境界線(ライン)を越えた指先
楠の木陰で過ごした温かなランチタイムが終わり、午後のグラウンドは再び張り詰めた熱気に包まれていた。
プログラムの号砲が響き、午後の幕開けを飾るのは、男子生徒たちによる「騎馬戦」だ。各クラスの意地とプライドがぶつかり合うこの競技には、テニス部をはじめとする運動部の精鋭たちが顔を揃えていた。
女子応援席の最前列からグラウンドを見つめる私の視線の先には、見知った顔ぶれがそれぞれの騎馬を組み上げていた。
Aクラスの騎馬には、午前中の組体操でも見事な体幹を見せていた陽太。そしてその土台を支えるのは、圧倒的な体躯を誇る柔道部の伊集院くんだ。
私のいるBクラスからは、テニス部の仲間である佐藤くんが騎馬のトップとしてハチマキをきゅっと締め直している。
さらにCクラスに目を向けると、テニス部の田中くんと陸上部の早川くんが鋭い視線を周囲に走らせていた。
「おい、お前ら! Aクラスの河村を包囲するぞ!」
Cクラスの早川くんが声を張り上げると同時に、試合開始のホイッスルが激しく鳴り響いた。
「うおおおっ!」
砂煙が舞い上がり、激しい怒号とともに騎馬同士が激突する。
Bクラスの佐藤くんが果敢に突撃し、他クラスの帽子を鮮やかに奪い取っていくが、多勢に無勢、Cクラスの田中くんと早川くんの俊敏な連携によって、あと一歩のところでハチマキをさらわれてしまった。
「くそっ、あとは頼んだぞ、陽太!」
グラウンドに残されたのは、圧倒的な強さを見せるAクラスと、執念深く食い下がるCクラスの精鋭たちだった。
「伊集院、前だ! 一気に決める!」
陽太の声に応え、柔道部の伊集院くんがびくともしない強固な足取りで突進する。 陽太の手が空中を裂き、次々と敵の帽子を奪い去っていく。
しかし、優勝をかけた最終局面に差し掛かったその時、アクシデントが起きた。
Cクラスの残党が猛烈な勢いで陽太の騎馬の側面に体当たりを仕掛けたのだ。激しい衝撃に、一瞬だけ騎馬が大きく傾く。
身を挺して持ち堪えた陽太だったが、相手の手が激しく交錯した際、バランスを崩した拍子に相手の肘が陽太の脇腹へと強くめり込んだ。
「――っ!」
陽太の顔が苦痛に歪み、一瞬だけ身体が折れ曲がる。
遠目からでも、彼が息を詰まらせ、激しい痛みに耐えているのが分かった。おそらく、肋骨あたりを酷く強打したのだ。
(陽太……!)
思わず拳を握りしめ、声が漏れそうになる。
けれど、陽太は鋭い眼光を失っていなかった。ここで自分が崩れれば、土台の伊集院くんたちの努力も水の泡になる。彼は痛む脇腹を片手で押さえながら、驚異的な精神力で再び上体を起こした。
「まだだ……! 伊集院、いけるか!?」
「まかせろ!」
気迫で痛みをねじ伏せた陽太は、一瞬の隙を突いて迫ってきたCクラスのトップのハチマキを、電光石火の早業で毟り取った。
ピーッ、ピーッ、ピーッ――!
