資格なき少女と、少年の決意
屋上のフェンスに身を預けると、ひんやりとした秋の夜風が、三日間の熱気で火照った体を優しく包み込んでくれた。
校庭から響くフォークダンスの音楽は、ここまで来るとどこか遠い国の出来事のように心地よく、微かに響く。パチパチと爆ぜるキャンプファイヤーの赤い光が、校舎の壁を不規則に揺らしていた。眼下に広がるその光景は、眩しいほどに温かい。
けれど、今の私があの温かい輪の中に飛び込むことは、決して許されない。
――十四歳の誕生日に知ってしまった、血の滲むような真実。
あの日、お父さんの書斎で見つけた古い日記と、黄ばんだ新聞記事。それが私の世界のすべてを壊した。
私の命は、神崎夫妻の犠牲の上に築かれた、あまりにも身勝手な供物だ。だからこそ、私には陽太との恋を楽しむ資格なんて最初からなかった。
だから私は、陽太への恋心を完全に諦め、私のせいで人生を狂わされた湊兄さんを幸せにすること。湊兄さんの支えとなり、この家に贖罪として尽くすことだけ。
フォークダンスに参加すれば、必然的にあの温かい日常の輪に入ることになる。何不自由ない普通の少女として、みんなと手を繋ぎ、笑顔を交わし合う。
(……私には、やっぱりそんな資格はないよ)
誰も悪くない、けれど決して覆らない事実。だからこそ、みんなの幸せそうな喧騒をこうして遠くの屋上からひっそりと見守ることだけが、私に許された唯一の、そして一番お似合いの場所なのだ。
そう自分に言い聞かせ、夜空に消えていく火の粉を見つめていた、その時だった。
――ガチャン。
静寂に包まれていた屋上に、鉄の扉が重くきしむ音が響いた。
「――はぁ、やっぱりここにいた」
驚いて振り返ると、そこには少し息を切らし、首の後ろを気恥ずかしそうにかきながら歩いてくる河村陽太の姿があった。月光に照らされた彼の真っ直ぐな瞳が、迷いなく私を捉える。
「陽太……? どうしてここに……」
「どうしてって、探したよ。クラスの連中に聞いても誰も見てないって言うし。……こんなところにいたのか、みゆ」
陽太はブレザーのポケットに手を突っ込み、私の隣まで歩み寄ってくると、不思議そうに校庭を見下ろした。
「フォークダンス、参加しないのか? もうすぐ始まっちまうぞ。ほら、みんな楽しそうに並んでるし、お前が行かないと美咲たちも寂しがるだろ」
その屈託のない言葉が、今の私には少しだけ眩しすぎて、胸が引き裂かれそうになる。私は陽太からそっと視線を外し、寂しそうな微笑みを浮かべながら静かに首を振った。
「ううん、私はここでいいよ。下は賑やかすぎるし、上からこうして見ている方が、私には合っているから……」
はっきりと参加を拒むような私の態度に、陽太は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。けれど、すぐにその端正な顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべ、一歩、私との距離を詰めてきた。
「なんだそれ。……じゃあさ、俺とここで踊らないか?」
「え……?」
「ここならさ、誰も見てないし。あいつらに冷やかされることもねーだろ? ほら、音楽なら下からちゃんと聞こえてくるしさ」
陽太はそう言って、少し照れくさそうにしながらも、真っ直ぐに右手を私へと差し出してきた。
彼がくれる独特の温かさと、驚くほど積極的なアプローチ。差し出されたその手を握ってしまえたら、どれほど救われるだろう。ほんの一瞬だけ、そんな甘い幻想が頭をよぎる。
けれど、私の理性が、背負うべき罪の重さが、その手を激しく拒絶した。
「……だめ。できないよ、陽太」
私は差し出されたその手を優しく、けれど明確に拒むようにして、自分の胸の前で両手を固く握りしめた。
「みゆ……?」
「私には、そんな資格、ないから……」
ぽつりと、夜風に消え入りそうな声で呟く。
陽太の真っ直ぐな光にこれ以上触れてしまえば、自分の心が完全に壊れてしまうかもしれない。困惑したように私を見つめる陽太の瞳から逃げるように、私はただ、固く唇を噛み締めて俯くことしかできなかった。
「資格がないって……どういうことだよ」
差し出されたまま行き場を失った陽太の手が、ゆっくりと下ろされる。
夜風が二人の間を冷たく吹き抜け、下から響く楽しげなフォークダンスのメロディが、まるで私たちの沈黙を嘲笑うかのように鳴り響いていた。
陽太の端正な顔から余裕のあった笑みが消え、代わりに深い困惑と、焦燥の入り混じった色が浮かぶ。彼はじっと私を見つめ、隠された真意を暴こうとするかのように、さらに一歩、距離を詰めてきた。
「みゆ、お前最近ずっとおかしいよ。テニス部でも、クラスでも、楽しそうにしてるけど……時々、すごく遠くを見てる。俺の手が届かない、どこか別の場所に一人で行っちゃいそうな顔をしてさ」
「そんなこと……」
「今だってそうだ! 『資格がない』ってなんだよ。お前が頑張って、凛たちと最高の模擬店作って、みんなあんなに喜んでたじゃないか。お前がここにいちゃいけない理由なんて、どこにあるんだよ!」
真っ直ぐで、一片の濁りもない陽太の言葉。
