星和祭、開幕(一日目)
雲一つない、透き通るような秋晴れの金曜日。
今日からいよいよ、聖和学院が熱狂に包まれる3日間の祭典『星和祭』が幕を開ける。
いつもより少し早く目が覚めた私は、まだ静かな自宅のキッチンで身支度を整えていた。リビングに向かうと、ちょうど高等部の制服に袖を通した湊兄さんと、朝の支度をしていたお姉ちゃんの姿があった。
「兄さん、お姉ちゃん。おはよう」
「ああ、みゆ。おはよう。今日から星和祭だな」
湊兄さんがいつもの落ち着いた声で返し、お姉ちゃんも「おはよう、みゆ。今日から3日間、大忙しね。体調は大丈夫?」と優しく微笑みかけてくれる。
「うん、バッチリ。……あのね、二人にこれ、渡しておきたくて」
私はスクールバッグから、昨日クラスの準備の終わりに配られた小さな紙のチケットを二枚、丁寧に取り出した。
それは、模擬店の関係者やその家族に配られる『ワンハンド春巻きバー・1本無料交換券』。美咲が手書きした、可愛らしい春巻きのイラストが印刷されている。
「クラスの出し物の試食券なの。もし良かったら、二人とも食べに来て」
そう言って、私はまず湊兄さんに一枚のチケットを手渡した。
「兄さんには、一日目の今日か、二日目の土曜日のどちらかで使える券。三日目は一般公開日で混み合うと思うし、二日目には蓮さんたちとのバンド演奏もあるでしょ?」
湊兄さんは受け取ったチケットの文字をじっと見つめ、それから小さく口元を緩めた。
「ありがたく受け取っておく。バンドの最終調整もあるが、一日目か二日目、必ずどこかで時間を作ってクラスの連中と食べに行くから」
「ありがとう。待ってるね」
続いて、私はお姉ちゃんにもう一枚のチケットを差し出した。
「そしてお姉ちゃんには、三日目の一般公開日に使える券。お姉ちゃんは日曜日、学院のお客さんとして来てくれるって言ってたよね?」
「ありがとう、みゆ!」
お姉ちゃんは嬉しそうにチケットを受け取り、胸に抱きしめるようにした。
「もちろん行くわよ。みゆが一生懸命メニューを考えた春巻きだもの、絶対に食べ逃せないわ。日曜日、楽しみにしてるわね」
家族に応援してもらえるのはとても心強い。私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、「いってきます」と告げて、湊兄さんと共に家を出た。
正門をくぐると、昨日までは骨組みだけだった巨大なアーチが色鮮やかに完成しており、『歓迎 星和祭』の文字が誇らしげに掲げられている。中等部と高等部が一体となったマンモス校ならではの大規模な祭典。校内のあちこちから、ブラスバンドの音出しの声や、マイクのテスト音声が響き渡り、お祭りの朝特有の騒がしさが肌に心地よく伝わってきた。
「みゆちゃん、おはよう! 早いね!」
Bクラスの教室に入ると、すでにエプロンに三角巾姿の凛ちゃんが、調理器具の最終チェックを行っていた。
「おはよう、凛ちゃん。私もすぐ準備するね」
私もすぐに制服の上からお気に入りのエプロンを締め、髪を後ろで一つに結んだ。
「うん! 男子たちがもうすぐ、調理室から交代でホットプレートとフライヤーを運んできてくれる予定だよ。美咲ちゃんは朝一番のミーティングに行ってて、もうすぐ戻るって」
「私たちは今のうちに、昨日仕込んだポテトフィリングとリンゴのコンポートの状態を確認しちゃおう」
「そうだね。一番美味しい状態で提供できるようにしよう!」
凛ちゃんと顔を見合わせ、私たちは笑顔で頷き合った。
教室の窓からは、爽やかな秋の風が吹き込んできている。これから始まる激動の3日間。多くのお客さんたちの笑顔のために。2年Bクラスの星和祭が、今静かに動き出そうとしていた。
「せーの……星和祭、スタート!!」
午前九時。校内放送のファンファーレとともに美咲の元気な号令が教室に響き渡り、ついに3日間の祭典が幕を開けた。
初日と二日目は校内公開日、つまり聖和学院の生徒と関係者のみが楽しめる日だ。それでも中等部と高等部が合流しているだけあって、廊下は一瞬にしてお祭りの衣装に身を包んだ生徒たちで埋め尽くされ、ものすごい熱気に包まれていく。
