嵐山の闖入者と臨時のダブルス
修学旅行二日目の朝は、心地よい疲労感と、それ以上の高揚感とともに幕を開けた。
「みゆ、早く起きないと朝ごはん置いてっちゃうよ!」
美咲に揺り起こされ、急いで身支度を整える。旅館の窓を開けると、京都の朝の空気は昨日よりも一段と冷え込んでいたが、雲一つない快晴の空が私たちの二日目を祝福してくれているようだった。
旅館の美味しい朝食を済ませ、私たちは午前中の目的地である嵐山へと向かった。
渡月橋のたもとに到着すると、そこには息を呑むような絶景が広がっている。大堰川の清らかな水面に、赤や黄色、橙色に完璧に染まりきった山々が映り込み、まるで一幅の絵画のようだ。
今日も私たちの班と、陽太や莉奈のいるAクラスの班は行動スケジュールを合わせていた。お土産屋が並ぶ通りで合流し、賑やかに竹林の小径へと向かって歩いていた、その時だった。
観光スポットへと続く道中、一般に開放されている公営のクレーテニスコートの脇を通りかかったとき、莉奈がピタリと足を止めた。
コートの入り口付近で、数人の少年たちと、体格のいい高校生風の男たちが激しく言い争う声が響いていたのだ。
「……何、あれ。揉め事?」
莉奈が眉をひそめ、テニス部としての性分からか、放っておけずにトトトッと歩み寄っていった。
「ちょっと、そこの君たち、何があったんですか?」
莉奈が声をかけると、中学生らしき少年の一人が、悔し涙を浮かべながら訴えかけてきた。
「あの……僕たちが朝から予約して、先に使用料を払って使ってたコートなのに、この人たちが急に来て『高校生の練習の邪魔だ、どけ』って、無理やり追い出そうとしてくるんです……!」
見れば、高校生たちはラケットを肩に担ぎ、不遜な態度で中学生たちを見下ろしている。
「おいおい、お嬢ちゃん。俺たちは次の大会に向けて大人の調整をしてるんだよ。ガキの遊びにコートを占領させておくのはもったいねえだろ? 世の中、実力のある奴が優先されるもんなんだよ」
その大人気ない言い分に、私たちのグループの空気が一気に冷え込んだ。
特に、人一倍正義感が強く、曲がったことが大嫌いな陽太の目が、鋭く据わる。陽太は一歩前に出ると、高校生たちの前に立ちはだかり、低い声で言い放った。
「おい、そこまでにしとけよ。先に来てルール通りに使ってる奴らを力尽くで追い出すなんて、いくらなんでも大人気ないですよ」
「あぁん? なんだお前、温室育ちの坊ちゃんが、正義の味方気取りか?」
リーダー格の高校生が、陽太の胸元を小突くようにして挑発的な笑みを浮かべた。
「そんなに文句があるなら、テニスで白黒つけようじゃねえか。ミックスダブルスで一ゲーム、俺たちに勝てたら素真に引き下がってやるよ。もし負けたら、お前ら全員、その中学生たちと一緒にここから失せろ。ラケットなら、そのガキどもの小汚いのでも借りて打ってみな!」
完全に私たちを、長年親しんってきたテニスという競技を馬鹿にした態度だった。
陽太はフッと鼻で笑うと、後ろにいる私と莉奈を振り返った。
「みゆ、莉奈。……ちょっと、体動かしていいか?」
「もちろん。あんな奴ら、コテンパンにしてやりなよ、陽太くん!」
莉奈が激しい怒りを露わにして陽太を後押しする。私は何も言わず、ただ陽太の隣へと歩み出た。
「陽太、私が一緒にコートに入るよ」
「おう、頼む。……君たち、ラケットを二本、貸してもらえるかな?」
陽太が優しく声をかけると、中学生たちは「あ、はい! お願いします!」と、自分たちのラケットを差し出してくれた。
中学生用のやや軽めのラケット。ガットのテンションもいつも使っているものとはまるで違う。けれど、私と陽太にとっては、そんなことは大した問題ではなかった。
コートに入り、私と陽太がポジションにつく。
相手の高校生二人は「ハハッ、女連れかよ。舐められたもんだな!」と高笑いしながら、サーブの構えに入った。
「いくぞ、お坊ちゃん!」
強烈なフラットサーブが、陽太のバック側へと襲いかかる。
並の高校生ならエースを取れるスピードかもしれない。けれど、陽太の卓越した身体能力の前には、ただの格好の標的だった。
「ぬるいんだよ!」
陽太は一歩鋭く踏み込むと、中学生用の軽いラケットとは思えないほどの強烈なスイングで、リターンエースをストレートに叩き込んだ。ボールは高校生の足元で爆発するように弾け、相手は一歩も動けなかった。
「な……ッ!?」
「次、俺の番ね」
今度はもう一人の高校生が、ヤケクソのように強烈な回転をかけたトップスピンサーブを私のコートへ打ち込んってきた。高く弾み、大きく変化しようとするその一球――。
