雨音の部屋、開かれる真実
星和祭が明けて数日後、空は朝から厚い雨雲に覆われていた。
放課後のチャイムが鳴り響く頃には、窓の外は激しい雨の音で満たされ、まるで私の心を見透かしているかのような、重苦しい世界が広がっていた。
「みゆ、いこうか」
昇降口の薄暗い光の中で待っていた陽太が、私を見つけていつも通り優しく微笑む。彼のブレザーの肩が、吹き込む雨風で少しだけ濡れていた。
「うん。……待たせてごめんね」
私たちはそれぞれ傘を差し、並んで雨の通学路を歩き出した。
普段なら、部活の帰り道に二人で歩くだけでも、胸の奥がくすぐったいような甘い痛みに満たされるのに、今日ばかりは一歩進むたびに足元が泥に沈んでいくような重さがあった。アスファルトを激しく叩く雨音が、私たちの間の沈黙をこれ以上ないほど雄弁に埋めてくれる。
約束通り、今日がその真実を話す日。
他のお客さんがいるかもしれないカフェや、いつ誰に聞かれるか分からない公園ではなく、陽太は「俺の家なら親も遅いし、二人きりで落ち着いて話せるから」と提案してくれたのだった。
向かうのは、我が家のすぐ隣にある河村家。
子供の頃から見慣れたその家に入り、階段を上って陽太の自室へと向かう。
「適当に座って。今、温かいものでも淹れるから」
「あ、ううん、大丈夫。……それより、早く話してしまいたいから」
陽太の部屋は、彼らしいすっきりとした男の子の部屋で、微かに彼の匂いがした。
ふと窓の外へ視線をやると、激しい雨の向こう、すぐ隣にある私の家の外壁が白く霞んで見えた。あの窓の向こうにはいつも私がいて、この窓の向こうにはいつも陽太がいた。そんな、一番近くて安心できるはずの場所が、今はまるで、真実を暴くための密室のように思えて仕方がなかった。
ビニール傘の雫を払う手も、カバンを置く手も、微かに震えてしまう。
私はカバンの中から、スマートフォンをそっと取り出した。そこには、雫お姉ちゃんに許可をもらい、あの日お父さんの書斎で見つけた古い日記の必要な部分だけを撮影した画像が入っている。伝え終えたら、すぐに消さなければならない、我が家の痛切な記録だ。
陽太は私の切羽詰まった様子を察したのか、いつもの悪戯っぽい笑みを完全に消し、静かに私の正面、ベッドの縁に腰を下ろした。
月光の下で私を強く抱きしめてくれた、あの真っ直ぐな瞳が、今はただ静かに、迷いなく私を捉えている。
画面を起動する直前、私はスマートフォンを握る手にぐっと力を込め、俯いたまま声を絞り出した。
「……陽太。今から私が話すことは、きっと、陽太にとってすごく大きな重荷になっちゃうと思う。これを知ったら、陽太を水瀬家の暗い過去に巻き込むことになるの。……今ならまだ、引き返せるよ。本当に、聞いてもいい……?」
私の最後の警告。陽太を傷つけたくないという、私の精一杯の抵抗だった。
けれど、陽太は少しも怯むことなく、むしろ私の弱音を包み込むように、優しく、けれど強く言い切った。
「いいよ。引き返すつもりなんて最初からない。お前の重荷なら、俺が半分背負うって決めたんだから」
その揺るぎない覚悟に、私は小さく息を呑んだ。そして、涙を堪えながらゆっくりと画面を起動した。青白い光が、薄暗い部屋の中で私の指先を冷たく照らし出す。
「陽太、驚かないで聞いてね」
私は声を震わせながら、ゆっくりと、けれどこれ以上ないほど明確に、一枚目の画像を見つめながら言葉を紡ぎ出した。
「我が家の湊兄さん……兄さんはね、お父さんとお母さんの本当の子供じゃないの。兄さんの本当の名前は『神崎湊』。私とは、血が繋がっていないの」
ドクン、と胸の鼓動が跳ねる。
陽太の眉が、ピクリと動いたのが分かった。けれど、彼は私の言葉を遮ることも、茶化すこともなく、ただ私の次の言葉を待つように、じっと耳を傾けていた。窓を叩く雨音だけが、私たちの間で不気味にそのボリュームを増していった。