「いらっしゃいませー! 2年Bクラス特製、パリパリのワンハンド春巻きはいかがですか!」
美咲とクラスの呼び込み担当が廊下で声を張り上げると、調理室から運んできたフライヤーから漂う香ばしい匂いに誘われて、さっそく最初のお客さんが並び始めた。
「みゆちゃん、タコス風ポテト3、アップルパイ2入ったよ!」
「了解、すぐに揚げるね!」
私と凛ちゃんはエプロン姿でフライヤーの前に立ち、息の合ったコンビネーションで次々と春巻きを油に滑り込ませていく。
ジュワワワッと弾ける心地よい油の音とともに、調理室であらかじめ巻いておいた春巻きが、見る見るうちに綺麗なキツネ色に染まっていく。網に上げて油を切り、クラスの男子が用意してくれたワックスペーパーの袋に手際よく収めて、カウンターへと手渡していく。
「うわ、めっちゃパリパリ!」
「このタコス味、部活帰りに最高だわ!」
受け取った生徒たちが、教室の外ですぐに口にして歓声をあげる声が聞こえてくる。その笑顔を見るたびに、胸の奥がじんわりと満たされていくのが分かった。誰かを笑顔にするための料理が、こんなにも自分を救ってくれるなんて、半年前の私には想像もつかなかった。
開店から二時間ほどが経ち、行列が少し落ち着いた頃だった。
「――お、本当に大繁盛じゃん」
聞き慣れた真っ直ぐな声に顔を上げると、2年Aクラスの写真展示のシフトを終えたらしい陽太が、クラスのジャージ姿のままカウンターの前に立っていた。
「陽太!」
「約束通り、一番に並びに来たぜ。……って、もう結構売れてるみたいだけど」
陽太は嬉しそうに悪戯っぽく笑いながら、メニュー表を見つめた。
「もちろん、陽太の分はちゃんと取っておいたよ。昨日約束した通り、揚げたての一番美味しいやつね。タコス風とアップルパイ風、どっちにする?」
「じゃあ、両方で! 男子テニス部の大黒柱として、スタミナ補給しとかねーとな」
「ふふ、はい。ちょっと待ってね」
私はトングを手に取り、フライヤーから上がったばかりの、一番形の綺麗なタコス風とアップルパイ風の春巻きをそれぞれペーパーに包んで手渡した。
「熱いから気をつけてね」
「サンキュー、みゆ!」
陽太はまず、タコス風のポテトチーズ春巻きを大きく一口かじりついた。
――パリッ!
教室の喧騒に負けない、小気味よい音が響く。
「……っ! うんま! なんだこれ、マジで美味い!この前の試食の時より旨味が増してるぞ!」
陽太は目を丸くして、本当に幸せそうに頬張った。
「外の皮のサクサク感と、中のポテトのホクホク感がたまんねえ。それにこのスパイス、いくらでも食えるわ。みゆ、これ本当に天才だよ」
「良かった。凛ちゃんと一緒に、冷めても美味しく食べられるようにあの後も味付けを工夫したの」
直球で褒めてくれる陽太の言葉が嬉しくて、私は自然と笑みをこぼしていた。そんな私を見て、陽太は春巻きを片手に持ちながら、少し真剣な、優しい眼差しを向けてきた。
「みゆがこうやって、クラスのみんなと楽しそうに笑ってるの見ると、なんか俺まで嬉しくなるよ。体育祭の時も思ったけど、お前、前よりずっと良い顔するようになったな」
「え……?」
不意に核心を突くような温かい言葉を投げかけられ、胸の奥がトクンと小さく跳ねた。
私の心にある冷たい境界線を、彼はいつも悪気なく、けれど驚くほどの優しさで越えようとしてくる。その真っ直ぐな光が眩しくて、私は少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
「……陽太たちの応援のおかげよ。ありがとう」
「おう! 三日目の一般公開日も、また絶対買いに来るからな。その時まで売切れにすんなよ?」
陽太はそう言って、残りの春巻きを大切そうに持ちながら、満足げな笑顔で手を振ってAクラスの方へと戻っていった。
「みゆちゃん、ごちそうさま。陽太くん、本当に美味しそうに食べてたね」
隣でカスタードの準備をしていた凛ちゃんが、そっと私に微笑みかけてくる。
「うん……。さあ、凛ちゃん、次のお客さんが並び始めたわ。午後からのピークに向けて、どんどん揚げていきましょう!」
