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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第22章:泥濘(ぬかるみ)の告白、雨のち晴れ

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紡がれる波紋、継承の第一歩

「それじゃあ、まずは『波紋』の第一条件――動体視力のテストから始めるね」


全体練習が終わり、橙色の夕刻が色濃くなってきたクレーコートの片隅。私、みゆの前には、ラケットをぎゅっと握りしめた1年の佐々木ひかりちゃんと、男子部員1年の森下拓海くんが、緊張した面持ちで並んでいた。


『波紋』を体得するには、何よりもまず、相手のインパクトの瞬間を完璧に捉えなければならない。ラケットの角度、そして放たれたボールの回転と速度、コースを瞬時に、かつ正確に見極める眼が必要不可欠だからだ。


「テストって言っても、私が打つわけじゃないよ。……陽太、お願い!」


私がコートの向こう側に声をかけると、「おう、任せとけ」と、ジャージ姿の陽太が、ボールの入ったカゴを引いてネットの向こうのベースラインへと立ってくれた。

今回はテニス部の合同練習の時間を少し借りて、陽太に協力をお願いしていたのだ。私の意図をすぐに察して動いてくれる陽太の存在が、今の私には本当に心強い。


「いいか二人とも、今から俺が適当に回転をかけて球を打つ。佐々木と森下は、その球がどっちに回転してて、どのくらいの速度で、どこに落ちるか、打つ瞬間に声に出して当ててみてくれ」


陽太がラケットを軽く構える。

「じゃあ、いくぞ。第一球!」


ポン、と小気味いい音が響き、陽太のラケットからボールが放たれた。

陽太は二人のレベルに合わせて、かなり手加減した遅めの球を、分かりやすいフォームから放ってくれている。私の時のような鋭いスマッシュではなく、軌道が見えやすいロブに近いスライスだ。


「右スライス! 速度は遅め、バックコートの右隅です!」

「あ、同じく! 右回転で、私の右奥に落ちます!」


森下くんとひかりちゃんが、ほぼ同時に声を張り上げる。ボールは二人が宣言した通りのコースへ、ゆっくりとバウンドした。


「よし、正解。じゃあ次はこれだ」


陽太はその後も、トップスピンやドライブなど、回転の種類を変えながら、難易度を抑えた球を次々と打ち込んでくれた。

陽太の優しい気遣いのおかげもあって、二人の高い集中力は途切れることがない。元々『波紋』を学びたいと志願してくるだけあって、二人とも基礎的な眼の良さは持っていた。陽太が様子見で打ってくれた球に対しては、コースも回転も、難なく全問クリアしてみせた。


「二人ともすごい! 完璧だよ。それだけの眼があれば、第一段階はクリア。じゃあ、いよいよここからが『波紋』の本番ね」


私は自分のラケットを握り直し、二人の前に一歩踏み出した。


「今確認した『眼』を使って、今度は実践に移るよ。陽太の打ってくる球の回転を、自分のラケット操作で綺麗に『打ち消す』ようにして、相手のコートへ返す練習。これが『波紋』の1つ目の技術――回転の無効化だよ」


ネットの向こうで、陽太が「じゃあ、さっきよりは少しだけ回転を強くかけるからな」と、ニヤリと笑ってラケットを鋭く振る準備を始める。


「ボールがラケット面に触れる瞬間、相手の回転とは『真逆』のベクトルを、自分の手首と面操作でぶつけるの。球の勢いに負けないように、でも力んじゃダメ。水面の波を別の波で静めるように、スッと滑らせる感覚で……」


私は二人に言葉で感覚を伝えながら、まずは自分が手本を見せるために、陽太の放つ次の一球を真っ直ぐに見据えた。


「いくぞ、みゆ!」


ネットの向こうから、陽太が少し鋭いスイングでトップスピン(順回転)の球を放つ。


私はボールの回転軸を瞬時に見極めると、ラケットの面をわずかに開き、ボールの回転に合わせるようにしてラケットを滑らせる。スッ、と微かな音が響く。陽太の強烈な回転は私のガットの上で完全に相殺され、球は回転を失った無垢な軌道を描いて、陽太の足元へと綺麗に吸い込まれていった。