私の優れた動体視力は、相手のインパクトの瞬間、ボールに込められた回転の軸、速度、構造を完璧に捉えていた。
『波紋』。
私は一歩鋭く踏み込み、ボールがバウンドした刹那、ラケット面を巧妙にコントロールした。相手の放った強烈な回転をただ殺すのではない。その回転をガットの上で一瞬にして見極め、相手の球速と回転のエネルギーをそのまま自分のラケット操作でさらに倍加させ、凶悪なカウンターとして増幅して弾き返す。
カツン、と凄まじい打球音がクレーコートに響き渡った。
「な、なんだこの球……!? 伸びが、さっきの倍以上に……ッ!」
元以上の超高速と激しい回転を伴って放たれた打球は、相手コートのベースライン際で急激に沈み、そのまま目にも留まらぬ速さで低く滑り去っていった。高校生はラケットを合わせるどころか、その場に硬直して見送るしかなかった。
そこからは、一方的な展開だった。
陽太の野生的なまでのパワーと、私の放つ精密にして苛烈な『波紋』のカウンター。中学生たちのラケットであっても、私たちの技術の前には何の関係もなかった。相手の打球のコースを全て先読みし、完璧に打ちのめしていく。
「ゲーム、星和! 4-0!」
審判を買って出てくれた佐藤くんの声が響く。一ゲームどころか、一ポイントすら与えない完璧なシャットアウトだった。
「……っ、なんなんだよおまえら……!」
息を切らし、膝をついた高校生たちは、完全に戦意を喪失していた。
「約束通り、さっさとここから失せろ。二度とテニスを、ルールを舐めるな」
陽太が冷徹な声で言い放つと、高校生たちは捨て台詞を吐く余裕すらなく、這う這うの体でコートから逃げ出していった。
「す、すげえええ……! 本当にありがとうございました!!」
高校生たちがラケットバッグを掴んで逃げるように去っていくと、コートには中学生たちの割れんばかりの歓声が響き渡った。莉奈や美咲、佐藤くんたちも「いやー、スカッとした!」と拍手をしながらコートの中へと入ってくる。
「ありがとな、助かったよ」
陽太が汗を拭いながら笑顔でラケットを返すと、中学生の男の子たちは憧れの眼差しをキラキラと輝かせながら、私たちの周りに集まってきた。
「あの、お兄さんもお姉さんも、めちゃくちゃテニス強いですね! もしかして、どこかの高校の硬式テニス部の人たちですか?」
「あ、まあね。一応、これでも現役の部員だからさ。でも俺たちはまだ中学2年だから君たちと歳変わらないと思うぞ」
陽太が少し照れくさそうに首の後ろを掻く。すると、中学生の一人が、自分のラケットをぎゅっと握りしめながら、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「あの……もしよければ、僕たちと少しだけ打ち合ってもらえませんか? さっきのお姉さんの、ボールが急に伸びるすごいショットとか、近くで見てみたくて……!」
その純粋なリクエストに、陽太と私は顔を見合わせた。時計を見ると、嵐山の観光スケジュールにはまだ少し余裕がある。
「みゆ、どうする? 少しだけ、あいつらの相手してやるか?」
「うん、いいよ。あの子たちの貴重な練習時間を邪魔されちゃったわけだし、その埋め合わせね」
私の言葉に、中学生たちは「やったぁ!」と大喜び。莉奈も「あ、私も混ぜて! 旅先でテニスなんて最高じゃん!」と参戦を決め、即席の交流マッチが始まることになった。
「それじゃあ、まずはラリーからいこうか。怪我しないように、ゆっくりね」
陽太がネット際から優しくボールを球出しする。さっきまでの鋭い目つきとは打って変わり、相手のレベルに合わせて打ち返しやすい丁寧な生きた球を送ってあげる陽太の姿に、胸の奥が温かくなる。
「いきます……! えいっ!」
中学生の放ったひたむきな打球が、私のコートへと弾んだ。
私はその球筋を優しく見極める。さすがに穏やかな空気の中で全力の『波紋』のカウンターを叩き込むわけにはいかない。私は、先週ひかりちゃんや森下くんに教えたばかりの「1つ目の波紋」――相手の回転をラケット操作で綺麗に『無効化』し、打ちやすいノンロブのストレートへとコントロールして返球した。
「わあ! 本当に回転が消えて、真っ直ぐ綺麗に返ってきた!」
「すごい、捕りやすいのに全然ブレない!」
コートのあちこちで、弾んだ靴音と楽しげな笑い声が交錯する。莉奈も得意のボレーで中学生たちを翻弄しつつも、最後は綺麗に打たせてあげるなど、コート内は一気に和やかなムードに包まれていった。
