群青の進撃、ブロック大会の幕開け
湊兄さんの十六歳の誕生日を祝った密やかな夜から、数日。
私たちは、遅れてきた祝福の温かな余韻を心の奥底に仕舞い込み、次なる決戦の舞台へと足を進めていた。
東日本地区予選を完全優勝という最高の形で突破した私たち星和学院中等部テニス部が、次に挑む戦場。それが、全国大会への最終関門である地区大会だ。
各県の代表校、つまり予選を勝ち抜いてきた猛者たちだけが集うこの大会は、ここを勝ち抜いた上位校にしか真の全国大会(本戦)への切符を許さない。まさに、負ければすべてが終わるサバイバルだった。
会場のテニスコートを包む熱気は、これまでの県大会の比ではなかった。
コートの周囲を取り囲む高いフェンスの向こうからは、各校の途切れることのない応援の声が地鳴りのように響いてくる。一歩足を踏み入れただけで、真夏のじっとりとした空気の密度が、一段階上がったかのような錯覚さえ覚えるほどだった。
「いよいよブロック大会だね、みゆ。ここを勝ち抜けば、ついに全国だよ……!」
美咲が、少し緊張を孕んだ声を出しながらラケットバッグの紐を強く握りしめた。その瞳には不安と、それを上回る強い闘志が宿っている。
「ええ。でも、私たちのやるべきことは何も変わらないわ」
私はいつものように冷静に、そして冷徹に言い放ち、青いユニフォームの襟を正した。
どんな強敵が相手だろうと、私の『波紋』の精度は完全に仕上がっている。付け入る隙など、相手に一寸たりとも与えるつもりはなかった。
「みゆ! 美咲! 気合入ってるな!」
女子コートの入り口近くで、聞き慣れた声が響く。
振り返ると、男子テニス部の面々が揃ってこちらに歩いてきていた。その中心にいるのは、世界の壁を経験して牙を研ぎ直した河村陽太だ。世界リーグの挫折から這い上がり、野生の飢えを完全に取り戻した彼の瞳には、一切の迷いがなかった。
「男子の方も準備万端みたいね、陽太」
「当たり前だろ! 留守中に女子が完全優勝なんてカッコいいことしてくれたんだ、俺が戻ったからには、男子も一歩も引く気はねえよ。全国のタイトル、全部星和がかっさらってやる」
陽太は不敵に笑い、拳をぐっと握りしめた。
今の彼には迷いのない強さがあった。今の星和学院には、男女ともに一切の死角は存在しない。
「おい、陽太。大口叩いて初戦でドジ踏むなよ。俺が特等席で見届けてやるから試合後毎回調整してやる」
「げ、マジですか湊さん。お手柔らかにお願いします」
陽太の少し後ろから、星和学院高等部の制服を崩して着た湊兄さんが、相変わらずの飄々とした佇まいで歩いてきた。
プロからの破格のスカウトを蹴り、「星和で日本一になる」と言い放った兄さん。今年は高等部が予選で敗退してしまったため、約束通り私たちの試合を最初から見届けるために、わざわざ会場まで足を運んでくれたのだ。
「そんなに睨むなよ、みゆ。今年の俺はただの観客席の住人だ、お前も全力で暴れてこい」
湊兄さんは少しきつい口調で陽太の頭を軽く小突きながらも、私に視線を向け、その瞳に身内に対する確かな信頼を宿した。星和のエースとして私たちの戦いを見守ろうとしてくれている。
「分かってますって、湊さん! 俺が戻ったからには、男子も女子に続いて完全優勝で全国へ行きますよ!」
陽太が勢いよく言い返し、星和のメンバーたちに一斉に闘志の火が灯る。
真夏の太陽が私たちの青いユニフォームを強烈に照らし出す中、全国大会への切符をかけた、星和学院の新たな進撃が今、静かに幕を開けようとしていた。
「ゲームセット! ウォンバイ星和学院、6-0!」
審判の無機質なコールがコートに響き渡ると同時に、観客席から大きなどよめきが沸き起こった。
ブロック大会の初戦、そして二回戦。私たち女子テニス部は、他県の代表校を相手に圧倒的な実力差を見せつけていた。
私の放つ『波紋』は、相手が血のにじむような練習で培ってきたであろう戦術や得意パターンを、呼吸を合わせるように冷徹に無力化していく。試合の流れを完全に支配し、オンとオフを切り替える私の揺さぶりに、対戦相手は終始、幽霊と戦っているかのような絶望の表情を浮かべていた。
「さすがみゆだね。相手に一本もリードを許さないなんて」
チェンジコートの際、ベンチで冷えたタオルを差し出しながら美咲が感嘆の声を漏らす。
「当然だよ。ここで手こずっているようでは、白河さんとの約束なんて守れないもの」
私は汗を拭いながら、視線を男子のコートへと向けた。
女子の快進撃に呼応するように、男子コートでも星和の青いユニフォームが躍動していた。