「うん!」
陽太からもらった温かいエネルギーを胸に、私は再びトングを握り直した。初日の賑わいはまだ始まったばかり。聖和学院を包むお祭りの熱気は、午後を前にさらに加速していく。
陽太が来てくれた後も、2年Bクラスの『ワンハンド春巻きバー』の勢いは止まらなかった。
お昼休みを過ぎると、口コミやSNSでの評判を聞きつけた高等部の生徒たちも大勢詰めかけ、廊下の行列は途切れることがない。私と凛ちゃんは休む暇もなくフライヤーの前でトングを動かし続けた。
「みゆちゃん、大変! ポテトチーズもアップルカスタードも、今日用意してた分の残りがもうあとわずかだよ!」
時計の針が午後三時を回った頃、カウンターで注文を受けていた美咲が、興奮と焦りが入り混じった声をあげた。
「すごいわね、まだ初日なのに……。凛ちゃん、仕込みのストックは?」
「今日の分はこれで最後。明日と、明後日の一般公開日の分は冷蔵庫にあるけど……そっちに手を付けちゃうと、後半の分が足りなくなっちゃうかも」
嬉しい悲鳴だった。私たちは顔を見合わせ、初日の営業を予定より少し早く「完売御礼」として終了することに決めた。
「本日の分はすべて完売いたしました! ありがとうございました!」
美咲が廊下で大きな声をあげると、並んでいた生徒たちから「あー、残念!」「明日また絶対来るわ!」と惜しむ声が上がる。シャッターを下ろすようにカウンターのパーテーションを閉めた瞬間、私たちはその場にへたり込むようにして息を吐いた。
「疲れたー! でも、めちゃくちゃ楽しかった!!」
美咲が両手を上げて叫ぶ。クラスの男子たちも「売上、予想の倍以上だぞ!」と大はしゃぎだ。
「みんな、本当にお疲れ様。みゆちゃん、油の前にずっと立ちっぱなしで大丈夫だった?」
凛ちゃんが私の体調を気遣って、冷たい麦茶を差し出してくれた。
「ええ、大丈夫。心地よい疲れだわ。誰かが『美味しい』って食べてくれるのを見るのが、こんなに力をくれるなんて思わなかった」
差し出された麦茶を飲み干しながら、私は夕方の心地よい風が吹き込む教室の窓に目をやった。初日の営業は大成功だったけれど、賑わうカウンターの向こうに、結局あの人の姿を見つけることはできなかった。
「兄さん、やっぱり今日は忙しかったみたいね……」
無料交換券を渡した時、「必ずどこかで時間を作る」と言ってくれた湊兄さん。けれど、高等部1年の展示のシフトに加え、明日からの有志バンドの最終調整もある。初日からそう簡単に手が空くはずがないことは、私にもよく分かっていた。
納得しつつも、心のどこかで少しだけ残念に思っている自分に苦笑する。
「よし……明日は絶対に、兄さんの分の春巻きを最初に確保しておかないとね」
もし明日も今日のようにあっという間に完売してしまったら、今度こそ湊兄さんに食べてもらう機会を逃してしまう。明日の朝一番に、必ず最高の出来のものをキープしておこうと、私は心の中で強く誓った。
片付けを大まかに終え、クラスの皆と「また明日ね!」と声を掛け合って教室を出た。
校内はまだ後片付けや明日の準備をする生徒たちで賑わっている。渡り廊下を歩いていると、不意に、遠くの講堂の方から重低音が響いてくるのが聞こえた。
お腹の底に響くような、正確で力強いドラムのビート。
そして、それを静かに、けれど圧倒的な存在感で支えるベースのうねり。
「――あ」
私は思わず足を止めた。
まだ歌詞もエレキギターの旋律も乗っていない、リズム隊だけの音合わせ。けれど、その圧倒的なクオリティと気迫だけで、それが誰の演奏なのかすぐに分かった。湊兄さんと、蓮さんだ。
明日の二日目、そして三日目の一般公開日。あの講堂のステージで、彼らはどんな素晴らしい世界を見せてくれるのだろう。
西日に染まる校舎を見上げながら、私は胸の奥で静かに期待に胸を膨らませた。
湊兄さんたちのステージ、そしてお姉ちゃんが来てくれる日曜日。
聖和学院を舞台にした私たちの『星和祭』は、まだ始まったばかり。高鳴る鼓動をそのままに、私は明日の二日目へと、確かな一歩を踏み出した。