それが、今の私には何よりも鋭い刃となって胸に突き刺さる。
何も知らない陽太。私がどれほどおぞましい犠牲の上に生かされているのか、私の心臓がどれほど残酷な罪の拍動を刻んでいるのか、彼は何一つ知らないのだ。
教えてしまえたら、どんなに楽だろう。
私の誕生日は湊兄さんの両親の命日。私の命は湊兄さんの幸せを奪って咲いた毒の花。そう叫んで、この胸の苦しみを彼にぶつけてしまえたら。
(……だめ。そんなこと、絶対にできない)
これ以上、この汚れた真実に陽太を巻き込むわけにはいかない。私への真っ直ぐな好意を寄せてくれる彼に、そんな重荷を背負わせるわけにはいかないのだ。陽太との恋を諦めるということは、彼に本当の理由さえ明かさずに、突き放すということ。
私はぎゅっと拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みに耐えながら、あえて冷たい声を絞り出した。
「陽太には、関係ないよ……」
「関係ないわけないだろ! 俺とお前は――」
「関係ないの!!」
叫ぶような私の声に、陽太が息を呑んで言葉を失う。私の瞳からは、堪えきれなくなった涙がポロポロと溢れ、月光に濡れて頬を伝い落ちていった。
「もう放っておいて……。お願いだから、私の前から消えて……」
涙混じりの拒絶の言葉。それを受け止めた陽太は――しかし、私の言葉に反論することも、怒ることも、立ち去ることも、そのどれもしなかった。
ただ一歩、力強く足を踏み出し、私の言葉を完全に無視するようにして、無言で私をその胸の中に抱きしめた。
「――っ!?」
あまりのことに息を呑む。突き放そうと両手を彼の胸に当てたけれど、陽太の両腕はびくともせず、むしろ私を壊れ物を労るように、けれど決して離さないという強い意志を込めて、ぎゅっと抱きしめ返してきた。彼のブレザーから、いつも嗅いでいる安心する匂いと、走ってきたせいで少し高くなった体温が伝わってくる。
「……そんなこと、できるわけないだろ」
耳元で、陽太の少し低く震える声が聞こえた。
「大好きな彼女が、こんなところで一人で泣いてるんだぞ。……今のお前を一人にして、俺が勝手に下に戻るなんて、そんなことできるわけない。もし今、お前を置いていったら、俺は一生後悔する」
陽太の腕に込められた確かな熱。その胸の鼓動が、私の背中にまでドクドクと伝わってくる。
「お前に何か悩みがあるのは、ずっと気が付いてた。……それが何なのか、俺にはまだ分からない。でも、お前がどんなに重いものを抱えてたって、俺が全部、全部受け止めてやるから。……だから、一人で苦しまないで、話してくれよ」
「陽太……」
彼の真っ直ぐすぎる言葉と、背中に回された手の温もりに、凍りついていた私の心がじわじわと溶かされていく。強く当てていたはずの私の両手から、少しずつ力が抜けていった。
陽太の胸に顔を埋めたまま、私は何度も深呼吸を繰り返し、高鳴る鼓動を少しずつ落ち着かせた。この優しさに、すべてを委ねてしまえたら。でも、一時の感情で動いてはいけない。私はそっと陽太の腕から身を引き、月光の下で彼を見つめた。
「……陽太、ありがとう。……でも、少しだけ時間を頂戴」
「時間……?」
「うん。……ちゃんと、整理して考えるから」
寂しげに微笑む私を見て、陽太はそれ以上無理に問い詰めることはせず、「……分かった。待ってるから」と静かに頷いてくれた。
陽太から少し視線を外し、再び校庭のキャンプファイヤーを見下ろす。
その瞬間、私の脳裏に、あの日――血の真実を知って絶望に打ちのめされていた夜、蓮さんに言われた言葉が鮮明に蘇っていた。
『独りで抱え込み、自己完結した絶望に浸るのは、勇気ではなくただの傲慢だ。……みゆ、お前の周りには、お前のために呼吸をしている奴らがいることを忘れるな』
あの時、私は蓮さんに「言ったら、全部壊れちゃう」と泣きついた。湊兄さんも、陽太も、今の幸せが全部偽物になってしまうと恐怖に震えていた。そんな私に、蓮さんは無造作に頭を撫でながら、こう言ってくれたのだ。
『壊れることを恐れて真実を殺すなら、お前が今抱いているその想いこそが偽物だ。……まずは、信頼できる奴に打ち明けることから始めろ』
『……どうしても誰にも相談できなければ、俺が聞いてやる』
蓮さんのあの静かで重みのある声が、今、迷う私の背中をそっと押すように響いていた。
もし、今目の前にいる陽太に、私の出生の秘密をすべて相談したら、どうなるのだろう。
陽太なら、きっと「お前のせいじゃない」と笑って、この残酷な真実ごと私を抱きしめてくれるかもしれない。でも、それは陽太に、神崎夫妻の命の重さと、水瀬の家が背負う贖罪の歴史を一緒に背負わせるということでもある。
(陽太を傷つけたくない。でも……蓮さんの言う通り、このまま一人で秘密を殺し続けるのは、ただの私の傲慢なの……?)
フォークダンスの音楽が響く中、私は隣に佇む陽太の横顔をじっと見つめた。
打ち明けるべきか、それともこのまま一人で墓場まで持っていくべきか。陽太という光を前にして、私の心は、夜風に揺れるキャンプファイヤーの残火のように、激しく、切なく揺れ動いていた。




