小さな侵入者と未来の足音
体育祭の準備が本格化するにつれ、放課後のテニスコートにはこれまでとは違う独特の熱気が混ざり合うようになっていた。各クラスの朝練や居残り作業の合間を縫って集まる部員たちは、限られた時間の中でさらに集中力を研ぎ澄ませている。
「そこまで! 男子シングルス陣、今の動きは悪くないが、田中はまだ無駄なステップが多いぞ。河村は膝の引き付けを意識しろ!」
コートサイドから響く坂上先生の鋭い怒声は、体育祭の喧騒に流されそうになる私たちの空気を一瞬で引き締める。
私はコートの端で、奈緒の放つ低いスライス球を繰り返しストロークする地道な練習を続けていた。
ふと、ラリーの合間にフェンスの向こう側へ視線を向けたとき、見慣れない人影があることに気がついた。
制服姿の生徒たちに混ざって、ぽつんと佇んでいるのは私服を着た小柄な男の子だった。小学校の最高学年――おそらく6年生くらいだろう。手元にはジュニア用ではない、大人向けのラケットバッグを大事そうに抱えている。彼は中等部たちの激しいラリーから一切目を離さず、テニスに強い興味があるのか、ずっと食い入るようにこちらの様子を見つめていた。
「あ、ひびき! 何やってるの、勝手に来ちゃダメでしょ!」
私と奈緒が動きを止めたのに気づいたのか、ひかりちゃんが慌ててフェンスの向こうへと駆け寄っていった。
「お姉ちゃん、ここが全国に行く中学校のコート?」
「そうだけど……。水瀬先輩、すみません。これ、私の弟の『ひびき』なんです。学校が終わったからって、わざわざ私の部活を見にきちゃったみたいで……」
ひかりちゃんが申し訳なさそうに頭を下げる。ひびきくんは姉に叱られながらも、コート内の私たち、特に陽太や田中くんたちの打球を鋭い眼差しで見つめ返していた。
「ひかりちゃん、気にしなくて大丈夫よ。ひびきくん、テニスが好きなの?」
私が歩み寄って声をかけると、ひびきくんは少し緊張しながらも、しっかりと私を見据えて頷いた。
「うん。お姉ちゃんから、星和中がブロック大会で完全優勝したって聞いたから、どんなテニスをするのか見たくて。……僕も、テニスをやってるんだ」
「ひびき、こう見えてスクールでは結構上手なんですよ。中学生相手でも普通にラリーが続くくらいには」
ひかりちゃんが少し誇らしげに付け加えたその時、男子コートのベンチ側から、タオルで汗を拭いながら歩いてきた人物が声を上げた。
「あれ? もしかして……ひびきか?」
驚いた様子で近寄ってきたのは、佐藤くんだった。ひびきくんはその姿を見るなり、パッと表情を明るくして弾んだ声を出す。
「あ! 健二さん! やっぱり星和中にいたんだ!」
二人の意外な反応に、私や美咲は思わず顔を見合わせた。
「健二くん、ひびきくんと知り合いなの?」
「ええ。ひびきがまだもっと小さかった頃、僕が通っていたジュニアチームのスクールに彼も入ってきたんです。当時は僕の後ろをずっとくっついて歩くような可愛い後輩だったんですけど……すっかり大きくなったな」
佐藤くんが懐かしそうに目を細めてひびきくんの頭を撫でる。ひびきくんは少し照れくさそうにしながらも、憧れの先輩の前に立てた喜びを隠しきれない様子だった。
「健二くんの後輩だったのね。世間って本当に狭いわ」
美咲が感心したように声を上げる中、ひびきくんは佐藤くんを見つめながら、手にした大人向けのラケットバッグをぎゅっと抱きしめ直した。その高いポテンシャルを感じさせる佇まいに、男子コートの方からどっしりとした足取りで歩み寄ってきた人物がいた。
「おい、そこでお喋りは終わりだ。……ほう、小学生か」
顧問の坂上先生だった。先生の登場に、ひかりちゃんが小さく身を硬くする。しかし、坂上先生はひびきくんの抱えるラケットバッグに視線を落とすと、太く重みのある声でニヤリと不敵に笑った。
