光の差す教室、それぞれの足音
星和祭という大きな祭りが終わり、十月の激しい秋雨が嘘のように去った後の教室は、高く澄み渡った秋の陽光に満たされていた。
窓から吹き込む風は少し冷たく、ブレザーの袖を通した肌に心地いい。黒板の前では、担任がチョークをパチパチと鳴らしながら、声を張り上げていた。
「えー、来月に迫った京都・奈良への修学旅行だが、班行動のルート表の締め切りは今週末までとなっている。各班、しっかり話し合って、金曜の放課後までに提出するように」
その言葉を合図にするように放課後のチャイムが鳴り響くと、教室は一気に賑やかな喧騒に包まれた。あちこちで机を寄せる音がして、旅行のパンフレットを広げる声が弾んでいる。
「みゆ、こっちこっち! 早くルート決めよ!」
手招きして私を呼んだのは、美咲だった。彼女の隣では、同じく班員の佐藤くんが、すでにガイドブックを広げてやる気満々といった様子でペンを回している。
「お待たせ、美咲、佐藤くん」
私が席を移動すると、美咲が嬉しそうに私の顔を覗き込んできた。
「みゆ、なんか最近、雰囲気変わったよね? うまく言えないけど……なんか、すごくスッキリした顔してるっていうか。可愛くなった!」
「えっ? そ、そんなことないよ」
美咲の突然の言葉に、私は思わず頬を染めて両手で顔を隠した。
けれど、胸の奥から込み上げてくる温かい気持ちは隠せなかった。ほんの少し前まで、私はこの教室の賑やかさの中にいても、どこか冷たい硝子の壁に隔てられたような孤独感を感じていた。自分だけが幸せになってはいけないという暗い呪縛が、いつも心に薄暗い陰を落としていたからだ。
でも、今は違う。あの雨の日、陽太が私の重荷を半分背負うと言ってくれた。そのお守りのような言葉が、私の心を芯から温め、世界をこんなにも鮮やかに変えてくれていた。
「今回の修学旅行、5〜6人のグループ行動でしょ? 私たちの班は5人だから、他クラスとの合同ルートも少しは融通利くよね。ねえみゆ、やっぱり清水寺は外せないよね!」
美咲がパンフレットを指差しながら興奮気味に言う。佐藤くんも「俺は紅葉の綺麗な嵐山とか、歴史のある場所をじっくり回りたいな」と乗ってきた。
「うん、清水寺は行きたいな。……あ、でもね、私、ちょっと他クラスの子ともルートを合わせたい場所があって」
私が少し控えめに切り出すと、美咲がニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「他クラスって、Aクラスの陽太くんでしょ? いいよいいよ、どうせなら向こうの班と現地で合流しちゃう計画にしなよ!」
「もう、美咲ったら……!」
佐藤くんも「陽太の班なら、あいつらも清水寺周辺に行くって部活前に言ってた気がするぞ。上手く時間を合わせれば、向こうで一緒に回れるんじゃないか?」と、あっさりと味方をしてくれた。周囲の優しさが、今の私にはとても愛おしく感じられる。
みんながルートのベースを考えてくれている間、私は机の下で、カバンからもう一つの小さなノートをそっと取り出した。そこには、修学旅行のルートの下書きとは別に、私と陽太が放課後にこっそりと書き連ねてきた、大切な――そして少し歪な計画のメモが挟まれている。
『兄さん幸せ計画』
それが、私と陽太が結んだ、優しくも切ない共犯関係の証だった。今回の修学旅行には高等部である湊兄さんの出番はない。だからこそ、この計画はこの学院内での日常において、湊兄さんに私以外の誰かと幸せな未来を見つけてもらうための、地道で、けれど確かなアプローチの記録だった。
放課後の話し合いが一段落した後、私は美咲たちに少し席を外すことを伝え、廊下へと出た。
向かうのは、廊下の突き当たりにあるAクラス。
陽太は私のクラスとは別のAクラスだから、普段の授業中は離れ離れだ。けれど、今の私には、少し歩けばすぐに届くその距離が、たまらなく愛おしかった。
Aクラスの教室を覗くと、ちょうど陽太も班の男子たちとガイドブックを囲んでいるところだった。私がドアの隙間から視線を送ると、彼はすぐに気づき、男子たちの輪からひょいと抜け出して廊下へと出てきてくれた。
「みゆ、どうした? こっちも今、ルート決めの真っ最中」
陽太はいつも通りの、眩しいほどの真っ直ぐな笑顔で私の前に立った。その姿を見るだけで、私の心の曇りは完全に消し去られていく。
「陽太。あのね、今週末までにルート表を提出しなきゃいけないから、陽太の班の計画と、どこで合流できるか相談したくて」
「お、ナイスタイミング。俺たちの班も、2日目の午後は清水寺の周辺をぶらぶらする予定なんだよ。みゆたちの班は?」
廊下の窓際に二人で並び、それぞれの班のルートの下書きを見せ合う。
陽太の指先が私のノートの余白に触れる。その些細な距離感に、ドクンと胸が小さく跳ねた。陽太の班は6人グループ、私の班は5人グループ。お互いの班のメンバーも仲が良いから、現地での合同行動は問題なさそうだった。
「じゃあ、この時間のここで合流ってことにしよう。それなら、お互いの班の自由時間も削られないしな」
「うん、ありがとう、陽太。……それと、これ」
私は周囲に人がいないことを確認してから、ノートの間に挟んでいた『兄さん幸せ計画』のメモを陽太に少しだけ見せた。
陽太はそれを見て、悪戯っぽく、けれどこれ以上ないほど頼もしい笑みを浮かべて声を潜めた。
「分かってる。こっちの計画も、学院内でじわじわ進めよう。湊さんを慕ってる女子の噂とか、俺のネットワークで少しずつ絞り込んどくからさ。修学旅行から帰ってきたら、本格的に仕掛けようぜ」
「うん。……よろしくね、陽太」
陽太は「任せとけって」と言って、私の頭をポンポンと優しく叩いた。
血の繋がらない湊兄さんを、世界で一番幸せにする。そのために、私たちはどんなキューピッドにでもなる。
窓の外には、どこまでも高く青い十月の秋空が広がっていた。これから待ち受ける修学旅行という光に満ちたステージを楽しみながらも、私と陽太は、日常に戻ったその先で湊兄さんを水瀬家の贖罪から解き放つための優しい嘘を、静かに、そして確実に紡ぎ始めようとしていた。




