番外編:硝子の檻の管理人(雫視点)
### 第21章番外編:硝子の檻の管理人
#### 前編:覚悟の重さと、妹の決意
星和祭という狂騒が終わりを告げたその日の夜。我が家のリビングは、いつもの静寂を取り戻していた。
ステージを大成功に収めた湊が、バンドメンバーたちとの打ち上げで今夜は遅くなることは事前に聞いていた。主役のいないリビングは広々としていて、どこか冷ややかだ。私はソファに深く腰掛け、温かいハーブティーを口に含みながら、時計の秒針が刻む規則正しくも残酷な音を聞いていた。
あの子――みゆが、私の前に立ったのはそんな時だった。
「……陽太に、全部話そうと思うの」
みゆの口から飛び出したその名前に、私の指先がピタリと止まる。
心臓の奥が、冷たい氷の針で突かれたように収縮した。お気に入りのマグカップをテーブルに置く僅かな音さえ、この静まり返った空間では重く響く。私はゆっくりと顔を上げ、妹の瞳を見つめた。
そこにいたのは、数日前まで罪悪感に押しつぶされ、己を罰するように自傷を繰り返していた、あの脆い妹ではなかった。
学校の屋上で、あの河村家の少年と何を話したのかは知らない。けれど、今のみゆの瞳には、かつてないほどの強い光――「覚悟」が宿っていた。
(話す、ですって……?)
私の胸の奥で、どす黒い感情が鎌首をもたげる。
水瀬家が十四年間、血を吐くような思いで守り続けてきた欺瞞。神崎夫妻の命を食らって生き残った私たちが、湊を「普通の男の子」として完璧に幸せにするために築き上げてきた、美しい硝子の檻。それを、部外者であるあの少年に開け放つと言うの。
「みゆ。話してしまったら、もう二度と後戻りはできないわよ」
気がつけば、私の声はいつになく低く、冷徹な響きを帯びていた。
これは警告であり、私なりの最後の慈悲でもあった。
真実の重さを、みゆはまだ本当の意味では理解していない。神崎夫妻の凄惨な事故、湊の本当の出自、そして我が家が背負う底なしの贖罪。それを普通の男の子に背負わせるということが、どれほど残酷なことか。彼を巻き込めば、彼の人生すら歪ませる。最悪の場合、みゆ自身が彼に拒絶され、その手で大切な絆を粉々に砕くことになる。
「陽太くんは、普通の男の子よ。その彼に、あの事故の真実を、湊がこの家にいる本当の理由を背負わせるの。彼はきっと、あなたを想うあまり、その重さに一緒に苦しむことになる。……その覚悟は、できているの?」
私の冷たい視線を受け止めながら、みゆは一瞬だけ、痛みに耐えるように胸元をきゅっと 握り締めた。
けれど、その身体が恐怖で逃げ出すことはなかった。
「うん……。壊れることを怖がって真実を隠し続けるなら、私が陽太を好きな気持ちこそが『偽物』になっちゃうから。どんな結果になっても、私は陽太を信じて、全部受け止める」
真っ直ぐな言葉だった。濁りのない、純粋なまでの信頼。
その光に触れた瞬間、私の中にあった頑なな拒絶が、音を立てて崩れていくのを感じた。
(ああ、この子は……もう、私の手の届かないところへ行ってしまったのね)
私は小さくため息をつき、自嘲気味に微笑んだ。
私は湊を「完璧な幸福」の中に閉じ込めるためなら、悪魔にでもなる覚悟で生きてきた。湊に近づく女を裏で冷酷に選別してきたのも、すべては神崎の血を、祥子さんの遺言を守るため。
けれど、みゆは違う。みゆは、自分の犯したかもしれない(と錯覚している)罪と、大好きな少年への愛の狭間で、ボロボロになりながらも「誠実さ」を選んだのだ。
「……わかったわ。みゆがそこまで決めているなら、私はもう止めない」
私の口から出た言葉は、自分でも驚くほど穏やかだった。
お父様の日記にあった言葉が脳裏をよぎる。『この凄惨な真実は、湊にも、そしていつか成長するみゆにも、決して明かしてはならない』。親の遺志を裏切ることになるかもしれない。けれど、一人で暗闇を彷徨い、己を傷つけ続けてきたこの哀れな妹には――。
「むしろ……これからのあなたには、陽太くんのような真っ直ぐな『光』が隣にいてくれた方が、いいのかもしれないわね」
歪んだ水瀬家の中で、一人で毒を飲み干そうとしていたみゆに、その光は必要なのだと、私は認めざるを得なかった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
安堵の表情を浮かべたみゆは、続けて、お父様の書斎にある「古い日記のアルバム」を持ち出したいと言ってきた。
それに対しては、私は一瞬の猶予もなく、毅然とした態度で首を振った。
「それは駄目」
