を下りていく。
四人それぞれの魅力や、兄さんとの接点を頭の中で整理していくたびに、私たちの紡ぐ『優しい嘘』が、少しずつ現実の形を帯びていくのを感じていた。
「よ、みゆ。朝から熱心だな」
Bクラスの教室の手前、廊下の隅で待っていたかのように、陽太が声をかけてきた。彼の片手には、京都の夜に私たちが必死に練り上げたあの作戦ノートが握られている。
「陽太。……うん、今、先輩たちの様子を少しだけ見てきたの。長谷川さんも、唯先輩も、みんな素敵な人たちばかりだった」
「だろ? 俺の目に狂いはないって。……よし、それじゃあ日常に戻ったことだし、いよいよ『兄さん幸せ計画』、第一段階の始動といこうぜ」
陽太がブレザーのポケットにノートをしまい、不敵に、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべる。
修学旅行という魔法は解けたけれど、私たちの『共犯関係』はここからが本番だ。湊兄さんを誰も傷つかない幸せへと導くための、精巧なシナリオ。私たちは互いに小さく頷き合うと、決意を胸に、それぞれの教室の扉を開けた。




