群青の絆、託された最終戦(シングルスワン)
「女子シングルス2。星和学院、松本対、修徳舘、奥村」
審判の鋭いコールが有明の青空に響き渡り、美咲がゆっくりとコートへ歩みを進めた。
ここまでの対戦成績は2勝1敗。春花部長が文字通り泥臭く執念で繋いでくれた最高のバトンが、今、美咲の手に渡った。ここを美咲が制すれば星和学院のブロック大会優勝が決まり、全国大会への切符が確定する。まさに、星和の命運を懸けた大一番だった。
「美咲、あなたのテニスを信じてるわ。思い切り行ってきなさい」
私がベンチから声をかけると、美咲は「うん、みゆ! 待っててね!」と振り返り、強い覚悟を宿した瞳でラケットを握り直した。
対戦相手の修徳舘3年・奥村さんは、漆黒のユニフォームを纏い、ベースラインの後方で深く構えている。その瞳にあるのは、最上級生としての意地と、絶対に後輩へ繋ぐという狂おしいほどの執念だった。修徳舘のデータ班は、六月の練習試合で美咲が見せたフットワークや、奈緒との連携における細かな動きの癖を完全にインプットしているはずだ。単複の違いはあれど、美咲の「球際の強さ」を封じるための包囲網は、すでに完成しているように見えた。
「試合開始! 星和学院・松本サービス!」
「――らぁッ!」
美咲の放ったファーストサーブが、鋭い風切り音を立てて奥村さんのバックハンド側へと突き刺さる。
序盤から試合は激しいラリー戦となった。地獄の西園寺合宿をくぐり抜けたことで、美咲の肉体は基礎値から圧倒的に底上げされている。スピード、回転量、そして何よりも一歩の踏み込みの鋭さが、六月の時点とはまるで次元が違っていた。
奥村さんが深く突き刺してくるストロークに対し、美咲は驚異的な粘りで追いつき、力強い打球を相手のコートの隅へと打ち返す。相手の先読みデータを、進化した純粋な身体能力で上から叩き潰すような、アグレッシブなテニス。
「ゲーム、星和学院! 3-2!」
美咲がリードを保ったまま試合は中盤へと差し掛かる。しかし、修徳舘の『鉄壁』もタダでは崩れなかった。
奥村さんは美咲の鋭い突進に対し、あえてロブを混ぜて前後に揺さぶり、じわじわと体力を削る泥沼の持久戦へと引きずり込んできたのだ。有明の容赦ない猛暑が、美咲の体力を確実に奪っていく。
息を切らし、肩を大きく上下させる美咲。それでも彼女の瞳から光は消えなかった。
(……大丈夫。あの地獄の練習に比べたら、この程度の疲れ、なんてことない……!)
美咲は驚異的な執念で、誰もが「決まった」と思うような鋭いアングルショットに滑り込み、身体を投げ出すようにして拾い上げる。その執念が実を結び、美咲は3年の奥村さんを相手に一歩も引かないデッドヒートを繰り広げた。
だが、修徳舘の「絶対に終わらせない」という執念もまた本物だった。
奥村さんは足を痙攣させかけながらも、狂気的な粘りで美咲のミスを誘い、試合はついにタイブレークまでもつれ込む。最後は、奥村さんが放った気迫のパッシングショットが、ネット際へ詰めた美咲のラケットを弾き飛ばした。
「ゲームアンドセット! 7-6、ウォンバイ修徳舘!」
その瞬間、修徳舘の応援席から爆発的な歓声が沸き起こった。
美咲は全力を尽くし、あと一歩のところまで相手を追い詰めた。しかし、3年生の執念の前に、わずか数ポイントの差で涙を飲むこととなった。
「ごめん……みゆ、春花先輩……っ。決めきれなかった……!」
ベンチに戻ってきた美咲は、悔し涙をボロボロとこぼしながら、ラケットを抱きしめて肩を震わせた。
「謝る必要なんてないわ、美咲。あなたは最高の試合をした。大丈夫、あとは任せて!」
私は美咲の肩を優しく抱き寄せ、冷えたタオルを頭からかけてあげた。春花部長も「よく頑張ったわ、美咲。あなたの流した汗は無駄にはしない」と、その健闘を深く称えた。
対戦成績、2勝2敗。
これで完全に並んだ。男子が隣のコートで歓喜の優勝を決める中、女子の優勝の行方は、すべて最終戦のシングルス1へと委ねられることになった。
「女子シングルス1。星和学院、水瀬対、修徳舘、藤堂。選手はコートへ入ってください」
審判のコールが有明の空に厳かに響き渡る。