あのアルバムは、水瀬家の、そして神崎家の血の証拠そのもの。我が家のいちばんの機密であり、万が一にも紛失したり、第三者の目に触れるようなリスクは一滴たりとも許容できない。それは私の、管理人としての譲れない一線だった。
「その代わり――必要な部分だけ、あなたのスマートフォンで写真に撮っておきなさい」
私はみゆの手を優しく握り、その目を見つめて、呪詛のような、けれど絶対のルールを告げた。
「そして、陽太くんにすべてを伝え終わったら……そのデータは、その場ですぐに完全に破棄すること。それが、水瀬家の人間として、あなたが守るべき最低限のルールよ」
「……うん。分かった。メモにして、終わったらすぐ破棄するね」
みゆは力強く頷いた。
目の前にいる妹は、もう守られるだけの子供ではない。一つの家を破滅させかねない爆弾の信管を、自らの手で引き抜きに行こうとする、一人の覚悟を持った女性の顔をしていた。
私はその夜、みゆが書斎で静かにスマートフォンのシャッターを切る音を、リビングで一人、冷め切ったハーブティーを啜りながら聞き続けていた。
明日、この家と、隣の河村家の運命が、静かに動き出す。
翌日。朝から世界を閉ざすように降りはじめた雨は、午後が過ぎる頃には激しい豪雨へと変わっていた。
窓硝子を激しく叩く雨音を聞きながら、私はリビングの窓辺に立ち、外の白く霞む景色をじっと見つめていた。視線の先にあるのは、すぐ隣にある河村家の、陽太くんの部屋の窓だ。カーテンが閉め切られたその部屋の中で、今頃みゆは、あの凄惨な真実をすべて打ち明けているのだろう。
(十四年前のあの日も、こんな雨だったわね……)
脳裏をよぎるのは、血の気の引いたお父様の筆跡で記されていた、あの日記の記憶。
神崎夫妻の命を呑み込んだ、国道四号線の濁流のような嵐。あの夜の産声から始まった我が家の長い長い贖罪が、今、すぐ隣の部屋で一人の少年に開示されている。時計の針が刻む一分一秒が、まるですくい取れない砂のように私の心を焦らせていく。
(陽太くん、あなたはみゆを拒絶するかしら。それとも、その重さに耐えかねて逃げ出すのかしら……)
もしそうなれば、みゆの心は今度こそ完全に壊れてしまう。あの子が自分の出自に耐えきれなくて家を飛び出したあの日、もう帰ってこないのではないかという不安がよぎった。それが今度こそ現実になってしまう最悪の想像が胸を過り、私の指先は冷たく強ばっていった。
その時、玄関の扉が開く重い音が、激しい雨音の隙間を縫って響いた。
心臓が跳ねる。みゆが帰ってきたのかと息を呑んで廊下へ向かうと、そこに立っていたのは、大きなビニール傘を差して帰宅した湊だった。
星和祭の期間だけの限定だったバンドの打ち上げは、昨夜のうちにすべて終わっている。今日は通常の部活の予定だったはずだが、この大雨だ。グラウンドはもちろん使えず、ミーティングだけで早めの帰宅となったのだろう。
「ただいま、雫姉さん。すごい雨だ、部活はミーティングだけで中止になった」
湊は濡れた髪を軽く払いながら、いつも通りの屈託のない、笑顔を私に向けた。
彼の実の両親を奪った、あの呪わしい夜と同じ雨。それなのに、何も知らない湊は、ただの「激しい初夏の雨」としてそれを受け入れている。そのあまりの無邪気さが、私の胸を鋭く突き刺した。
「おかえりなさい、湊。本当に酷い雨ね、風邪をひかなかった?」
「ああ、大丈夫だ。……ん? みゆは? あいつもテニス部だし、一緒にあがったと思ったんだが、まだ帰ってないのか?」
湊がリビングを見回しながら、当たり前のように妹の姿を探す。その瞳に宿る微かな執着を、私は見逃さなかった。みゆの実の兄として振る舞いながら、その実、心の奥底で「妹」以上の感情に蓋をして苦しんでいる湊。血が繋がっていないという真実さえ知れば、その呪縛から解き放たれるというのに、彼は何も知らされていない。
「みゆなら、お隣の陽太くんのお家に寄ってから帰るそうよ。雨が酷いから、雨宿りも兼ねてね」
私はできるだけ声を平坦に保ち、いつもの優しい姉の微笑みを湛えて言った。
嘘ではない。けれど、その「雨宿り」の間に、自分たちの運命の根底を揺るがす真実が語られているとは、湊は夢にも思っていないだろう。
「そっか……陽太のところに」
案の定、湊の表情がほんの一瞬だけ、苦そうに曇った。
彼は無意識のうちに、みゆを自分だけのものにしておきたいという独占欲を滲ませている。実の妹だと思い込んでいるからこそ、その感情を必死に理性でねじ伏せ、お兄ちゃんとしての仮面を被り直そうとする湊。
その姿が、愛おしく、そして同時に酷く哀れに思えた。
