無意識のレシピ、秘めたる誓い
ひびきくんという「小さな侵入者」がもたらした衝撃は、星和のレギュラー陣に心地よい緊張感を与えたまま、私たちはついに体育祭の前日を迎えていた。
この日の全体練習は、明日の本番に備えていつもより早めに切り上げられた。部員たちがそれぞれクラスの最終準備や居残り作業へと散っていく中、私は一人、ラケットバッグを背負って校門へと向かっていた。
私の心には、昨日美咲から投げかけられた「体育祭のお昼はどうするの?」という問いかけが、ずっと澱のように残っていた。
去年のように、旧校舎の裏の中庭にある大きな楠の下でみんなと笑い合い、陽太とおかずを交換する――。そんな温かい時間を、今年も同じように過ごしていいはずがない。水瀬家の血塗られた真相、そして神崎夫妻の犠牲の上に生かされているという強烈な罪悪感。兄さんを差し置いて、私が自分だけの幸福に浸ることなど許されるわけがなかった。
極力、陽太とは関わらない。一定の距離を保つ。そうやって自分の心を頑ななまでに氷の境界線で縛りつけていた。
「――ならば、明日の配置はそのままで問題ないはずだ」
ふいに、校門のすぐ近くから聞き覚えのある低い声が聞こえ、私は足を止めた。
見ると、夕暮れの赤等色に染まる校門の傍らで、湊兄さんと蓮さんが並んで立ち話をしていた。アパートで一人暮らしをしながら星和の高等部に通う蓮さんは、相変わらず冷静な佇まいで、湊兄さんと並んでも引けを取らない圧倒的な存在感を放っている。元・帝都大付属のエースとしての風格は、私にとって頼れるもう一人の兄そのものだった。
「兄さん、蓮さん。こんなところで何の話をしてるの?」
歩み寄りながら声をかけると、二人は同時にこちらへ視線を向けた。
「ああ、みゆか。部活はもう終わったのか」
湊兄さんがいつもの眼差しで私を見下ろす。隣に立つ蓮さんも、その端正な顔容にいつもの冷静な笑みを微かに浮かべて私を見つめた。
「明日の予定についてだ。明日は中等部が体育祭だからな。俺たち高等部は学校が休みになる」
蓮さんが落ち着いた声で言葉を継ぐ。
「家族や関係者の見学は許可されている。せっかくの休日だ、お前たち中等部の様子でも見に行こうかと、湊と話していたところだ」
「……特に予定が無いからな、蓮がどうしても行くと言うから、付き合うだけだ」
湊兄さんはぶっきらぼうにそっぽを向いたが、その言葉の裏には、不器用で深い家族愛が確かに滲んでいた。そして、それを静かに見守る蓮さんの眼差しも、どこまでも優しく、頼もしかった。
二人の言葉を聞いた瞬間、私の胸をきつく縛りつけていた氷のような緊張が、不意にするりと解けていくのを感じた。
(兄さんと、蓮さんが……来てくれる)
もし、私と陽太の二人きりの関係や、中等部のメンバーだけでの集まりだったら、私は罪悪感に押しつぶされて逃げ出していたかもしれない。けれど、そこに湊兄さんや蓮さんがいてくれるなら――その中心にいて、みんなで囲む輪であるならば。私は何も恐れることなく、去年と同じように温かいお弁当の時間を過ごしてもいいのではないか。そんな風に、ふっと心が軽くなったのだ。
「二人が来てくれるなら、すごく心強いよ。……それなら、明日のお昼はみんなで一緒にお弁当を囲んでもいい?」
私の提案に、湊兄さんは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐにいつもの無表情に戻って「……お前がそうしたいなら、構わない」と静かに頷いた。
「ああ。みゆが作るお弁当なら、俺も楽しみにしている」
蓮さんも穏やかにそう言って、私の緊張を解きほぐすように微笑んでくれた。
「やった。それじゃあ、お弁当をたくさん用意しないとね。これから商店街に具材の買い出しに行ってくるね」
「おい、一人で持てないほどの量を買い込むなよ? だったら俺が――」
過保護を発揮しようとする湊兄さんの言葉を笑って遮りながら、私はすぐにスマートフォンを取り出した。
『美咲、お疲れ様。明日のお昼のことだけど、やっぱり去年と同じように中庭の楠の下でみんなで集まろう。兄さんや蓮さんも来てくれるみたいだから、お弁当たくさん作っていくね』
メッセージを美咲に送信すると、すぐに『了解!やったー!』と賑やかなスタンプが返ってきた。