ご指摘ありがとうございます。祥子さんの座席位置の矛盾、およびお父様(健一さん)の日記の記述について、ご提示いただいた原文に完全に準拠し、整合性を厳密に合わせて中編を再構築いたします。
徹さんが運転席、その後部座席に祥子さんと恵子さんが同乗していたという正しい状況と、健一さんが当時抱いた「安堵してしまった自分への嫌悪と贖罪」のニュアンスを正確に反映します。
「血が、繋がってない……? 湊さんが……?」
陽太の声が、微かに掠れた。いつもどんな逆境でも不敵に笑う彼の顔から、すっと血の気が引いていくのがわかる。ブレザーの上の両拳が、無意識のうちにぎゅっと固く握りしめられていた。隣の家で、実の兄妹として仲良く育ってきた私たちを知っている陽太にとって、それがどれほど信じがたい言葉なのか、彼の動揮が痛いほど伝わってくる。
私はスマートフォンの画面をスクロールし、十四年前のあの日――六月二十日の凄惨な記録が写る画面を、陽太の前に差し出した。
「十四年前の六月二十日。……私が生まれた日、外は今日みたいな激しい豪雨だったの。お父さんは仕事で遠方にいて、お母さんの急な破水に立ち会えなかった。絶望的な状況の中で、電話一本で駆けつけてくれたのが、お父さんの大親友だった神崎徹さん……兄さんの、本当のお父さんだった。徹さんは『恵子さんは俺が必ず病院へ届ける。安心しろ、任せておけ』って言って、お母さんを車に乗せてくれたの」
窓を叩く激しい雨音が、まるで当時の嵐のように部屋の中に響き渡る。私は乾く唇を舌で湿らせ、必死に声を繋いだ。
「徹さんが運転するセダンの後部座席に、徹さんの奥さんの祥子さんと、私のお母さんが同乗して病院へ向かった。……でも、国道四号線の交差点で、激しい雨で視界が遮られる中、信号無視で突っ込んできた大型車が、時速八十キロを超える速度で車の右側面に激突したの。衝撃を直接受けた運転席の徹さんは、即死だった……」
「っ……!」
陽太が短く息を呑み、のどを鳴らした。彼の瞳が、信じられないというように大きく見開かれ、画面の文字と私の顔を激しく往復する。いつも真っ直ぐな彼の視線が、初めて恐怖を孕んで泳いでいた。
「でも、奇跡はその後に起きていたの。後部座席で隣り合っていた祥子さんが……激しい衝突の瞬間、自らの体を覆いかぶせるようにして、私のお母さんを守り抜いてくれた。車体はひしゃげて鋼鉄の塊と化していたけれど、祥子さんの背中が盾になってくれたから、お母さんと、お腹の中にいた私への衝撃は最小限に食い止められたの。お母さんは意識朦朧とする中、搬送先の病院で私を産んだ。神崎夫妻の命と引き換えにするようにして、私は産声を上げたの」
「そんな、ことが……」
陽太の額に、じわりと汗が浮かぶ。彼の手が小さく震え、ベッドのシーツを硬く掴んだ。テニスの試合でどれほど追い詰められても決して崩れない陽太の体が、今はまるで、言葉の重みだけで今にも崩れ落ちそうに揺れている。
私は涙を拭うこともせず、日記のさらに奥、お父さんの震える筆跡が残るページをなぞった。
「病院に駆けつけたお父さんは、お母さんと私が無事だったと聞いて、その場に膝をついて安堵の涙を流したの。でも、その安堵はすぐに打ち砕かれた。麻酔から覚めたお母さんが暴れて、私たちは二人で、隣の処置室で最期の時を待っていた祥子さんのベッドに向かったわ。祥子さんの全身は見るも無惨な傷に覆われていたけれど、私たちが近づくと、薄く目を開けて、生まれたばかりの私の小さな手を冷え切った指先で握り返してくれたの。そして、一筋の涙を流しながら、お父さんたちにこう言ったの……」
私は画面に映る、祥子さんの最期の言葉を震える声で読み上げた。
