茜さす古都、重なる足跡
「ねえみゆ、忘れ物ない? 大丈夫?」
「うん、何度も確認したから大丈夫だよ、美咲」
十月下旬、早朝の東京駅。修学旅行の出発地点となるホームは、色とりどりの私服や制服に身を包んだ星和学院の二年生たちで埋め尽くされ、独特の熱気に包まれていた。
ひんやりとした秋の空気が鼻腔をくすぐる。クラスごとに整列する中、私のいるBクラスのすぐ隣には、陽太のいるAクラスの列があった。ふと視線を送ると、男子グループの中心で楽しそうに笑う陽太と目が合う。陽太は私に気づくと、小さく手を振って悪戯っぽく微笑んだ。その真っ直ぐな瞳を見るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
新幹線がホームに滑り込み、いよいよ出発の時を迎えた。
車内に乗り込むと、座席を回転させてお菓子を広げる美咲や佐藤くんの声が響く。
「今回の5〜6人グループ行動、現地でAクラスのグループと合流できるの本当に楽しみだよね!」
美咲がパンフレットを広げながら興奮気味に言う。今回の修学旅行、私たちの班は美咲と佐藤くんを含めた五人。そして、事前に陽太と約束していた通り、現地では陽太のいるAクラスの班と合流する計画になっていた。
新幹線が西へ進むにつれ、車窓の景色は都会のビル群から、高く澄み渡った秋空と色づき始めた山々へと移り変わっていく。私は座席で、カバンの奥に大切にしまってある小さなノートの存在を確かめていた。
『兄さん幸せ計画』
この計画は旅行中の夜の自由時間などを使い、学院に戻ったその先で湊兄さんに私以外の「本物の幸せ」を見つけてもらうための作戦会議の記録でもあった。星和祭の限定バンドで輝いていた湊兄さんを慕う女子生徒の噂を、陽太が事前に集めてくれている。
「まもなく、京都、京都です――」
車内アナウンスが流れ、私たちの乗った新幹線はゆっくりと京都駅のホームへと滑り込んだ。
扉が開いた瞬間、流れ込んできたのは古都の冷たくも心地よい空気。ホームに降り立つと、大きなガラス窓の向こうに、色鮮やかな紅葉が優美に佇む京都の街並みが広がっていた。
「ついに着いたね、京都!」
午後。お土産屋が所狭しと立ち並び、多くの観光客で行き交う清水寺の参道を歩いていくと、視界の先に鮮やかな朱色の仁王門がその雄大な姿を現した。
周辺の木々は、十月の秋光を受けて見事なまでに赤や黄色に染まり、古都の情景を美しく彩っている。人混みで賑わう階段の下、事前に約束していた待ち合わせ場所に目を凝らすと、そこに見覚えのある顔ぶれを見つけた。
「あ! 美咲、みゆ! こっちこっちー!」
人混みの中から大きく手を振ってこちらに駆け寄ってきたのは、Aクラスの班にいる同じテニス部の星野莉奈だった。
「莉奈! ぴったり同じ時間に着いたね!」
美咲が嬉しそうに莉奈のもとへ駆け寄り、二人は楽しそうに手を合わせる。莉奈のいるAクラスの班は陽太を含めた六人グループ。佐藤くんも、陽太の班の男子たちと「よぉ、道混んでただろ」と親しげに言葉を交わし始め、お互いの班がごく自然な形で合流を果たした。
本堂へと進み、歴史を感じさせる清水の舞台に立つと、眼下には燃えるような紅葉の海と、その向こうに京都の街並みが一望できた。
「すごーい! せっかくだし、みんなで写真撮ろうよ!」
莉奈がスマートフォンを掲げて提案すると、美咲や佐藤くんたちも「賛成!」と一斉に賛同する。近くを通りかかった他校の生徒に快くシャッターをお願いし、私たちの班の五人と、陽太たちの班の六人、合わせて十一人が舞台の特等席にずらりと並んだ。
「はーい、撮りますよ! 3、2、1――」
カシャリ、と小気味いいシャッター音が秋空に響く。
ファインダーの中で、美咲と莉奈は満面の笑みでピースサインを作り、男子たちは少し照れくさそうに肩を組んでいた。そして私は、すぐ隣に並んだ陽太と視線を合わせ、小さく微笑み合った。十一人の賑やかな笑い声が詰まったその一枚は、この修学旅行のかけがえのない思い出の象徴となった。
写真撮影が終わり、美咲たちが「次はお守り見に行こう!」と再び先行し始める。人混みの喧騒に紛れるようにして、陽太が自然な足取りで私の隣に並んだ。二人の距離が、ほんの少しだけ近づく。
「みゆ、歩き疲れてないか? 結構な坂道だったろ」
「うん、大丈夫。陽太に会えると思ったら、全然平気だった」
私が少し恥ずかしさを隠しながらそう言うと、陽太は一瞬驚いたように目を見張り、それから照れくさそうに頭を掻きながら「そっか……良かった」と、眩しいほどの笑顔を浮かべた。その変わらない真っ直ぐな光に、私の胸の奥はどこまでも満たされていく。
「なぁ、みゆ。今夜の宿での自由時間さ、男子の部屋から内線で連絡するから。例のノート、進めようぜ」
陽太が周囲に聞こえないくらいの低い声で、けれど真剣な眼差しで言った。
「うん、ありがとう。私も、日常に戻ってから兄さんが自然に他の女の子と関われるようなシチュエーション、いくつか考えてみたの」
「頼もしいな。……俺、お前と一緒にこの計画を進めてる時、なんかすごく不思議な気持ちになるんだ」
陽太は参道を彩る紅葉を見上げながら、どこか遠い目をして、けれど優しい笑みを浮かべた。
「不思議な気持ち?」