ほんの十分ほどの短い時間だったけれど、中学生たちは見違えるほど生き生きとした表情でラケットを振り、私たちの一挙一動を吸収しようと必死に食らいついてくれた。
「よし、そろそろ時間だな。君たち、これからもテニス、頑張れよ!」
陽太がそう言ってネット越しに中学生たちとグータッチを交わす。
「はい! 僕たち、もっと練習して、お兄さんやお姉さんみたいに強くなります!」
「ありがとうございました!」
ネットを挟んで深々と頭を下げる彼らの真っ直ぐな姿に、私はどこか、学院のコートで待つひかりちゃんや森下くんの姿を重ねていた。技術を誰かに伝えること、そしてテニスを通じて誰かを笑顔にできることの心地よさが、胸いっぱいに広がっていく。
「ふぅ、いい汗かいた! じゃあみんな、お腹も空いてきたし、本番の嵐山観光へ繰り出そう!」
美咲がパンフレットを掲げて声を張り上げると、十一人の賑やかな足取りは、再び賑わう嵐山の散策路へと向かって動き始めた。コートを去る私たちの背中に、中学生たちの「ありがとうございましたー!」という元気な声が、秋の心地よい風に乗っていつまでも追いかけてきていた。
「あー、やっぱり体動かした後のご飯は最高だね!」
コートを後にして嵐山の中心部へと戻った私たちは、美咲や莉奈の案内で、渡月橋を望む小綺麗なお食事処へと入った。注文した京うどんと衣がサクサクの天ぷらを口に運ぶたび、さっきの心地よい疲労感がじんわりと幸福感に変わっていく。十一人が二つのテーブルに分かれ、小突き合うようにトラブルの武勇伝を語り合う賑やかな声が、店内に心地よく響いていた。
お腹を満たした後は、いよいよ嵐山の象徴とも言える「竹林の小径」へと向かう。
人力車が時折通り過ぎる賑やかな通りを抜け、竹林の一歩奥へと足を踏み入ると、そこには息を呑むような静寂の世界が広がっていた。
頭上を覆い尽くすほどの高く青々とした竹林が、秋の木漏れ日を優しい緑色に染めて通している。ひんやりとした神聖な空気が心地よく、歩くだけで心が洗われるようだった。
「みゆ、これ」
美咲や莉奈たちが「マイナスイオンが凄い!」とはしゃぎながら先頭を歩く中、少し遅れて歩調を合わせていた陽太が、私の隣に並んで手元を覗かせてきた。彼のスマートフォンの画面には、昨夜電話で熱心に話し合った『兄さん幸せ計画』のメモが、きれいに整理されて表示されていた。
「昨夜話した、佐々木梓先輩、高城紗良先輩、鈴木唯先輩との接点の作り方……それと、俺のクラスの長谷川杏子さんの毎朝の動線、分かりやすくタイムラインにまとめてみたんだ。どうかな?」
陽太は周囲を気にしながらも、どこまでも真剣な目で私に意見を求めてくる。昨日の『波紋』の指導や、さっきのコートでの一件もそう。陽太はいつだって、私のために誰よりも真っ直ぐに動いてくれる。その徹底したサポートぶりに、私は胸がぎゅっと愛おしさでいっぱいになった。
「すごいね、陽太……。こんなに細かくスケジュールを考えてくれるなんて。これなら、星和に戻ってからすぐに動けそう。本当にありがとう」
「気にするなって。湊さんのためだしさ。……それに、こうして皆と修学旅行を全力で楽しみながら、お前と二人だけの秘密の作戦を進めてるの、なんかスパイ映画のバディみたいでさ。ちょっとワクワクするんだよね」
陽太が少年らしく悪戯っぽく笑う。その笑顔を見ていると、かつて一人で孤独な贖罪の海に溺れ、泣いていた自分が嘘のようだ。私はもう一人じゃない。こんなにも頼もしくて、優しい共犯者が、この美しい緑の光の中で隣にいてくれる。
「あー! 陽太くん、またみゆと二人で内緒話してる!」
前方から振り返った莉奈が、ジト目を向けながらからかってきた。美咲も「本当だよー! テニスで大活躍したからって、二人だけの世界に入らないでよね!」と笑いながら手招きしている。
「あ、悪い悪い! 今行くって!」
陽太が慌ててスマートフォンをポケットにしまい、頭を掻きながら二人のもとへ駆け出していく。その少し慌てた後ろ姿が可笑しくて、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
「みゆ、置いてっちゃうよ!」
莉奈が私の手を引き、私たちは笑い合いながら竹林の奥へと進んでいく。
見上げる竹林の隙間から、高く澄んだ十月の秋空が見えた。
湊
湊兄さんのために紡ぐ、誰にも言えない優しい嘘。それは私たちが日常に戻った時から、このノートの通りに本格的に始動する。けれど、陽太と、そしてこうして心から笑い合える仲間たちと過ごすこの修学旅行の二日目は、私の心にある最後の「陰り」を秋風の中へと心地よく溶かし去ってくれるのだった。