「少年、そこまで言うなら、少しうちの連中と打ち合ってみるか? 全国に行く中学生の球がどんなものか、肌で知るのもいい経験だろう」
厳格な坂上先生の口から出た予想外の提案に、ひかりちゃんは「ええっ、先生!?」と目を丸くしたが、ひびきくんの瞳には一瞬で挑戦的な光が灯った。
「やらせてください!」
坂上先生の許可を得て、ひびきくんはマイラケットを握り、男子の一年生コートへと入った。まずは挨拶代わりにと、男子部のレギュラーではない一年生部員がコートの向こう側に立ち、試合形式のミニゲームがスタートする。
だが、試合が始まった直後、コートの空気は一変した。
「……えっ!?」
男子の一年生が思わず声を漏らす。ひびきくんの放つ打球は、小学生のものとは思えないほど鋭く、ベースライン際で急激に沈むドライブがかかっていた。体格こそまだ小柄だが、無駄のないしなやかなフォームから繰り出されるストロークは容赦なく中学生のコートを強襲する。
テニス部No.1の俊足を誇る田中くんや、佐藤くんも、思わず足を止めてそのコートへ視線を注いだ。
「おいおい、マジかよ……。あの鋭いコース、小学生の打球じゃねえぞ」
田中くんが呟いた瞬間、ひびきくんの鋭いバックハンドがコートの隅を射抜き、男子の一年生生徒が一歩も動けずにノータッチエースを奪われた。
中学生としてのプライドを見せたい一年生部員も必死に食らいついたが、ひびきくんの正確無比なコース配球と、大人顔負けの冷徹な試合運びに翻弄され続ける。完全に主導権を握ったひびきくんは、最後の1ポイントも鮮やかなロブで頭上を抜き、ゲームを締めくくった。
ゲームセット。結果は、男子の一年生生徒がひびきくんに手も足も出ずに敗北するという、衝撃的なものだった。
「嘘……、一年生が負けちゃった……」
美咲が呆然と呟き、奈緒は素早く眼鏡の位置を直してひびきくんのフォームを手帳にメモしている。
「ありがとうございました!」
コート中央でハキハキと一礼するひびきくんの姿を、テニスコート全体が息を呑むような沈黙で見つめていた。男子の一年生生徒が手も足も出ずに敗北したという事実は、コート内の空気を一瞬で張り詰めさせるのに十分だった。
「やるな、ひびき」
その沈黙を破ったのは、佐藤くんだった。ベンチから歩み寄り、かつての後輩の成長を心から喜ぶように、その小さな肩をポンと叩く。
「スクールで上手いとは聞いていたけど、まさかここまでとはね。ベースライン際でのドライブの精度、僕がジュニアチームに所属してた頃より、ずっと鋭くなってる。あのコース配球は、中学生でも一歩目が遅れたら絶対に追いつけないよ」
かつてジュニアチームで共に汗を流した佐藤くんからの嘘偽りのない賞賛に、ひびきくんは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに白い歯を見せた。
「……フットワークの無駄のなさは合格点だな」
続いて声をかけたのは、陽太だった。ラケットを肩に担ぎ、ひびきくんの元へ歩み寄るその瞳には、小学生相手とはいえ、同じテニスプレイヤーとしての真摯なリスペクトが宿っていた。
「体格はまだ小柄なのに、打球の威力が死んでないのは、インパクトの瞬間にしっかり体重が乗っている証拠だよな。それに、相手の体勢が崩れたのを見逃さずにバックハンドで仕留めるあの判断力……。正直、うちの一年生が翻弄されるのも無理はない。いいテニスをするな」
陽太がストレートにその実力を評価すると、ひびきくんはゴクリと息を呑み、全国を制した星和のエースを真っ直ぐに見つめ返した。陽太の言葉には、湊兄さんの言葉を胸に死ぬ気で足腰を鍛え直してきたからこそ分かる、フットワークへの鋭い着眼点が溢れていた。
そして、コートサイドで腕を組んだまま、じっとそのラリーを見つめていた坂上先生が、どっしりとした足取りで二人の前に進み出た。
「少年、今の試合……なかなか面白かったぞ」