「ああ。……俺たちのやってることって、きっと他の誰かから見たら、おかしな嘘なのかもしれない。だけどさ、お前が笑ってて、お前の大切な家族が幸せになるためなら、俺は喜んでその嘘の片棒を担ぐ。……いや、お前の『共犯者』になってやるって、改めて思ったんだよ」
陽太の言葉が、私の胸に深く、温かく染み渡っていく。
かつて私を縛り付けていた暗い贖罪の呪縛。それを陽太が半分背負ってくれたからこそ、私は今、こうして美しい紅葉の下を「普通の女の子」として歩くことができている。そして、兄さんを幸せにするための私たちの「優しい嘘」は、この古都の光の中で、より確かな形になろうとしていた。
「うん……。私も、陽太が隣にいてくれるから、何も怖くないよ」
私はそっと、陽太のブレザーの袖口に指先で触れた。
ほんの一瞬の、誰にも気づかれないだけの小さな触れ合い。
それから私たち二人は夕暮れに染まり始めた清水寺の舞台から京都の街並みを見下ろしていた。
清水寺を後にした私たちは、夕暮れ時の美しい京都の街を少し散策し、予定通りに今夜の宿である和風旅館へと到着した。
歴史を感じさせる佇まいの旅館は、どこか厳かで、それでいて修学旅行生を迎える独特の賑やかさに包まれている。大広間での夕食、側頭部まであたたまる大きなお風呂を慌ただしく済ませると、待ちに待った夜の自由時間がやってきた。
「あー、お腹いっぱい! お風呂も最高だったね!」
美咲が浴衣の帯を直しながら、部屋の畳の上に大の字に寝転がる。部屋のテレビからは旅番組ののんびりとした音が流れており、クラスの女子たちがトランプの準備を始めていた。
そんな中、部屋の片隅に置かれた黒電話が、チリンと短い音を立てた。
「あ、私出るね」
私はトランプの手を止め、受話器を耳に当てる。
『――もしもし、みゆ? 俺だけど』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し声を潜めた陽太の声だった。
「うん、陽太。お疲れ様」
『おう。今、俺の部屋の奴ら、隣の部屋に遊びに行っててさ。今ならゆっくり話せる。例の計画、すり合わせようぜ』
「分かった。じゃあ、ノートを開くね」
私は受話器を肩と耳で挟みながら、カバンから例の小さなノートを取り出し、畳の上に広げた。美咲たちは私が出た相手が陽太だと認識すると、恋人との「修学旅行の他愛ないおしゃべり」だと思って、みんなでトランプの続きを始めた。
「陽太、実はね、日常に戻ってから兄さんが自然に他の方と関われるようなお相手の候補を、私なりに整理してみたの」
『お、流石だな。どんな感じだ?』
「まずは、星和祭のバンドで一緒にステージに立ってボーカルを担当した、佐々木梓先輩。それから、高等部でも女子テニス部に所属していて、私の憧れでもある高城紗良先輩。あと、高等部では男子テニス部のマネージャーとなって、兄さんたちを支えている鈴木唯先輩。このお三方なら、部活や過去の繋がりもあって接点を作りやすいと思うんだよね」
『なるほどな! 俺たちとも面識があるし、湊さんを理解しているから、候補としては有力な人たちばっかりじゃん。……あ、それと、俺側からも一人追加していいか?』
「うん、誰?」
『星和祭の限定バンドで、先輩のギターの演奏にめちゃくちゃ感動して、それ以来ずっと憧れてる子がAクラスにいるんだ。長谷川杏子って言うんだけどさ。その子、毎朝早くに図書委員の仕事とかで職員室に行ってるから、湊さんが毎朝缶コーヒーを買いに図書室前の廊下を通る動線とぴったり重なるんだよ』
「長谷川杏子さん……。本当? それなら、すごく自然に挨拶から始められそうだね……!」
受話器の向こうで、陽太がページをめくる音がかすかに聞こえる。
私たちは、この学院という世界の中で、何も知らない湊兄さんを誰も傷つかない幸せへと導くための、精巧なシナリオを紡いでいく。魅力的な先輩方や、純粋な憧れを抱く同級生。湊兄さんの心を優しく解きほぐしてくれるかもしれないお相手候補の名前をノートに書き連ねていくたび、胸の奥の暗い陰りが消えていくのを感じた。
『なぁ、みゆ』
ひとしきり計画を書き留めた後、陽太の声が少しだけ柔らかくなった。
「なぁに?」
『今日の修学旅行、楽しかったな。清水寺で11人で写真撮ったとき、お前が隣で笑ってくれてるの見て、俺、本当に嬉しかったんだ。お前をあの孤独から引っ張り出せて、本当によかった』
陽太の真っ直ぐな言葉が、受話器を通じて私の耳の奥、そして心臓へと直接響いてくる。
胸の奥がキュッと締め付けられるように熱くなり、私は浴衣の胸元をぎゅっと握りしめた。
「うん……。私も、すごく楽しかったよ、陽太。あなたが私の隣にいてくれるから、私は今、こんなに前を向けてるんだよ」
誰も知らない私たちの秘密。
血の繋がらない湊兄さんを幸せにするための『共犯関係』。それは傍から見れば歪な嘘の始まりかもしれないけれど、受話器から伝わる温もりだけは、間違いなく本物だった。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ、陽太」
『おう、おやすみ。明日も楽しもうな』
カチャリ、と受話器を置くと、部屋の窓の外には、古都の静かな夜空が広がっていた。
明日もまた、光に満ちた修学旅行の続きが始まる。私たちはこの特別な旅を存分に味わいながら、日常に戻ったその先で、大切な湊兄さんのための優しい嘘を、これからも静かに、そして確実に紡ぎ続けていくのだ。