ベンチの奥からゆっくりと立ち上がったのは、修徳舘の絶対的エース・藤堂さんだった。漆黒のジャージを脱ぎ捨てた彼女の瞳には、六月の練習試合で私の『波紋』に出力を抑え込まれ、6-1で完敗したことへの凄まじい憎悪と、リベンジのための冷酷な炎が宿っていた。
「待たせたわね、藤堂さん」
私はラケットを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
水瀬みゆのシングルス1。
これまで手の内を隠し、出力を三〇%に抑えていた『波紋』では通用しないかもしれない、星和学院の不敗の誓いを背負い、私は凍りつくような冷徹な闘志を身に纏って、運命のコートへと歩みを進めた。
「女子シングルス1、試合開始! 修徳舘・藤堂サービス!」
審判の鋭いコールが響き、両校の応援席から地鳴りのような声援が沸き起こった。2勝2敗、文字通りの最終決戦。
ネットを挟んで対峙した藤堂さんの瞳には、六月の練習試合で味わった屈辱を晴らすべく、暗く、獰猛な炎が燃え盛っていた。
「待っていたわよ、水瀬さん。あなたのその澄ました顔を、今日こそ絶望で歪めてあげる」
トスが上がり、藤堂さんのラケットが強烈に振り抜かれる。
放たれた打球は、六月の時とは比較にならないほどの速度と、鋭い回転を伴って私のバックハンド側へと突き刺さった。驚異的なキックを見せるそのボールは、明らかに「対・水瀬みゆ」のために極限まで研ぎ澄まされたものだった。
――けれど、私の頭はどこまでも冷徹だった。
私は最小限のフットワークでボールの軌道上に入り、ラケットの面を合わせる。相手の威力をそのままなぞり、一番嫌がるコースへ滑らせる『波紋』。いつも通り、出力を抑えた守備的な「無効化」のリターン。
しかし、藤堂さんはその返球を、嘲笑うかのようなステップで待ち構えていた。
「――解析済みよ! あなたが打球を殺して返すコースなんて、すべて計算に入っているわ!」
バチィィンッ! とコートを抉るような鋭いアングルショットが、私の逆を突いてサイドライン際に突き刺さる。修徳舘のデータ班が二ヶ月をかけて導き出した最終結論。それは、私の「無効化」が最も機能しづらくなる、打点を極端に狂わせる「変則的な超高速スピン」と、その返球コースの先読みだった。
「ゲーム、修徳舘! 1-0!」
「みゆの守備が、完全に破られてるわね……!?」
ベンチの美咲が、驚愕の声を漏らす。春花部長も、修徳舘が仕込んできた「水瀬みゆ専用の包囲網」の緻密さに表情を険しくした。
藤堂さんは激しく肩を上下させながらも、勝利を確信した狂気的な笑みを浮かべてベースラインに立つ。
「どう? 水瀬さん。あなたの『無効化』のテニスなんて、圧倒的なデータと、それを上回る威力の前にはただの壁でしかないのよ!」
漆黒のユニフォームたちが勝利を確信して沸き立つ中、私は静かにラケットのガットを指先でなぞった。
「……藤堂さん。一つ勘違いしているわ」
私の口から漏れ出た声は、会場のうだるような熱気を一瞬で凍りつかせるほど、冷徹極まりないものだった。
「六月のあの試合。そして、今のゲーム。私は出力を抑えて、リターンする速度をあなたの打球より『少し遅く』調整していたの。あなたが私のテニスを『守備的な無効化』だと誤認するようにね」
「……何ですって?」
藤堂さんが怪繹そうに眉をひそめる。
観客席の最前列で腕を組む湊兄さんが、フッ、と残酷なまでに不敵な笑みを口元に浮かべた。湊兄さんは知っている。私がこれまで、星和のパズルを完成させるために、どれだけ自分の牙を隠し、出力を制御してきたかを。
『波紋』の本質は、相手の力を一〇〇%吸収し、それ以上のエネルギーに変換して撃ち返すカウンター。
本来は、相手の速度よりも遥かに『速く』して返すもの。
「見せてあげるわ。あなたが必死に解析したデータが、いかに浅はかで、無意味なものだったかを」
チェンジコートを終え、藤堂さんが再び鋭いサーブを放ってくる。先ほど私の守備を破った、渾身の高速スピンショット。
だが、今度の私は打球を殺さなかった。
ラケットにボールが吸い込まれた瞬間、相手のエネルギーをすべて反転させ、爆発的な出力を乗せてラケットを振り抜く。
――ガキィィンッ!!!