「温かいココアでも淹れてあげるから、先に着替えていらっしゃい」
「はぁ、子供じゃないんだから。……でも、姉さんのココア、もらうよ」
湊は嬉しそうに笑って、自分の部屋へと階段を上っていった。
彼の背中を見送りながら、私はキッチンへと向かう。お湯を沸かす単調な音が響く中、私の視線は再び、窓の外の激しい雨へと向かっていた。
あの硝子の檻の中で、少年は今、どんな答えを出そうとしているのか。
そして, 帰ってくるみゆは、一体どんな顔をしてこの扉を開けるのか。
私はただ、破滅と救済のどちらかが訪れるのを待つ、冷徹な監視人のように、沸騰していく湯気を見つめ続けていた。
湊に温かいココアを渡してから、さらに一時間が過ぎた頃。
あれほど世界を激しく叩きつけていた雨音が、嘘のように遠のいていった。
窓の外を見遣れば、分厚い雨雲の切れ間から夕暮れの柔らかな光が差し込み、世界をオレンジ色に染め上げている。
ガタ、と玄関の鍵が回る音が静かな我が家に響いた。
私の心臓が、今日一番の緊張で小さく跳ねる。
キッチンから廊下へと歩みを進めると、そこには、濡れた傘を傘立てに収めるみゆの姿があった。
「ただいま、お姉ちゃん……」
みゆが振り返り、私と視線が交差する。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた跡があり、酷くひどい顔をしていた。……けれど。
(ああ、よかった……)
私は胸の奥で、深く、長い安堵のため息を吐いた。
あの子の瞳からは、昨日まで彼女の心を支配していた、あの暗く鋭い「刃」のような絶望が完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、一人の少年の温もりに守られ、そのすべてを受け止めてもらった者だけが持つ、穏やかで力強い光だった。
河村家のあの少年は、逃げ出さなかったのだ。
水瀬家と神崎家の血塗られた過去を、みゆの罪悪感を、そのすべてを「一緒に背負う」と、あの真っ直ぐな瞳で言い切ったのだろう。
「おかえりなさい、みゆ。……いい顔をして帰ってきたわね」
私が優しく微笑みかけると、みゆは少し照れくさそうに、けれど今日一番の、偽りのない綺麗な笑顔を私に返してくれた。
「うん。……お姉ちゃん、約束通り、データは全部消したよ。一枚も残さずに、ちゃんとその場で」
「ええ、偉いわ。これで、あの真実を知る者は、この世でほんの数人だけになった」
私たちが静かにそんな会話を交わしていると、階段の上から「みゆ? 帰ってきたのか?」と、湊が顔を覗かせた。
「あ、湊兄さん。ただいま」
みゆは何の淀みもなく、いつもの「妹」としての明るい声を湊に投げかける。その完璧な振る舞いに、私はみゆの確かな成長と、同時に、これから始まる歪な関係への覚悟を見た。
「陽太のところで雨宿りしてたんだろ? 連絡くらいしろよ、心配するだろ」
湊は少し拗ねたような、けれど嬉しさを隠せない表情で階段を下りてくる。みゆのすぐ隣に立ち、その頭を無邪気に撫でる湊。彼は、今この瞬間も、自分が「神崎湊」という名の、水瀬家とは血の一滴も繋がっていない存在だとは微塵も思っていない。そして、自分の愛する妹が、隣の家の少年と「自分を完璧に幸せにするための秘密」を共有する共犯者になったことも、何も知らない。
「ごめんね、兄さん。話し込んじゃって」
みゆは湊に触れられている間も、もうかつてのように罪悪感で身体を強ばらせることはなかった。ただ静かに、その兄の愛おしさと重さを受け止めている。
私はその二人の姿を、一歩引いた場所からじっと見つめていた。
(これでいいのよ、湊)
あなたは何も知らなくていい。その綺麗な瞳のまま、水瀬家の長男として、ただの「幸せな男の子」でいればいい。あなたの知らないところで、みゆと私は、そして新しく加わったあの少年は、あなたの幸福の檻を維持するために、どんな嘘でも紡いでみせる。
「さあ、二人とも。ご飯にするから、手を洗っていらっしゃい」
私の声に、二人が「はーい」と声を揃えて返事をする。
いつもの、どこにでもある幸せな水瀬家の日常。
けれどその床下には、誰も触れられない秘密の残火が、今も静かに揺らめいている。新緑の夜が訪れる中、私は管理人として、この硝子の檻をどこまでも美しく守り抜くことを、改めて心の奥底で誓うのだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
21章はここまでです。
全国大会編まで後一ヶ月と少しあるのでもうしばらく学園の話が続きます。