世界リーグの経験を経て一回り逞しくなった陽太のテニスは、以前のような野生的な荒々しさだけではなく、世界の重い打球をインプットしたことによる「凄み」が加わっていた。鋭いサーブがコートに突き刺さるたび、フェンス越しに観戦している他校の生徒たちから悲鳴に近い声が上がる。
「あいつ、打球の威力が前と段違いだな。世界の壁にぶつかって縮こまってたのが嘘みたいだ」
佐久間部長が、少しきつい口調ながらも感心したように呟いた。
私は観客席の最前列、手すりに肘をついた湊兄さんに目線を移す。
「兄さんから見ても、今の陽太は変わった?」
私がコートサイドから見上げて問いかけると、湊兄さんは俺の視線を受け止め、不敵に口元を歪めた。
「ああ。出国するときの死にそうな面構えに比べれば、今はあいつ本来のテニスに戻ってるな。世界のレベルを自分の身体に叩き込んできた上に俺たちがしごいてたんだ。……中学生レベルで対抗はできないだろうな。まぁ、まだまだ荒削りの部分が多いから危なっかしいところはあるがな」
湊兄さんは星和学院高等部のエースとしてのプライドを覗かせつつも、陽太の復帰によって男子のパズルが完璧に噛み合ったことを確信しているようだった。
男女ともに他を寄せ付けない強さでトーナメントを駆け上がる星和学院。完全優勝での全国大会(本戦)進出という目標に向けて、すべては順調に進んでいるように見えた。
しかし、準決勝が終了し、いよいよ決勝戦の組み合わせが決まったその時、大会会場の空気は目に見えて重く、不気味なものへと変貌していった。
掲示板に張り出されたトーナメント表。私たちの前に立ちはだかる最後の壁の欄に、その名前が刻まれる。
「――修徳舘」
美咲が対戦相手の名前を口にした瞬間、私の胸の奥で、冷徹な闘志が静かに、けれど激しく燃え上がった。
昨年度、私たちと死闘を繰り広げたあの強豪が、今年も一糸乱れぬ鉄壁の布陣を従えて決勝へと這い上がってきたのだ。
観客席から降りてきた湊兄さんが、少し目を細めて私たちの隣に立つ。
「また修徳舘か。あそこは一筋縄じゃいかない執念深さがあるからな。おい、陽太、みゆ。決勝だからって浮き足立つんじゃねえぞ」
「分かってますよ、湊さん。大丈夫、数ヶ月前の練習試合でもいい勝負できてましたから」
「その油断が命取りになると言ってるんだ。練習試合の結果からお前たちの動きも研究され尽くしているものと思って対応しろ」
陽太がラケットを肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべる。
「去年の雪辱も含めて、今年は完膚なきまでに叩き潰す。それだけですよ、湊さん」
私は修徳舘の選手たちが待機するコートの向こうを見据えた。
「――修徳舘」
美咲が対戦相手の名前を口にした瞬間、私の胸の奥で、冷徹な闘志が静かに、けれど激しく燃え上がった。
昨年度、私たちと死闘を繰り広げたあの強豪が、今年も一糸乱れぬ鉄壁の布陣を従えて決勝へと上がってきたのだ。
六月の練習試合で、私たちは修徳舘を男女ともに圧倒した。陽太は因縁の五十嵐を力でねじ伏せ、私も女子エースの藤堂さんを6-0で退けた。
だが、あのとき藤堂さんは確かに言っていたのだ。
『去年の映像を徹底的に解析させてもらったわ。あなたのあの、打球を殺す気味の悪い「無効化」のテニス……その攻略法はもう完成しているのよ』
「修徳舘の監督も選手も、あのボロ負けの中から、お前たちの『今の癖』や『隠しきれていない出力の限界』を徹底的に炙り出して、対策をこの二ヶ月で練り上げてきてるはずだ。牙を隠したつもりだろうが、あいつらの『鉄壁』をナメるなよ」
「……分かってるよ、兄さん」
私は修徳舘の選手たちが待機するコートの向こうを見据えた。
確かに、あの一戦で田中や佐藤くん、そして合宿帰りの二、三年生が見せた圧倒的なパフォーマンスも、一年生のひかりちゃんたちのデータも、すべて修徳舘の貪欲な執念に喰われ、解析されている可能性がある。
「上等だろ。対策されてるなら、その上から力で叩き潰すだけだ」
陽太がラケットを強く握り直し、獰猛な笑みを浮かべる。
「みゆ、行こう。6月のデータが流れているのなんて百も承知よ、その後私たちが体験した全てをぶつければ、二ヶ月前のデータなんて意味がないってこと思い知らせてあげるのよ」
美咲が私の隣に並び、力強く微笑む。
「ええ。星和のテニスに妥協はないわ」
私は毅然と言い放ち、青いユニフォームを翻して決勝のコートへと一歩を踏み出した。
六月の練習試合という「前哨戦」を経て、より緻密に、より冷酷に星和対策を仕込んできたであろう修徳舘。すべてをデータ化し、新芽を摘み取ろうとする宿敵との、全国大会(本戦)への切符をかけた大決戦の幕が、今まさに切って落とされた。