「……すごいです」

ひかりちゃんが息を呑み、森下くんもその流れるようなラケットワークに目を奪われている。


「さあ、今度は二人の番だよ。まずはひかりちゃんから、やってみて」

「は、はいっ!」


手本を見てイメージは掴めたはずだった。けれど、いざ実践となると、そこには高い壁がそびえ立っていた。


陽太が先ほどと同じように、やや強めのトップスピンを放つ。ひかりちゃんは懸命にボールを見極め、ラケット面を合わせて回転を殺そうとした。けれど――。

「ああっ!」

ボムッという鈍い音とともに、陽太の回転の勢いにガットが負け、ボールはひかりちゃんのラケットを駆け上がるようにして大きく上に跳ね上がり、バックアウトしてしまった。


「次は俺がいきます!」

続いて森下くんがコートに入る。彼は手首を固定し、力でねじ伏せるようにラケットを振った。しかし、今度は回転を意識しすぎるあまり面が下を向き、ボールは自分の側のネットに突き刺さってしまった。


「言葉で言うのは簡単だけど、実際にやってみると……信じられないくらい繊細な感覚が必要なんですね」

森下くんが、自分の右手のひらをじっと見つめながら悔しそうに呟く。

「うん、回転を相殺しようとすると、球の勢いが死んじゃって相手のコートに届かないし、かといって力を入れると、今度は相手の回転をまともに喰らってコースアウトしちゃう……」

ひかりちゃんも、ラケットのグリップを握り直しながら肩を落とした。


何度繰り返しても、打球はネットにかかるか、あるいは明後日の方向へと飛んでいく。かつて「孤高」とまで称されたみゆの技術が、どれほど凄まじい精度の上に成り立っていたのかを、二人は身をもって実感していた。


そんな風に焦り、落ち込みかける二人のもとへ、ネットを挟んで陽太が歩み寄ってきた。彼はラケットを肩に担ぎ、快活に笑う。


「おいおい、そんな簡単にできたら、誰もみゆの『波紋』に苦戦しねえって。最初から上手くいく奴なんていねえよ」

「河村先輩……」


陽太はカゴからボールを一つ拾い上げると、二人の手元を交互に見ながら言葉を続けた。

「俺さ、みゆがこの技術を完成させるまで、何度も何度もコートの向こうで付き合って、クソほど打ち合ってきたから分かるんだけどさ」


その言葉に、ひかりちゃんと森下くんの目が真剣に輝く。一番近くで私のテニスを見て、支えてくれた陽太だからこそ言える、特別な助言。


「二人とも、打つ瞬間に相手の球を『止めよう』としすぎなんだよ。みゆの波紋ってさ、相手の力を『受け流す』に近いんだ。佐々木は、当たる瞬間に手首の力を一瞬だけ抜いて、ボールの重さをガットで一瞬だけ包み込むようにしてみて。森下は、力で押すんじゃなくて、ラケットのヘッドの重さを利用して、ボールの回転の『逆側』を優しく撫でるイメージだ」


陽太の的確なアドバイスを聞きながら、私は胸の奥が熱くなるのを隠せなかった。

本当に、陽太は私のテニスをよく見てくれている。私が感覚の海の中で必死に掴み取ったものを、彼はこうして言葉にして、後輩たちに繋いでくれているのだ。


「陽太の言う通りだよ。二人とも、感覚は悪くない。もう一回、今の言葉を意識してやってみよう?」


私の言葉に、二人は力強く「はい!」と頷いた。夕暮れのコートに、諦めない二人の靴音が再び力強く響き始める。


「手首の力を抜いて、ボールの重さを一瞬だけ包み込む……」


陽太の言葉を呪文のように呟きながら、ひかりちゃんが再びレシーブポジションについた。

ネットの向こうから、陽太が先ほどと同じようにトップスピンの球を放つ。


ひかりちゃんは鋭く踏み込むと、打球の瞬間にわずかに手首の力を抜き、ラケット面を柔らかく滑らせた。ボムッという鈍い音ではない。カツン、と綺麗な打球音が響き、ボールは回転を削ぎ落とされながら、ふわりと綺麗な弧を描いてネットを越えた。