「勝者、Aクラス!」
審判の長いホイッスルが響き渡り、グラウンドはAクラスの優勝を称える大歓声に包まれた。土台から降ろされた陽太は、クラスメイトたちとハイタッチを交わしている。
しかし、私の目は騙せなかった。
歓声の輪から少し離れた瞬間、陽太はたまらず地面に膝をつき、激しく顔をしかめて脇腹を押さえたのだ。息が完全に上がっており、立ち上がることすらままならない様子だった。
(危ない――)
恋人としての境界線、心の氷、水瀬家の罪悪感。そんな理性のすべてが、彼の苦しむ姿を見た瞬間に吹き飛んでいた。気づいた時には、私はBクラスの応援席を飛び出し、砂埃の舞うグラウンドへと無意識に足を突き動かしていた。
「陽太!」
「……え? みゆ……?」
駆け寄って彼の肩を支えると、陽太は驚いたように目を見開いた。その額からは、冷や汗がだらだらと流れ落ちている。
「無理をしないで。完全に脇腹を痛めているわ。伊集院くん、彼をあそこの日陰まで運ぶのを手伝って!」
「わ、わかった、すまない水瀬さん、助かる!」
驚く伊集院くんと共に陽太を近くのテントの救護スペースへと運び、私は用意されていた冷却パックを素早く手に取った。
「服を少し緩めて。ここに当てるわよ」
「あ、ありがとう……。大丈夫、ちょっと打っただけだから……」
強がる陽太の脇腹に、私はそっと冷却パックを当て、手際よく固定していく。
その間も、私の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。ただの部活の仲間として、一定の距離を保たなければいけないはずなのに。彼の痛みに触れた瞬間、私の身体は、私の心は、どうしても彼を放っておくことなどできなかった。
テントの影に流れる涼しい風が、私の火照った頬を少しずつ冷ましていく。
手際よく施したアイシングのおかげで、陽太の呼吸もようやく落ち着きを取り戻していた。
「……ありがとな、みゆ。わざわざグラウンドまで走ってきてくれて。お陰でだいぶ楽になった」
少しだけ赤みの戻った顔で、陽太が申し訳なさそうに微笑む。その真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は込み上げる愛おしさと切なさに胸を突かれ、そっと視線を落とした。
神崎家への罪悪感から、彼との幸せな未来はもう諦めた。けれど、彼を好きな気持ちまで消せるわけがない。私にとって陽太は、どんなに距離を置こうとしても、命を懸けてでも守りたい特別な恋人であり、かけがえのない大切な幼馴染なのだ。こうして傷ついた彼のもとへ一瞬で駆けつけ、手当てをすること。それは部員としての義務であると同時に、恋人として、幼馴染としての私に許された、せめてもの役割なのだと心が静かに納得していた。
「いいの。……まだ痛むなら、午後の競技は無理をしないでね」
私が少し声音を和らげて伝えると、陽太は私の顔をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
「……なぁ、みゆ」
「何?」
「いや……なんでもない。リレー、お互い頑張ろうな」
陽太は言葉を飲み込み、優しく笑った。
彼は、私が抱える水瀬家の重い過去や血塗られた事情を何も知らない。それでも、最近の私が何か深い悩みを抱え、一人で苦しんでいることだけは、その鋭い勘でかすかに察しているようだった。踏み込みきれないもどかしさを瞳の奥に滲ませながらも、彼はただ私を気遣うように、深くそれ以上は追及してこなかった。その優しさが、今はたまらなく嬉しく、そして少しだけ切ない。
「うん。無理は禁物だよ」
私はもう一度だけ彼の体調を気遣うように頷くと、名残惜しさを振り切って席を立ち、グラウンドへと戻った。
グラウンドでは、すでに次の競技である「玉入れ」の準備が着々と進められていた。
中等部全員が参加するこの種目は、クラスの団結力が試される定番の競技だ。高々とそびえ立つ籠の周囲に、各クラスの生徒たちがハチマキを揺らしながら円陣を作っている。
「みゆ! どこ行ってたの? もうすぐ始まっちゃうよ!」
集合場所へと急ぐ私を見つけ、美咲が大きく手を振った。
「ごめんね、美咲。ちょっと救護の手伝いをしてたわ。もう大丈夫よ」
「そっか。さあ、午後はAクラスに先を越されちゃったからね。この玉入れは絶対に我がBクラスが勝つよ!」
「そうだね。たくさん籠に入れよう」
美咲の弾んだ声に頷きながら、私は地面に転がる赤や白のお手玉を両手に拾い上げた。
ピーッ!