胸の奥の澱が消えたわけではない。けれど、夕日に照らされる湊兄さんや蓮さんの姿に守られるようにして、私は前向きな気持ちでローファーの踵を鳴らし、賑やかな商店街のほうへと歩き出した。
夕暮れ時の商店街は、夕食の買い出しに訪れた人々で活気に満ち溢れていた。お惣菜の香ばしい匂いやタイムセールの威勢のいい声が響く中、私はスーパーのカートを押し、食材を選んでいた。
「兄さんと蓮さんが来てくれるんだもの。しっかり気合を入れて作らないとね」
自然と気合が入り、気がつけば買い物カゴはどんどん重くなっていく。大人数分のお弁当ということもあり、鶏肉や卵、色鮮やかな野菜のパックを次々とカゴへ移していった。
買い出しを終えて帰宅すると、キッチンにはすでにエプロン姿のお姉ちゃんが立っていた。
「おかえり、みゆ。ずいぶんたくさん買い込んできたわね。明日の体育祭、テニス部のみんなの分も作るの?」
「ただいま、お姉ちゃん。うん、そうなの。美咲たちだけじゃなくて、明日は高等部がお休みだからって、兄さんと蓮さんも見にきてくれることになって。だからたくさん作ろうと思ってね」
「あら、湊と蓮くんも? それは賑やかになりそうね。よし、お姉ちゃんも手伝うわ」
お姉ちゃんは嬉しそうに微笑み、私の買ってきた食材をカウンターに並べ始めた。私もエプロンを締め、さっそく明日へ向けた下ごしらえに取りかかる。
鶏肉の甘辛煮の味付けを調え、卵焼きの出汁を合わせ、さらに副菜の準備を進めていく。湊兄さんたちが喜んでくれる顔を想像しながら、無我夢中で手を動かしていた、その時だった。
「……ねえ、みゆ」
食材を切り分けていた雫姉さんが、ふと手を止めて、並べられたメニューのメモと鍋の中身を交互に見つめた。
「何?お姉ちゃん」
「これ、もしかして全部、湊の好物ばかりになってない?」
「え……?」
お姉ちゃんに指摘され、私はハッとして手元を見つめた。
じっくりと味が染み込んだ鶏肉の甘辛煮、甘さ控えめの厚焼き卵、彩りに添えようとしていたほうれん草のお浸しに、タコさんウインナー。
どれもこれも、湊兄さんが昔から「これが弁当に入っていると落ち着く」と言っていた大好物のオンパレードだった。
「気がつかなかった、本当に兄さんの好物ばかりだわ……。無意識に、兄さんの食べるものばかり考えていたみたい」
胸の奥に、きゅっと締め付けられるような感覚が走る。
私の中に常に深く刻まれた、神崎夫妻への、そして湊兄さんへの底知れない罪悪感。湊兄さんを心の底から幸せにするまでは、私自身の恋愛など絶対に許されない。その強い強迫観念に似た誓いが、私の意識をすべて「兄さんを喜ばせること」へ向かわせていたのだ。その結果、他のみんな、特に陽太の存在が完全に頭から抜け落ちてしまっていた。
「ふふ、本当に湊のことが大好きなのね。でも、テニス部のみんなや陽太くんも一緒に食べるんでしょう? 男子中学生には、もう少しボリュームのあるガッツリしたメニューもあった方が喜ばれるんじゃない?」
お姉ちゃんは私の複雑な内面には気づかず、ただ微笑ましそうにアドバイスをくれた。「陽太くん」という名前が耳に届いた瞬間、心臓が跳ねる。
恋人関係のまま、恋愛感情を冷徹に押し殺し、一定の距離を置いている陽太。嫌いになったわけではないからこそ、彼にそんな歪んだ気を遣わせるようなお弁当を見せるわけにはいかない。何より、みんなで囲むお弁当なのだ。
「そうだね、お姉ちゃんの言う通りね。……少しメニューを調整してみる」
私は小さく息を吐き、凍りつきそうになる理性を必死に保ちながら、冷蔵庫を開けた。
幸い、育ち盛りの男子部員たちのためにと、お肉は多めに買ってある。
「甘辛煮だけじゃなくて、ニンニクを効かせたスタミナ唐揚げも追加。それから、ポテトサラダも多めに作って、みんなが小分けにして食べやすいように紙コップに盛り付けけするってのでどうかな?」
「ええ、それがいいわ。唐揚げの衣付けは私に任せて」
お姉ちゃんの手際よいサポートのおかげで、お弁当のメニューはまたたく間に「みんなで賑やかに食べるための賑やかな大御馳走」へと姿を変えていった。
これなら、きっと不自然さは出ないはず。
湊兄さんへの償いと、陽太への断ち切れない想い。その二つの間で揺れ動く心を料理の煙に隠しながら、私は深夜まで、静かに包丁を動かし続けた。
明日は、体育祭当日。群青の応援旗がはためく校庭で、私たちの特別な秋の一日が始まろうとしていた。