「あ……! 入った!」

「ナイス佐々木! いい感じじゃん!」


陽太がコートの向こうで声を弾ませる。続いて入った森下くんも、力任せのスイングを改め、ラケットヘッドの重みを利用してボールの逆側を撫でるように面を動かした。放たれた打球は、今度はネットにかかることなく、相手コートのサービスライン付近へと綺麗に弾んだ。


「よし、二人ともコツを掴んだな! じゃあ、徐々に球速を上げていくぞ!」


陽太の威勢のいい声とともに、テンポが一段階上がった。

球速が増すにつれ、見極めとラケット操作の難易度は跳ね上がる。それでも、二人は何度もコースアウトやネットミスを繰り返しながらも、食らいつき続けた。練習の終わり頃には、およそ3割くらいの確率で、陽太の生きた回転球を無効化して返球できるようになっていた。


「よし、今日はここまでにしようか。二人とも、初めてでここまでできれば十分すぎるよ」


私がそう言って締めくくると、ひかりちゃんも森下くんも、全身汗だくになりながらも、どこかやり切ったような清々しい笑顔を浮かべた。

「ありがとうございました!」と深く一礼して片付けに向かう二人の後ろ姿を見送りながら、私は心地よい充実感に包まれていた。


部員たちが全員下校し、すっかり静まり返った夕暮れのコート。

カゴに残ったボールを二人で拾い集めながら、陽太がふと、驚きを隠せないといった様子で私に話しかけてきた。


「なぁみゆ。ぶっちゃけ俺、めちゃくちゃ驚いてるんだけど」


「え? 何に?」


「あの二人の習得スピードだよ。……いや、お前が感覚を言語化するのが上手かったのもあるし、俺のアドバイスがあったってのもあるけどさ」


陽太は照れ隠しのようにハハッと笑った後、少し真面目な顔になって私を見つめた。


「普通さ、あの『波紋』の入り口に、たった一日で、しかも3割も到達できるものなのか? お前が何ヶ月も血の滲むような思いをして形にした技術だぞ。あいつら、想像以上に化けるかもしれないな」


陽太の純粋な驚きを含んだ言葉に、私はネットにラケットを立てかけ、優しく目を細めた。


「うん、本当にすごいと思う。……でもね、それはきっと、あの二人が誰よりも熱心に、私のテニスを見てくれていたからだよ」


かつての私は、自分の殻に閉じこもり、孤独の中で牙を研ぐようにして『波紋』を磨いていた。周囲を寄せ付けないオーラを放っていた私を、それでも二人は憧れの目で、じっと観察し続けてくれていたのだ。だからこそ、私の心の陰りが消えて教えを乞われたとき、二人の頭の中にはすでに、技術のイメージの土台が出来上がっていた。


「それに――」


私は一歩歩み寄り、夕日に照らされる陽太の真っ直ぐな瞳を覗き込んだ。


「陽太が一緒にいてくれたからだよ。陽太が私のテニスを誰よりも理解して、あの子たちに一番伝わる言葉で通訳してくれたから。私一人じゃ、あんなに上手く教えられなかった」


「みゆ……」


「ありがとう、陽太。やっぱり、あなたにお願いしてよかった」


私が心の底からの笑みを向けると、陽太は一瞬呆気にとられたように私を見つめ、それから少し耳を赤くして「……おう」と短く応えて顔を背けた。その不器用な優しさが、愛おしくてたまらない。


私の隣には、私の全てを知り、重荷を分け合ってくれる少年がいる。

そしてコートには、新しく私の技術を継承しようとしてくれる可愛い後輩たちがいる。


孤独だった私の世界は、あの雨の日を境に、驚くほど温かい光で満たされ始めていた。この日常を守るためなら、これからどんな嘘だって紡いでいける。私は胸の奥にある覚悟を一段と強くしながら、陽太と共に、茜色に染まるコートを後にした。


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