試合開始のホイッスルとともに、一斉にお手玉が秋空へと舞い上がった。
青空を背景に、無数の玉が放物線を描いて籠へと吸い込まれていく。
「よしっ! どんどん投げて!」
美咲が抜群のコントロールで次々とお手玉を投げ入れていく隣で、私も負けじとテンポよく玉を放り投げる。テニスのサーブやスマッシュで培った空間把握能力を活かし、籠の縁を狙って正確に軌道を重ねていった。
ふと視線を落とすと、籠を背負って中央に立つ他クラスのチェッカーたちの向こうに、Aクラスの列が見えた。
陽太は私の忠告をしっかりと守ってくれたのか、激しい動きを伴う玉入れへの参加を見合わせ、応援席から仲間たちに大きな声援を送っていた。その姿に心の底から安堵しながら、私は再び目の前の競技へと集中する。
一般見学席の方をちらりと見やると、相変わらず圧倒的な存在感を放つ湊兄さんと蓮さんが並んで立っていた。
蓮さんは手元のプログラムを見ながら、「なかなかの的中率だな」とでも言うように、私の投げた玉が綺麗に籠に収まる様子を冷静に見届け、微かに頷いてくれている。湊兄さんは腕を組んだまま冷徹な表情を崩さないけれど、その視線はしっかりと私を捉えていた。
ピーッ、ピーッ――!
終了の合図とともに、グラウンドのあちこちから息を切らした生徒たちの声が上がる。
審判の先生たちが籠から玉を数え上げ、一つ、二つと放り出すたびに、生徒たちから歓声が沸き起こった。
結果は、我がBクラスの僅差での勝利。
「やったー! みゆ、勝ったよ!」
美咲が飛び上がって喜び、私も「うん、やったね」と笑顔を交わし合う。
しかし、この玉入れの喧騒が終われば、体育祭の得点はいよいよ最終競技を前にして大接戦となっていた。
誰もが固唾を飲んで見守る中、次はいよいよ本日最大のハイライト、クラスの命運をかけた「クラス対抗リレー」が始まろうとしていた。
「泣いても笑ってもこれが最後! 出場する選手は位置についてください!」
放送委員の熱のこもったアナウンスがスピーカーから響き渡り、グラウンドの緊張感は最高潮に達した。体育祭の最終種目、クラスの威信をかけた「クラス対抗リレー」が始まろうとしている。
現在の総合得点は、Aクラスと私たちBクラス、そしてCクラスが僅差でひしめき合う大接戦。このリレーの順位がそのまま今年の覇者を決めることになる。
各クラスの応援席からは、地鳴りのような声援が送られていた。
トラックのスタートラインには、各クラスの第一走者たちが鋭い眼光をたぎらせて前を見据えている。テニス部、陸上部、サッカー部……校内の俊足たちが一堂に会するその光景は圧巻の一言だった。
ピーッ――!
激しい号砲とともに、第一走者たちが一斉に飛び出した。
最初のコーナーを曲がり、砂煙を上げてバトンが繋がれていく。序盤、レースを引っ張ったのは陸上部の精鋭を揃えたAクラスだった。
しかし、レースが中盤に差し掛かった第4走者目、一気に牙を剥いたのはCクラスだった。
テニス部の田中くんが、持ち前の俊足を遺憾なく発揮して前方の走者を猛烈に追い上げると、バトンは陸上部のエースでもある早川くんへと渡る。
「っしゃあ! 行くぞぉ!」
早川くんの爆発的な加速力は凄まじかった。まるでトラックを滑るようにして前方の走者を次々と抜き去り、一気にトップへと躍り出る。その圧倒的なスピードに、Cクラスの応援席からは割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「美咲、頼んだわよ!」
「任せて!」
我がBクラスも負けてはいない。凛ちゃんからバトンを受け取った美咲が、髪を振り乱しながら必死の激走を見せる。Aクラスも負傷を押して出場した男子生徒たちが執念でバトンを繋ぎ、トップを走るCクラスの背中を必死に追いかけるが、その差はなかなか縮まらない。
そして、バトンはいよいよアンカーへと委ねられた。
Cクラスのアンカーが独走状態でバトンを受け取り、最後の直線へと突入する。
その後ろを追うようにして、Aクラス、そして我がBクラスのアンカーたちも次々とバトンを手にトラックへと飛び出していった。
「いけぇぇぇーっ! そのまま逃げ切れぇぇ!」
グラウンド全体を震わせるような大歓声の中、Cクラスのアンカーが満面の笑みを浮かべて、トップで歓喜のゴールテープを駆け抜けた。
ピーッ、ピーッ、ピーッ――!
