果てなき日常、群青の応援旗
九月二週目になると、星和学院の校内はにわかに慌ただしさを増していった。二学期の目玉イベントである体育祭が目前に迫っているからだ。
「はい、そこの男子! サボってないで応援旗の布地、ちゃんと押さえてて!」
放課後の教室。机を後ろに下げて作られた特設の作業スペースで、Bクラスの体育祭実行委員に選ばれた美咲の元気な声が響いていた。今年度のクラス分けでは、私と美咲、そして怪我が完治した健二くんが同じBクラスに籍を置いている。
「みゆ、ここのクラススローガンの文字、下書きお願いしてもいい?」
「ええ、いいわよ。文字の配置は中央でいいかしら」
私は手渡された白チョークを手に、Bクラスのテーマカラーである「群青」の巨大な布地へと向かった。テニスコートで見せる冷徹な視線とは少し違う、集中した眼差しで布に文字の輪郭を描いていく。
「あれからもう1年経ったのね!去年の運動会の障害物競走で、パンに飛びついたあの勇姿!最高だったわよ」
「……美咲、去年のことはもう忘れて。あなたと莉奈に変な顔を激写されて、本当に最悪だったんだから」
小さく抗議すると、近くで用具の搬入を手伝っていた佐藤くんが「ははは、あの写真は部内でも伝説になってるからね」と笑った。佐藤くんは湊兄さんに言われた基礎体力を日常から意識しているようで、重い応援用具を軽々と運んでいく。
「それにしても、去年の運動会はお弁当の時に陽太くんの唐揚げとみゆの卵焼きをおかず交換したり、湊先輩の『大切な人』の借り物競走で連れて行かれたり、色々あったよねー」
美咲がニヤニヤしながら言葉を重ねてくる。私は胸の奥が一瞬だけ疼くのを感じ、それを振り払うように必死でチョークを動かした。
その時、教室のドアがガラリと開いた。
「おーい美咲ー、頼まれてた青の絵の具、購買で買ってきたぞ」
入ってきたのは、Aクラスの陽太だった。別のクラスでありながら、美咲に買い出しを頼まれていたらしい。
「あ、陽太くんありがとー! 助かる!」
「ちっ、人使いの荒い実行委員だな……。お、みゆ。下書きか? 相変わらず上手いな」
陽太が私の隣に並び、手元を覗き込んでくる。
恋人関係という形は、今もそのままだけれど、私は彼への恋愛感情を胸の奥に深く、冷徹に押し殺している。嫌いになったわけではない。ただ、私には陽太と手を取り合って幸せになる資格など、今はどこにもないのだ。
頭をよぎるのは、水瀬家の血塗られた真相。
湊兄さんの実の両親である神崎夫妻の犠牲。あの凄惨な過去の引き換えとして、この世に生を受けてしまったのが私という存在だ。湊兄さんから全てを奪い、その犠牲の果てに生まれた私が、湊兄さんを置いて自分だけが誰かと結ばれ、幸せになっていいはずがない――。胸に深く刻まれたその強烈な罪悪感が、私の心を氷のように縛りつけていた。
私の恋愛は、湊兄さんを心の底から幸せにしてから。そう心に決心しているからこそ、今は陽太と一定の距離を保ち、極力深く関わらないように理性を働かせるしかなかった。
「陽太、買い出しありがとう。……でも、自分のAクラスの準備はいいの?」
私は視線をチョークに向けたまま、彼と目を合わせることなく、努めて淡々と事務的なトーンで言葉を返した。
「あっちの応援旗は莉奈が仕切っててさ。俺は力仕事くらいしかやることがないんだよ」
陽太が少し寂しげな苦笑いを浮かべ、教室の空気がわずかに沈みかけたその時、廊下の方からその重苦しさを吹き飛ばすような騒がしい足音が近づいてきた。
「おーい! リレーの走順が決まったぞ! 今年こそCクラスがトップをかっさらうからな!」
勢いよく教室のドアを開けて顔を出したのは、Cクラスの田中くんだった。その後ろからは、同じクラスの奈緒が呆れたように眼鏡の位置を直しながらついてくる。
「ちょっと瑛太くん、Bクラスの教室で大声を出さないで。美咲の拡声器よりうるさいわよ」
奈緒の冷静な突っ込みにも、田中くんの興奮は収まらない様子だった。
「だってよ奈緒! 去年の混合リレー決勝は、早川にギリギリ胸の差でかわされて2位だったんだぞ! 今年は同じCクラスにその陸上部エースの早川がいるんだ。陽太のAクラスも、健二や水瀬、松本のBクラスも、まとめて置き去りにしてやるぜ!」
韋駄天の血をたぎらせて自信満々に吠える田中くん。その言葉を聞いた瞬間、陽太の瞳にも、寂しげな色は消え、テニスコートで見せるような鋭い闘志が宿った。
「へえ、面白そうじゃん。俺もこの数ヶ月走り込みを続けて足腰を鍛え直してるんだ。トラックの上だろうがどこだろうが、お前には負けねえよ」
全国大会出場を決めたテニス部の面々は、当然のように各クラスの主戦力として期待され、クラスの垣根を超えて静かに火花を散らし始めていた。
「もう、みんなしてテニスの課題を体育祭に持ち込まないの! でも、うちのBクラスだって負けないからね!」
美咲がメガホンを掲げて参戦し、教室はいつの間にかいつも通りの賑やかさを取り戻していた。
夕暮れ時の教室に、群青の応援旗が静かに広がっていく。
十一月の全国大会という大きな決戦を前に、私たちは学校での日常を全力で駆け抜けていた。
自分の感情を厳しく律し、牙を研ぐ日々。けれど、この瑞々しく健やかな日常の積み重ねこそが、全国大会の怪物たちと対峙したとき、私たちの心を支える最強の盾になるのだと、誰もが本能的に理解しているようだった。