「――え?」
藤堂さんが反応するよりも早く、彼女のサーブを遥かに上回る『超高速の閃光』が、修徳舘のベースライン際へと突き刺さった。文字通り、目にも留まらぬ速度のカウンターリターン。
「ゲーム、星和学院! 1-1!」
審判のコールが響く中、藤堂さんはラケットを構えた姿勢のまま、呆然と立ち尽くしていた。
「な……っ、今のは、何……!?」
藤堂さんは、自身の足元でバウンドし、フェンスへと激しく衝突したボールを凝視したまま、硬直していた。
彼女が二ヶ月間、血の滲むような思いで磨き上げてきた「超高速スピン」。私の打球を殺す動きを封じるためのその牙は、今、それ以上の暴力的な速度となって自分の喉元に突き返されたのだ。
「――これが、「無効化』のテニスの本当の形だよ、藤堂さん。みんなは『波紋』って呼んでるわ」
私は冷徹に言い放ち、ラケットを構え直した。
これまでは相手の速度より少し遅く調整し、守備的な「無効化」に見せかけていたに過ぎない。しかし、出力を完全解放した『波紋』の前では、相手の打球が鋭ければ鋭いほど、重ければ重いほど、それを一〇〇%吸収して倍以上の速度へと変換し、絶望的な一撃として相手コートへ送り返す。
藤堂さんが狂気的な執念で放つ二の矢、三の矢。
それらすべてが、彼女の反応速度の限界を超える「超高速の閃光」となって、修徳舘のコートへと突き刺さっていった。
「ゲーム、星和学院! 3-1!」
「ゲーム、星和学院! 5-1!」
審判の無機質なコールが響くたび、修徳舘のベンチはまるでお通夜のような静けさに包まれていく。
「そんな……! 完璧に対策したはずよ……! 私たちのデータは、完璧だったはずなのに……!」
藤堂さんは息を切らし、狂乱したようにラケットを振り回す。しかし、彼女がどれだけコースを変えようと、打点を狂わせようと、私はただ最小限の動きでボールの正面に入り、ラケット面を合わせるだけ。
相手が必死に積み上げた「データ」という名の砂の城は、私の『波紋』が描き出す圧倒的な速度の前に、跡形もなく粉砕されていった。
「ゲームセット! 6-1、ウォンバイ星和学院! よって、対戦成績3勝2敗をもちまして、今年度東日本ブロック大会女子団体戦優勝は、星和学院中等部!」
審判のコールが有明の青空に鳴り響いた瞬間、星和の応援席から爆発的な大歓声が沸き起こった。
「やったぁぁぁーーーっ!! みゆーーーっ!!」
美咲がベンチから真っ先に飛び出し、涙を流しながら私に抱きついてきた。春花部長、莉奈、奈緒、そして一年生のひかりちゃんや結衣ちゃんも、お互いに手を取り合って歓喜の声を上げている。
コートの中央、ネットを挟んで対峙した藤堂さんは、力なく膝をつき、呆然とコートを見つめていた。その瞳からは、先ほどまでの傲慢な自信は完全に消え去り、底知れない絶望だけが残されていた。
「……あなたの勝ちよ、水瀬さん。データすら意味をなさないなんて……私たちは、最初から勝負にすらなっていなかったのね」
「いいえ。あなたの執念があったからこそ、私はこの力を解放できたの。感謝しているわ、藤堂さん」
私は静かに頭を下げ、コートを後にした。
手の内を明かすことにはなったが、全国を前にして私の『波紋』が完全な領域へと到達したことを証明するには、これ以上ない最高の舞台だった。
隣のコートに目をやると、一足先に優勝を決めていた男子部の陽太や田中くんたちが、我がことのように拳を突き上げて私たちの勝利を祝ってくれていた。男女アベックでのブロック大会完全優勝。星和学院の青いジャージが、最も輝いた瞬間だった。
観客席の最前列から降りてきた湊兄さんが、私たちの前に立ち、相変わらずの飄々とした佇まいで、けれど誇らしげに口元を歪めた。
「お前ら、最高の試合だった。みゆ、お前のあのリターン……特等席で見せてもらった。これなら、全国の化物どもが相手でも通用するだろう」
「ありがとう、兄さん。でも、私たちの本当の征途はここからよ」
手にした重みのある優勝トロフィーを抱えながら、私は群青色の空を見上げた。
東日本ブロック大会、完全優勝。
宿敵・修徳舘の執念を叩き潰し、確かな手応えを掴んだ私たちは、ついに真の決戦の舞台へと進む。十一月の終わりに待つ、全国中学生テニス選手権大会――。そこには、私の能動的な『波紋』をぶつけるべき絶対の宿敵、白河こころが率いる西園寺中等部が待っている。
星和学院の不敗の誓いを胸に、私たちの群青の征途は、いよいよ最高峰の戦いへと突き進んでいくのだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
今年も地区大会突破で全国に進むことになりました。
男子の試合もありますが、今年は省略しています。
全国大会は11月予定のため、しばらく学院生活の舞台に戻ります。