「1位、Cクラス! 2位、Aクラス……!」
審判のホイッスルが鳴り響き、Cクラスの生徒たちが一斉にグラウンドへと飛び出して喜びを爆発させる。
全力を尽くした私たちBクラスは惜しくも一歩及ばなかったけれど、美咲や凛ちゃんと「みんな本当によく頑張ったよね!」とお互いの健闘を称え合い、爽やかな笑顔を交わした。
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全ての競技が終了し、西日が優しく差し込むグラウンドで閉会式が執り行われた。
結果発表。リレーでの大逆転劇により、今年の体育祭の総合優勝はCクラスの手に渡った。惜しくも優勝を逃したAクラスとBクラスの生徒たちからも、勝者を称える惜しみない拍手が送られる。
表彰式が終わり、全校生徒による最後の挨拶が響き渡ると、楽しかった体育祭もついに幕を閉じた。
解散の号令がかかり、生徒たちがそれぞれの片付けに動き出す中、私は本部テントの裏手へと足を向けた。そこには、すでに見学席から移動してきた湊兄さんと蓮さんが、大きな保冷バッグを持って待ってくれていた。
「お疲れ、みゆ、リレーの結果は残念だったがお前の走りいいものだったぞ」
蓮さんがいつもの優しい微笑みをたたえて、真っ先に声をかけてくれた。
「蓮さん、ありがとうございます。優勝は逃してしまいましたけれど、本当に楽しい一日でした」
「……今年は去年のような借り物競走はなかったな。あと、陽太の負傷に一番に駆けつけたのは驚いた。よく見ていたな」
湊兄さんは相変わらず素直ではない言葉を口にしたけれど、その眼差しにはやりきった私への労いが確かに込められていた。
「うん、どうしても放っておけなかったの。兄さん、お弁当箱を回収するわね。重いのに、一日中持っててくれて本当にありがとう」
「気にするな。お前が作った弁当だ、無事に持ち帰るのが俺の役目だろ」
湊兄さんから保冷バッグを受け取ろうとした、その時だった。
「みゆ、お疲れ」
後ろから声をかけられ振り返ると、ハチマキを首にかけ、少し疲れた様子ながらも清々しい表情をした陽太が立っていた。脇腹の痛みはすっかり引いたようで、その足取りもしっかりしている。
「陽太……。お疲れ様。脇腹の具合はもう大丈夫なの?」
「ああ、みゆがすぐに冷やしてくれたおかげで、リレーも最後まで見届けられたよ。サンキューな」
陽太はそう言って頭を掻きながら笑い、それから私の隣に立つ湊兄さんと蓮さんへと視線を向けた。
「湊さん、蓮さん。今日は応援に来てくださってありがとうございました。みゆから、二人が来てくれるって聞いて、すごく気合いが入りました」
陽太が背筋を伸ばして一礼すると、蓮さんは「気にするな。陽太、お前の騎馬戦でのガッツ、見事だったぞ」と応じ、湊兄さんはフッと鼻で笑いながらも「秋の本戦に向けて、その体幹をテニスコートでも維持しろよ」と、彼なりの激励の言葉を投げかけた。
「はい! ありがとうございます!」
二人の言葉に、陽太は嬉しそうに目を輝かせる。
そんな彼の横顔を見つめながら、私の胸の奥には、温かで少しだけ切ない感情が満ちていた。
陽太や兄さんに対しての後ろめたさが消えたわけではない。私たちがこれから歩む道には、きっと多くの苦難が待ち受けているのだろう。
けれど、こうして同じ青空の下、同じ日常の光の中で、大切な人たちと笑い合えたこの時間は、間違いなく私の胸の奥に深く刻み込まれた。
(この温もりを胸に、私は前に進んでいく……)
頭上では、大きな楠の葉が秋風に揺れてサラサラと音を立てている。
ひとときの群青の日常を駆け抜けた私たちは、それぞれの胸に秘めた誓いを新たに、十一月の全国大会という次なる戦いの舞台へと、静かに視線を向け直していた。