『みゆちゃん……。無事で、よかった……。……お願い、健一さん、恵子さん……。湊を引き取って育てて欲しいの。あの子のことが、ずっと気がかりなの。……みゆちゃん、湊と一緒に、……幸せになってね。あの子を……水瀬の子として、……私の分まで……。……湊には、……悲しい思いをさせたくないの。……あの子には、……ただの幸せな男の子で……いてほしい……』
「祥子さんは、最後に満足げな微笑みを浮かべて息を引き取った。お父さんの日記にはね、こう書いてあったわ。『恵子が無事だったことに安堵した自分を、私は一生許さないだろう。私たちの幸福は、神崎家の絶望の上に築かれた、あまりにも身勝手な供物だ』って。……親友夫妻の命を食らって生き残った私たちが背負うべき、最低限の義務として、湊兄さんを本当の息子以上に愛し、この真実は誰にも明かさないと誓ったの」
私の声は、もう完全に涙で割れていた。陽太は息をすることさえ忘れたように硬直したまま、青白いスマートフォンの画面、そしてそこに残る乾いた涙の痕の画像を見つめている。その瞳には、かつてないほどの衝撃と、言葉にできない動揺が激しく渦巻いていた。
「……これが、私が知ってしまったすべて」
私の声は、窓を叩く雨音にかき消されそうなほど震えていた。
陽太は言葉を失ったまま、微動だにせず画面を見つめている。彼のいつもは快活な横顔が、今は見たこともないほど蒼白になり、まるで魂を抜かれたかのように硬直していた。私がこれほどおぞましい犠牲と、水瀬家が背負う贖罪の歴史の真ん中に立っていることを知り、その衝撃の大きさに胸を痛めているのが痛いほど伝わってくる。
「今日、私がここにいること。テニスをして、みんなと笑って、陽太と出会えたこと……そのすべての幸せは、兄さんの本当のご両親の命を奪って咲いた、毒の花でしかないの」
私は溢れ出る涙をブレザーの袖で拭うこともせず、膝の上でスマートフォンの画面を操作した。
お姉ちゃんとの約束。お父さんの日記を撮影した画像ファイルを、一枚ずつ、確実にゴミ箱へと移動させていく。
『完全に消去しますか?』
システムからの冷たい問いかけに、私は迷わず『はい』をタップした。青白い光が消え、画面はただの暗い硝子へと戻る。これで、証拠はすべて消えた。
「私の誕生日は、兄さんの本当の両親の命日。私の産声は、兄さんの幸せを永遠に奪い去った合図だったんだよ。……私が産まれてこなければ、神崎夫妻は死なずに済んだ。兄さんは、普通の幸せな家庭で、大好きな両親に愛されて育つことができたのに、私のせいで人生を狂わされたの」
スマートフォンをカバンへと戻し、私は胸の前で両手を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。けれど、その痛みさえも、私が背負うべき罪の一端のように思えた。
「だから……私には、陽太と付き合って、自分だけ幸せになる資格なんて、最初からなかったの。お母さんを庇って亡くなった祥子さんのためにも、私はこの家で一生、自分の幸せを諦めて、兄さんを贖罪として支えていかなくちゃいけない。それが、私がこの世界に生まれてきてしまった唯一の理由だから……っ」
顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった視線のまま、私は陽太を真っ直ぐに見つめた。
「全部、話したよ、陽太……。これが、私があなたを拒絶した理由。私が、あなたの隣にいてはいけない本当の理由なの……」
すべてを吐き出した部屋の中には、ただ、激しい雨が窓を叩く音だけが容赦なく響き渡っていた。私は激しく肩を上下させながら、陽太が下すであろう残酷な、あるいは哀れみに満ちた答えを待つように、ただただ泣きじゃくっていた。