坂上先生の言葉に、ひびきくんは姿勢を正して先生を見上げた。
「フォームにしなやかさがあり、何より打点の入り方が実にいい。これでもジュニア選手を多く見てきたが、その年齢で打球の回転を完全にコントロールできている者はそう多くない。うちの一年生にとっては、良い薬になったはずだ」
先生はそう言ってフッと口元を緩めると、すぐにいつもの厳しい表情に戻り、周囲の部員たちを鋭い視線で睨みつけた。
「おい、お前たち! 小学生の素晴らしいプレーに見惚れている場合か! 全国を目前に控えた中学生が、格下にこれほど綺麗にコースを抜かれてどうする! 意識が甘いぞ!」
「「ひ、ひええっ!!」」
坂上先生の容容赦のない雷が落ち、コート内の部員たちが一斉に飛び上がるようにして各自のポジションへと散っていく。
「みゆ、私たちも負けていられないわね」
奈緒が素早く眼鏡の位置を直し、手帳にひびきくんのデータを書き込みながら私に囁く。
「ええ……そうね」
私はラケットを握り直した。
ひびきくんの見事なテニス、そして陽太や佐藤くんの真っ直ぐな評価。そのすべてが、私の胸の奥にある冷徹な闘志を心地よく刺激していた。
「そこまで! 今のラリー、水瀬は打点が上がった瞬間にきっちり叩けていたぞ。その感覚を忘れるな!」
坂上先生の声がコートに響き渡り、私は「はい!」と短く応えて汗を拭った。
ひびきくんの鮮烈なストロークを目の当たりにしたことで、コート全体の緊張感は数段階跳ね上がっていた。男子の1年生たちは、小学生に敗北した悔しさをバネにするように、泥臭くシャトルランや素振りに打ち込んでいる。
「いやー、それにしてもびっくりしたね。ひかりちゃんの弟くん、あんなに強いなんて」
休憩の合図がかかると同時に、美咲がポカリスエットのボトルを片手に私の隣に滑り込んできた。
「ええ。佐藤くんのジュニア時代の後輩というだけあって、基礎が完全に出来上がっていたね。……来年、彼が星和に入部してくるのが今から本当に楽しみね」
私はコートのベンチに腰掛け、視線を遠くのネットへと向けた。ひびきくんは坂上先生や陽太たちに実力を認められ、嬉しそうにひかりちゃんと一緒に帰路についていた。彼の見事なドライブ回転の軌道が、まだ脳裏に焼き付いている。
「さ、ひとしきり驚いたところで、頭を体育祭モードに切り替えないと。ねえみゆ、今年の体育祭のお昼ってどうする予定?」
美咲がボトルのキャップを閉めながら、ふと日常の話題へと戻してきた。
「え……? お昼、かしら」
問いかけられて、私は自分がそのことについて全く何も考えていなかった事実に気がついた。
去年の運動会では、旧校舎の裏の中庭にある大きな楠の下にテニス部のメンバー総勢20名近くが集まり、レジャーシートを広げて賑やかにお弁当を食べた。陽太のスタミナ唐揚げと私のお弁当の出し巻き卵をおかず交換したり、美咲や莉奈にからかわれたり、湊兄さんに写真を睨まれたりしながら、ただ純粋に楽しい時間を分かち合った記憶が蘇る。
けれど、今年は……。
水瀬家の血塗られた真相を知り、湊兄さんへの罪悪感から陽太への恋愛感情を胸の奥に押し殺している今の私が、去年と同じようにみんなの輪に入って、和気藹々とした幸せな時間を過ごしていいのだろうか。
心がチクリと痛み、戸惑いが胸に広がっていく。極力深く関わらないようにと陽太との間に一定の距離を置いているのに、あの賑やかな楠の下にまた集まれば、せっかく張り詰めて律している自分の理性が揺らいでしまうかもしれない。
「みゆ? どうしたの、フリーズしちゃって」
美咲が不思議そうに覗き込んでくる。
「ううん、何でもないわ。……お弁当のこと、少し考えておくね」
私は視線をボトルに落とし、努めて淡々と、感情の起伏を殺した声で返した。自分の心を氷のように凍らせることなど容易いはずなのに、去年のあの眩しい記憶が、どうしても胸の奥を揺さぶってしまうのだった。




