紐解かれる糸、これからの覚悟
私の涙がようやく乾き、激しかった雨音が遠い遠鳴りのように落ち着き始めた頃。
私たちは少し距離を戻し、陽太の部屋のベッドの縁に並んで腰を下ろしていた。
陽太はブレザーのポケットに手を突っ込み、何かを深く咀嚼するように、じっと自分の足元を見つめている。その横顔には、さっきの熱い激昂から一転して、冷静に事実を整理しようとする冷徹なまでの真剣さがあった。
「……そっか。そういうことだったんだな」
陽太はぽつりと呟き、前髪を大きくかき上げた。
「お前が時々、俺の届かない遠いところを見てたのも。……それに、お前が自分の体をわざと傷つけるような真似をしてたのも、全部、その罪悪感から自分を罰しようとしてたんだな」
「っ……」
見抜かれていた。私が一人で抱えていた暗い衝動の理由が、この真実によってすべて陽太の中で繋がったのだ。陽太は私を責めるような真似はせず、ただ事実を確認するように、いくつかの質問を静かに投げかけてきた。
「みゆ、いくつか確認させてくれ。……まず、湊さん自身は、自分が神崎家の人間だってこと、この真実を本当に何も知らないんだな?」
「うん……。お父さんも日記に『決して明かしてはならない』って書いていたし、兄さんは自分のことを、水瀬家の本当の長男だと信じ切っているわ」
「じゃあ、逆に……湊さん以外の水瀬家の人たちは、全員知ってるってことか?」
「ええ。お父さんもお母さんも。雫お姉ちゃんも、すべてを知った上で、あの家で兄さんを育ててきたの。……だからお姉ちゃんは、兄さんのためなら何だってする覚悟を持ってる」
陽太はそこで、何か腑に落ちたというように小さく息を吐いた。
「なるほどな……。ずっと疑問だったんだよ。湊さん、あれだけ顔も良くてテニスもプロ並みの実力だ、立っているだけでも絵になるからモテるだろうに、なんで今まで一度も彼女ができなかったのか。……あれ、雫さんが裏で相手を選別して、近寄らせないようにしてたんだろ」
「……気づいてたの?」
「薄々はな。先輩に近づこうとする女子が、なぜかみんな事前に不幸が訪れて関係を持つ前に諦めていくのを見てたから。……そっか、雫さんにとっちゃ、湊さんを『完璧に幸せにする』ことが至上命令だから、中途半端な女を近づけたくなかったわけだ」
お姉ちゃんの徹底した管理の理由。それもすべて、祥子さんから託された「あの子にはただの幸せな男の子でいてほしい」という願いを守るための、水瀬家の歪なまでの過保護だった。
しかし、陽太の次の質問は、私の胸の最も深いところを鋭く突くものだった。
「……じゃあさ、みゆ。湊さんは、お前のことをどう思ってるんだ?」
「え……?」
「男として、だよ。湊さんは、お前のことが『妹』としてじゃなく、好きなのか?」
部屋の空気が張り詰める。私は膝の上で指を絡ませ、小さく震えながら、ずっと胸の奥に閉じ込めていた実感を口にした。
「……たぶん、意識していると思う」
「……」
「兄さんは、私のことを実の妹だと信じ切っているから……だからこそ、その感情に必死で蓋をして、理性を保って、兄を演じているんだと思うの。でも、時々向けてくる視線や、私への執着の強さは……普通の兄妹のそれじゃないって、私自身も、お姉ちゃんも気づいてる」
血が繋がっていない。その真実を知らないのは、当事者である兄さんだけ。そして兄さんは、実の妹への禁断の想いに一人で苦しんでいるのだ。
陽太は静かに私の言葉を聞き終えると、窓の外の雨を見つめながら、最後に一番重い問いを投げかけてきた。
「もしさ……。もし、何かの拍子で、湊さんがその真実を知っちゃったら……その時、お前はどうするつもりだ?」
取り返しのつかない、水瀬家の崩壊。その瞬間を想像して、私は一瞬だけ身震いした。
けれど、陽太の温もりがまだ残るこの手を見つめ、私は覚悟を込めて答えた。
「……その時は、すべてを受け入れるつもり。兄さんが私を憎んでも、家を出ていっても、あるいは……どんな感情を私にぶつけてきても。私は逃げずに、兄さんの人生のすべてを背負うわ」
それが、私の産声から始まったこの物語の、本当の結末になるのだとしても。
私の揺るぎない答えを聞いた陽太は、「そっか」と短く言うと、今度は迷いのない力強い手で、私の頭を優しく、包み込むように撫でてくれた。
「……お前が全部受け止めるって言うなら、やっぱり、俺もその隣にいるよ」
陽太は私の頭を撫でていた手をゆっくりと離すと、悪戯っぽく、けれどどこか頼もしい笑みを浮かべた。
「湊さんが真実を知ってどうなるかは、その時になってみないと分かんねえ。でもさ、もし湊さんがお前を責めたり、一人で抱えきれないほどの感情をぶつけてきたりしたら……その時は、俺が湊さんの前に立って、お前を守る。そのためにも、俺がもっと強くならねえとな」
「陽太……」
「よし、話は終わり! 暗い顔はもう禁止!」
陽太はそう言ってポンと自分の膝を叩くと、勢いよく立ち上がった。彼のその眩しいほどの切り替えの早さに、私の胸の奥に澱んでいた冷たい霧が、完全に消し去られていくのが分かった。
いつの間にか、窓を叩いていた激しい雨の音は止んでいた。
陽太が部屋のカーテンを大きく開けると、雲の切れ間から夕暮れの柔らかな光が差し込み、雨に濡れた隣の我が家の外壁を、オレンジ色に優しく染め上げていた。
「あ、雨、上がったね……」
「ああ。これなら傘を差さずに帰れるな。……ほら、雫さんたちも心配してるだろうし、そろそろ送るよ」
「うん、ありがとう」
カバンを肩にかけ、私は最後に陽太の部屋を振り返った。
ここに来る前とは、世界がまるで違って見える。背負っている過去の重さは何も変わっていないはずなのに、隣に陽太がいてくれるというだけで、一歩を踏み出す足がこんなにも軽い。
玄関を出ると、雨上がりの独特な土の匂いと、涼しい風が私たちの頬を撫でた。
わずか数十歩の、隣の家までの短い距離。
私たちはどちらからともなく、並んで歩く歩幅をゆっくりとした。
「みゆ」
我が家の門扉の前に辿り着いたとき、陽太が足を止め、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「今日約束したこと、忘れるなよ。一人で背負わないこと。湊さんを、俺たち二人で幸せにすること。……分かった?」
「うん、分かってる。……本当にありがとう、陽太」
私は今日一番の笑顔を陽太に返した。
陽太は満足そうに頷くと、「じゃあな、また明日学校で」と手を振り、自分の家へと戻っていく。その背中を見送りながら、私は自分の胸に手を当てた。
(私は、もう一人じゃない)
インターホンを押し、我が家の重い扉を開ける。
中からは、いつものように温かい光と、静かな空気が出迎えてくれた。これから待ち受ける未来がどれほど過酷なものであっても、この光の少年と共に歩んでいくのだと、私は新緑の夜空に向かって静かに誓った。




